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IceDoll  


 ‡ 第2章

   《11》



 古谷会計事務所は、《クリスタルローズ》からさほど離れていない場所にあった。

 零は、日頃着ることのないグレーのスーツに、高校時代には日常だった大きな黒縁眼鏡を久しぶりにかけていた。

 相手が高校時代の写真を見ている以上、女の格好をして赴くわけにはいかない。

 何が目的なのかは判らないが、とにかく相手に弱みを見せることだけはできなかった。

 覚悟を決めるように唇を引き締めた零は、厳しい表情を浮かべたまま、古谷会計事務所の受付に向かった。

「すみません、十時にお約束をしていた鳴川と言いますが」

 受付嬢は零の顔を見つめ、艶やかに微笑み返す。

「お掛けになって、少々お待ち下さい。ただ今社長にお取り次ぎいたします」

 会計事務所のわりには大きなビルであり、正面もガラス張りで、明るく清潔感のある雰囲気だった。

 エントランスホールには観葉植物が置かれており、座り心地の良さそうなソファもある。

 気が高ぶっていたせいでほとんど眠れなかった零は、柔らかなソファに腰を沈めた。

(思ってたより、ヤバそうな所じゃなさそうだ)

 暗くいかがわしい雰囲気の事務所を想像していた零は、拍子抜けをして、ほっと溜息をつく。

「――鳴川様、お待たせいたしました。
 ご案内いたしますので、こちらにどうぞ」

 エレベーターは最上階で止まった。

 この最上階には二つの部屋しかない。

 ひとつが社長室、もうひとつが応接室とのことだった。

 応接室に通された零は、そこで待っていた人物を見て、全身に鳥肌が立つのを感じた。

 身長はそれほど高くない。

 恐らく零と同じくらいだろう。

 痩せた体つきで、鷲鼻気味の鼻が高く尖っているせいか、全体的にシャープな印象だった。

 そして何より、愛想笑いを浮かべているが、その男の鋭い目つきは尋常ではない。

 爬虫類を思わせる冷たい双眸は狡猾な光をたたえ、零の動き全てを、徹底的に観察しているように見える。

「あなたが鳴川零さんですか。
 私は社長の古谷と申します。初めまして」

 古谷と名乗った男は名刺を取り出すと、零の前に提示した。

――古谷会計事務所社長、古谷剛(ふるや ごう)。

 名刺に書かれた名前を確認し、目を伏せたまま彼に挨拶を返した零は、ふと違和感を感じた。

 四十代前半ぐらいに見える古谷は、ピンストライプが入った紺色のスーツを着ている。

 ワイシャツは鮮やかなブルーで、ネクタイは黒に近いブルー。

 少々派手であるとはいえ、服装の趣味は悪くなかったが、この鋭すぎる眼差しの男が、会計事務所の社長だとは到底思えない。

 偶然、古谷の足元に視線を落とした零は、違和感の正体を悟った。

 彼が履いている黒い靴は、つま先が細くとんがっていて、銀のバックルとエナメルがピカピカと光っている。

(ビジネスシューズにしては、ハードすぎないかな、それは……)

 ちらりとそんな事を思ったが、すぐに気を取り直して、零は古谷に来訪の用件を伝えた。

「昨日、この封書を受け取りました。
 これがどういう事なのか、ご説明をお願いしたいと思ってうかがいました。
 借用書の存在はまだ納得できるのですが、何故、私の高校時代の進路票や、家族の写真までが添付されているのですか?」

 古谷は黙って零の話を聞いていたが、一度、返答を迷うような視線を天井に向けた。

「鳴川さん、この件は少々事情が込み入っておりましてね。
 それはそうと、あなたがお勤めになっている《クリスタルローズ》のテナントビルは、実は私のものなんですよ。
 絵里子ママから、あなたの噂は以前からよく聞いていました」

 古谷社長の言葉を聞いて、零は愕然とした。

「あなたがオーナーだったのですか?」

 爬虫類めいた双眸を細め、古谷は薄い唇をつり上げて嗤う。

 そうすると、今度は奇妙なほど狐っぽく見える。

「そうです。ママから何か聞いていませんか?」

 絵里子ママによれば、《クリスタルローズ》が入ったテナントビルのオーナーは、広域指定暴力団荒神会の元幹部。

 ただ、そう答えれば、絵里子ママに迷惑をかける気がして、零は表情を変えずにゆっくりと首を横に振ってみせた。

 心臓の鼓動が、肋骨を叩くほど強く、速くなる。

 握りしめた掌に、じっとりと汗が滲んだ。

 強張った零の顔を見つめていた古谷は低く笑い、ソファの背にもたれて、無造作に足を組んだ。

「正直言うと、俺も少々戸惑っているんだよ、零ちゃん。
 突然降って湧いたような仕事だったもんでね。
 つまり、俺にもよく判らない。
 詳しい事情が説明できない。
 それでも理由を知りたければ、俺について来るしかないが、どうする?
 あんたが知りたがってる事に答えられるのは、ひとりだけだ」

 突然、馴れ馴れしく名前を呼び、くだけた口調で話し始めた男を、零は警戒しながら見返した。

「――それは、誰なんですか?」

「新東海グループの会長って言ったら、あんた、判るか?」

 にやにやと笑う古谷の言葉に困惑しながら、零は再び頭を横に振った。

「ふーん。なら、荒神会若頭鷲塚って言ったら、思い当たることは?」

 腕組みをした古谷の目が一瞬鋭く光る。

「……荒神会? どうして――」

 かすれた声で呟いた零は、はっと持ってきた書類ケースを見下ろした。

「もしかして、この金融機関は、荒神会の系列会社ということなんですか?」

「まあ、そんなところだな。
 言っておくが、俺はこう見えてもカタギだ。
 この会社の社員や、持ちビルに対する社会的責任ってやつも背負ってる。
 だから、あんたをどうこうしようとは、少なくとも俺は考えちゃいないがね」

 古谷は考え込むように天井を仰いだが、不意に人の悪い笑みを浮かべ、零を見つめた。

「さあ、どうする? 俺も忙しいから、いつまでもあんたに付き合ってる暇はない。
 だが、鷲塚に会いたけりゃ、連れて行ってやる。
 ひとりで出向いた所で、追い返されるのがオチだろうからな」

 ぐずぐずと思い悩んでいる暇はない。

 自分自身の事はともかく、家族に、特に咲妃に何かあったらと思うと、それだけで胸が張り裂けそうになる。

「――行きます。会わせてください、その鷲塚という人に」

 奥歯を食いしばって心の動揺を抑えた零は、古谷の目を見返し、冷静な声でそう告げた。

 零の様子を観察していた古谷は、何か面白いものを見つけたかのようにふっと微笑を浮かべると、座っていたソファから、勢いをつけて立ち上がった。

「わかった。じゃあ今からあんたを鷲塚の所まで連れて行く。
 ただし、その後は責任持てないぞ。
 相手は本物の極道だ。
 怖けりゃ、とっとと帰った方が身のためだ」

「判ってます。あなたにご迷惑はおかけしません」

「いい度胸だ」

 古谷はにやりと笑う。

 酷薄そうに見える彼の目が、一瞬和んだ気がした。

「車を回させる。ちょっと待ってろ」

 そう言って、古谷はデスクの内線から電話をかけ始めた。

「俺だ。地下に車を一台回せ。
 それから、午前の予約は全てキャンセルしろ。
 ちょっと急用ができたからな。
――はぁ、無理? バカ野郎! 
 それを調整するのが、秘書ってもんだろうが!!」

 突然響いた大きな怒号に、ソファに座っていた零は飛び上がりそうになった。

(……ろくでもないことに、巻き込まれたような気がする)

 目の奥に鈍い痛みを感じる。

 寝不足のせいなのか瞼が重い。

 レンズに度は入っていないのだが、久しぶりに眼鏡をかけたせいかもしれない。

 眼鏡を外してしばらく眉間を押さえていた零は、不意に電話の声が途切れ、部屋が静かになっていることに気づいた。

 顔を上げると、古谷が唖然としたようにこちらを見ている。

「何でしょう?」とは聞けず、零は首を傾げた。

 すると古谷は受話器を置き、重々しい溜息をつく。

「……まあ、仕方がないか。
 ほら、来い。エレベーターで下りるんだ」

 古谷の言葉に不審を感じながらも、大きな黒縁眼鏡をかけ直した零は、促されるまま、社長室直通のエレベーターに乗った。

「オーナーは、お店の方にはいらっしゃいませんよね?」

 無言で階数表示パネルを見上げている古谷に訊ねる。

 肩越しに零を振り返った古谷は、ふんと鼻を鳴らした。

「オカマは嫌いなんだ。仕事だからママには時々会ってるがね。
 あそこは、女にしか見えねえ男がいるから、怖いんだよ」

「じゃあ、何でテナントを貸してるんですか?」

「金になるからに決まってるだろ。じゃなきゃ何で……」

 後半はほとんど独白だったためによく聞き取れなかったが、零はくすりと笑ってしまった。

 自分もまた、女とも男とも判らない生活を送っていると言ったら、この男はどう思うのだろう?

 零にとってはほとんど日常になっているニューハーフの世界だったが、世間の風当たりはまだまだ強いらしい。

 地下で止まったエレベーターが開くと、目の前のエントランスに、真っ白なメルセデスベンツが止まっていた。

 それが今から向かう場所を象徴しているように見え、零は表情を改めた。

 内心の動揺を見抜かれないよう、冷たい仮面をつける。

 アイスドール――本当に、そうなれたらいい。

 決して何も感じないように。

 感情的になれば負けてしまうだろうと、零は直感していた。