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IceDoll  


 ‡ 第1章 ‡ 

   《1》



 月曜日、午後二時──。

 暖かく、日当たりの良いカフェの窓辺に座っていた鳴川零は、通りを行き交う人々を眺めながら、ぼんやりとコーヒーカップに口をつけた。

 のんびりと過ごせる休日の午後。

 太陽は燦々と輝き、明るい青空の中に真っ白な綿雲がゆったりと漂っている。

 こんな陽気の日には、家に閉じこもっているより、外出した方が気分も晴れやかになるだろう。

 だからなのか、いつもより人出が多く、街が活気づいている。

(……これから、何をしよう)

 歩道の向こう側にあるフラワーショップを眺めながら、零は小さな溜息をついた。

(新しい洋服も欲しいし、靴もいるかな。
 夏物のバッグも欲しいけど、今、金欠なんだよね……)

 たまの休日に、ああだ、こうだと優柔不断に思い巡らせているのは、結構楽しい。

 誰にも迷惑をかけないから、好きなだけ悩んでいられる。

(シャツを買ったら、すぐに予算オーバーになりそうだな。
 お試し買いするほど、今月は余裕無いし)

 華やかなショーウィンドーを横に見ながら、ぶらぶらとショッピングするのが好きだった。

 予算はいつもささやかだが、何を買おうかと考えているだけで気持ちが明るくなる。

 賑やかな街を眺めているのも好きだし、道行く人のファッションを観察しているだけでも十分に楽しめる。

 誰も他人の事を気に留めていないから、どんな奇抜なファッションをしていても、きっと放っておいてくれるだろう。

 零の背丈は百七十五センチと、女子としては高身長。

 全体的に細く、華奢に見えるプロポーション。

 丸みの無い体つきだから、今流行しているフェミニンな服装が、何となく似合わない。

 可愛らしい顔立ちとは言えないし、雰囲気もそれほど優しくないと思う。

「クールで、ユニセックスな雰囲気よね」と、言われているし……。

 友達のアドバイスを思い返していた零は、窓の前を通り過ぎてゆく少女を、いつの間にか視線で追いかけていた。

(でも……ああいうフワフワした服も、一度くらいは着てみたいなあ)

 明るく可憐な洋服は、まるで夢のように美しい。

 けれどそれは、「女性」のために作られた物。自分には絶対に似合わないだろう。

 もっと女の子らしくなって、周囲に溶け込めたら、ずっと感じ続けている孤独や疎外感も消えるだろうか。

 平和に過ぎる日々の中で、異分子として存在する自分を、少しは認められるようになるだろうか?

 楽しげにはしゃぐ少女たちの後ろ姿に、零は羨望の眼差しを向ける。

 あの日、生き方に限界を感じて、全てを変えたくなった。

 それまでの自分とは違う姿になって生活することに、ようやく慣れてはきたが──まだ、心が満たされず、胸に刺さる凍えた棘が抜けない。

 それでも、以前よりずっと楽になったのは、必要以上に意地を張り、強がらなくてもよくなったから。

 渋滞する交差点で、車のクラクションがけたたましく鳴り響く。

 零は我に返ると、暗く沈みかける思考を頭から振り払った。

(──まあいいか。試着して似合わなければ買わなきゃいいし。
 どうせなら、とびっきり可愛くて、綺麗な服を探してみようかな)

 そう……色は、パステルピンク。

 日頃は絶対に買わない色を探してみよう。

(せっかく春になったんだから、たまにはイメチェンしなきゃね)

 カウンターテーブルの上にカップを下ろした零は、窓ガラスに映る自分自身を励ますように、明るい微笑みを浮かべた。

 その瞬間、誰かの鋭い視線が、不意に肌に突き刺さる。

 ぎくりとして目線を上げた零は、窓ガラスの向こうに広がる風景を探った。

 赤信号で停まる車が並んだ通りの中に、ひと際威圧感を放つ黒塗りの車が停まっている。

 窓には濃い遮光フィルムが貼られているため、内部の様子をうかがうことはできない。

(怖いな……ヤクザだったりして)

 肌で感じた違和感と危険な匂い。

 見るからにその筋らしき車は、信号が青に変わると、そのまま滑るように走り出してゆく。

 息を止めて車の行方を目で追っていた零は、ひやりと絡みついた気配を断ち切るため、一度、瞼を閉ざした。

 今日は久しぶりの休日。だから、一日中楽しい事だけを考えていよう。

 コーヒーカップを載せたトレーを持って立ち上がり、零は窓辺のテーブルを後にした。



 信号が再び赤に変わり、車の流れが止まる。

 渋滞する交差点から抜け出すことができず、運転手の新堂貴也はうんざりして宙を仰いだ。

 今日は五十日(ごとおび)でもないのに、やけに道が混んでいる。

 誰かが鳴らすヒステリックなクラクション。

 自分ひとりなら、怒鳴りつけているところだ。

 だが今は、忍耐と自制を求められている時。

 新堂は、ルームミラーに映る後部座席を確認した。

 運転手である自分の役目は、安全かつ確実に、彼を目的地まで送迎すること。

 いざとなればボディーガードとして働くこと。

 内心の焦りと苛立ちを紛らわせようと新堂は窓の外に視線を走らせた。

 車の傍に建つカフェを何気なく眺めた時、新堂の目がふと留まる。

 カウンターテーブルに頬杖をつき、くつろいでいる女──まるで絵画のように、春の陽射しの中に淡く溶け込んでいた。

 陽光に照らされた亜麻色の髪が輝きを放ち、人間の中に天使が紛れ込んでいるようにも見える。

 夢幻的な彼女の美しさはどこか非現実的で、ごく平凡なカフェの光景ですら、新堂の視覚に心地良い快感をもたらしてくれた。

「やべーな──すっげえ美人」

 車内にいるのは新堂だけではない。

 それをすっかり忘れ、新堂は思わず浮ついた声を上げていた。

 すかさず、助手席から鉄拳が飛んでくる。

「バカ野郎、よそ見をするんじゃない。真面目に運転しろ」

「すみません、兄貴。でも滅多に見ない、綺麗な女なんですよ。
 モデルなんですかねえ、あれ? テレビや雑誌で見たことないけど」

 頭を叩かれ、新堂は即座に謝りながらも、窓の外を指差してみせた。