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IceDoll  


 ‡ 第2章

   《10》



「なーに、零ちゃん。今日は、何だかご機嫌じゃなーい?」

 バーテン用の仕事着に着替え、カーテンで仕切られたドレッシングルームから出ると、待ち構えていた真那が飛びついてくる。

 真那の今日の衣装は、真っ白なウエディングドレス風。

 後ろの裾は床に届くほど長いが、前側は太腿半ばまで。

 肩口から背中までが大きく開いたデザインだった。

 白レースの手袋をつけた真那の手を取った零は、恭しくお辞儀をして、指にキスをしてみせる。

「こんばんは、お姫様。今日のドレスも自前なの?」

「そーなの。お兄様に買ってもらっちゃった。
 それで、零ちゃんがご機嫌な理由は?」

 嬉しそうに笑った真那は、すぐに鋭く切り返してきた。

 真那の外見とお喋りに惑わされてしまうと、痛い目を見る。

 おっとりとしているように見えるが、彼女は人をよく観察しており、頭の回転も速かった。

 零が話をそらそうとしたことも、お見通しだったらしい。

 照れ臭さを隠すように、零は前髪を掻き上げた。

「別に大した事じゃないんだけどね。
 実は、廣田さんに食事に誘われたんだ」

「ええーっ? 何時、どこで? それで零ちゃん、OKしたの?」

 本気で驚いたのか、真那は零の腕をつかんで、続けざまに質問してくる。

「昨日、彼が偶然《KATZE》に来たんだ。
 それで、ばれちゃったんだよね。
 どうしようかと思ったんだけど、まあ食事ぐらいなら良いかと思って。
 口止め料代わりってことかな?」

 大した事ではないと言うように、零は肩をすくめた。

 本当は、初めてのデートで、どんな風に振る舞えばいいのか、よく判らない。

 月曜日を考えるだけで、今から少し緊張してしまう。

 瞳をキラキラ輝かせた真那は、両手で頬を押さえた。

「そーなの? でも、零ちゃん、嫌じゃないみたいね。
 ならいいんだけど……。
 廣田さんなら大丈夫だと思うけど、気をつけてね。
 何かあったら、すぐに連絡して――」

 興奮して喋っていた真那の声が、徐々に小さくなる。

 大理石の床を勢いよく叩くハイヒールの足音が、カツカツ、カツカツ……と、ドアの向こうからだんだん近づいてくるのだ。

 零と真那は同時に息を止め、顔を見合わせた。

「真那っ! もうミーティング始まるわよ!!
 ぐずぐずしてないで、さっさと来なさい!!」

 更衣室のドアが大きな音を立てて開き、迫力のハスキーボイスが飛び込んでくる。

 登場したのは、背の高い、恐ろしいほど妖艶なホステスだった。

 豊満な胸を誇らしげに見せつけるような黒いドレスを身につけ、大きな宝石のチョーカーで首を飾っている。

《クリスタルローズ》ナンバーワンの静香だった。

 ハイヒールの音を響かせながら歩み寄ってきた静香は、硬直している真那には冷ややかな眼差しを浴びせ、零にはとろけるような微笑みを向けてきた。

「はい、これ。お店に来てたけど、零ちゃん宛なの」

 A4サイズの封筒を手渡された零は、戸惑いながらも、静香に軽く頭を下げた。

「ありがとうございます、静香さん。
 ごめんなさい、真那を引き留めていたのは、僕なんです」

「んー、零ちゃんは可愛いから許してあげる。
 真那、あんたは、さっさと行きなさい!」

 両腕を組んだ静香が厳しい声で叱りつけると、真那はすねたように唇を尖らせた。

「ずるーい、静香姉さん。零ちゃんには、いっつも優しいんだから」

「あんたはいつもギリギリでしょ!」

 静香に小突かれながら更衣室を出ていった真那を見送り、零は小さく苦笑すると、受け取った封筒を慌ててロッカーに片づけた。

 自分宛の郵便物が、何故《クリスタルローズ》に届いていたのか、不思議な気がした。

 店を引き取り場所に指定したことなど、今まで一度も無いというのに……。

 すっきりしないまま、零はロッカーを閉めた。



 仕事を終えて帰宅すると、すでに午前四時を過ぎていた。

 明日は《KATZE》が定休日ということもあり、少なくとも午前中はのんびりしていられる。

「今日はゆっくりお風呂に入って、ぎりぎりまで寝てようかな」

 立ちっぱなしの仕事のせいか、帰る頃にはいつも足がむくんでいる。

 お気に入りのラベンダーの入浴剤を入れた零は、バスタブに入ると瞼を閉ざした。

 一時間ほどかけて入浴をし、眠る準備をし終えた時、零はふと思い出して、静香に渡された封筒に視線を向けた。

「誰からだろう?」

 差出人を確認すると、古谷会計事務所と封筒に印刷されている。

 その名前に、全く心当たりが無い。

 零は首を傾げると、ペーパーナイフで封筒を開け、中身を取り出してみた。

 最初に目に飛び込んできたのは、額面五千万円という借用証書のコピー。

 名義は、鳴川栄一郎。

 零の父親だった。

 思考がフリーズする。

 心拍数の急上昇を感じながら、重なっている書類を、一枚ずつ確認する。

 そのどれもこれもが借用書。

 総額合わせると五億円という莫大な金額だった。

(こんな物が、どうして送られてきたんだろう?
  それも、私のアパートじゃなく、お店の方に……)

 思いがけない事態に直面し、頭が真っ白になる。

 震え始めた零の手から、書類がばさりと床に落ちた。

 そもそも両親には、大学で勉強していると言ってある。

 実家に負債がある事は知っていたから、奨学金とアルバイトで生活しているということも。

 学費の高い私立女子校に通っていた妹の咲妃も、一度は退学させられそうになっていたが、それを零は無理に押しとどめた。

 咲妃だけは、何としてでも今まで通りの生活をさせてやりたい。

 零が《クリスタルローズ》のアルバイトを始めたのも、その思いがきっかけだった。

 家計を助けるために実家に仕送りを続けているが、両親には高額収入のアルバイトが「夜の仕事」だとは伝えていない。

 いわゆる水商売、それもニューハーフパブで働く事を、両親はきっと許してはくれないだろう。

 だから、実家には、バイト先の住所や電話番号も教えていない。

 大学を中退し、アルバイトに明け暮れる生活を送っていることがばれたら、父も母も嘆き悲しむ。

「早く帰ってきなさい」と怒るだろう。

 零に苦労を強いることを両親は望んでいないし、その思いは痛いほどに感じられる。

 だが、それでも零は、家族に……自分を助けてくれた鳴川家に恩返しがしたいと、強く願っていた。



 零が鳴川家の養子であることを知ったのは、小学校四年生になった頃。

 近所に住むおばさんたちの噂話を、偶然、公園で耳にしたのがきっかけだった。

「鳴川さんちの零ちゃんって、家の前に置き去りにされていたんでしょ?
 ちょうど車で通りがかった時、見たって人がいるのよ。
 捨てた親は見つからなかったけど、乳児院に送る前に、結局、鳴川さんが引き取ることにしたって――」

「可愛そうに」と同情的な声が上がり、「血が繋がってないから、全然似てないのよね」と好奇心に満ちたやり取りが続く。

 時々、誰かから言われた言葉。

「お父さんにも、お母さんにも、似てないね」と。

 その理由が、判った。

 ドーム状になった滑り台の内側に座り込んでいた零は、公園から人がいなくなるまで、その場から動けなかった。

 背中のランドセルがずっしりと重くて、立ち上がることができなかった。

 自分は、大好きな父と母の子供ではないのか?

 恐ろしい疑惑が胸に刻まれても、両親に確認することはできなかった。

 聞いてしまえば、大切な場所が壊れてしまいそうで。

 自分の躰の異常に気づいたのも、ちょうど同じ頃。

 何となく自分が異分子のように感じ始めていたから、周囲の目や、大人の些細な言葉がいつも気になってしまう。

 表面上は何も知らないふりを続けていたけれど……不安が限界まで膨れ上がり、だんだん笑うことができなくなった。

 だから、中学に進んだ時、市役所に戸籍謄本を取りに行って――結果は、養子。

 苦しくて、苦しくて、ひとりでは抱え込めなかった。

 会社から帰宅した父と母の前で、泣き崩れた。

 二人は一生懸命事情を説明して、何も変わらないと言ってくれたけど。

「捨て子」という烙印が、癒えることの無い火傷のように、零の心に刻みつけられた。

さらに、それだけではなく――。

 暗い眼差しで、床に散らばっている書類を見ていた零は、ふと形式の違う用紙を認め、拾い上げた。

 それは、高校時代の零の写真が貼られた進路希望調査票。

「なんで、これが……」

 打たれたように、躰が激しく震え出す。

 黒縁の大きな眼鏡をかけた少年が、緊張した顔でこちらを見ている。

 故郷に残してきた、思い出すだけで苦痛になる過去。

 そんなものが、どうして送られてくるのだろう?

 そもそも、学校外部に流出するはずのない書類が、何故、こんな所にあるのか。

――第一希望進路は工学部建築科。インテリアデザインを学びたいとのこと。

 懐かしい担任教師の筆跡でさえ、今は零の心を深く傷つける。

 過去の自分と決別できたと思っていたのに、こんなにあっけなくトラウマが蘇ってくる。

 もう嫌だと必死で叫んでいた心の悲鳴が、耳の奥で弾ける。

 進路希望調査票には、家族写真までが添付されていた。

 いったい、誰が、こんな事を?

 零が抱える秘密を暴き、嘲笑うような真似をして、何を企んでいるのだろう。

 長い間会っていない家族の写真を手に取ると、零の目から涙がこぼれ落ちた。

「お父さん、お母さん、咲妃……」

 唇を噛みしめ、流れ落ちてくる涙を必死でこらえる。

 鼻を詰まらせながら、深呼吸を何度も繰り返した零は、束になった借用書のコピーをもう一度見直し始めた。

 送られてきた借用書の借用期限が、来月末に迫っている。

 だが、今の鳴川家が、五億もの大金を一ヶ月で用意することなどできるはずはない。

 鳴川家は、祖父の代から貿易会社を経営していた。

 しばらくは好景気だったこともあり順調だったが、バブル経済が弾けてから、負債がどんどん膨らんでいったらしい。

 それでも倒産しなかったのは、父栄一郎の手腕と、鳴川家にそれなりの財産があるから――そう、教えられてきた。

 鳴川家所有の土地や家屋を担保にして、銀行から融資を受けられるから、何の心配もいらないと。

 だが恐らく、長引く不況で経営状態はさらに悪化してゆき、きっと融資が差し止められたのだ。

 最終手段として、父は町金に手を出し、多重債務に陥ったのだろう。

 つまりこれは、差し迫る借金返済の督促なのか。

 息子である、零にまで?

 借金取りからは逃げられないと、暗にプレッシャーをかけてきているのだろうか。

 だが、そもそも零が《クリスタルローズ》で働いていると、どうやって知ったのだろう。

 不可解な進路調査票まで送り付けられてきたということは、鳴川家というより、零個人に対して何らかの思惑がありそうだった。

 合法的な手段で、こんな物が世間に出回るとは考えにくい。

 借金の督促なら、まずは零のアパートに送ってきてもいいはずだった。

 考えれば考えるほど、黒々とした不安と疑惑が心を脅かす。

 零は頬を伝う涙をこすりながら、封筒の差出人をもう一度確認した。

 手がかりをつかむためには、怖くても、行くしかない。

 進路希望調査票といい、家族にも知らせていない《クリスタルローズ》が送付先だったことといい、まるで零への招待状のようだから。

 全てを知っていると嗤いながら、手招いているように。

「古谷会計事務所。後で、ここに行ってみよう」

 低く呟いた零は、ローチェストの上に置かれた目覚まし時計を見つめた。

 午前六時――会社が業務を開始するには、少なくとも三時間はある。

 今はきちんと眠って、頭をしっかりとさせてから問題に対処しなければならない。

 寒々しく感じるベッドに入った零は、乱れ打つ心臓をなだめるように胸を押さえ、ぎゅっと瞼を閉ざした。