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IceDoll  


 ‡ 第2章

   《13》



 零は息を詰まらせ、小刻みに震える手を握り締めた。

 淡々と語る鷲塚の言葉が、足元から凍える恐怖となって躰を縛りつける。

「――あなたは、僕に何をさせたいんですか?
 脅迫するつもりなら、今から警察に……」

 意地を張り続ける零に、鷲塚は謎めいた眼差しを向けた。

「お前は、自分の足でここに来た。帰れるとでも思っていたのか?
 だが、帰りたいなら、お前の代わりに妹を呼び寄せるだけだ。
 手筈はすでに整えてある。
 いずれにせよ、十日後に一億の返済がなされなければ、お前か妹のどちらか、借金の形にもらう。
 返済が全て終わるまで、頑張って働いてもらおうか」

 冷やかな揶揄を含ませた鷲塚は、蒼白になり、言い返すこともできないでいる零に、さらに冷酷な言葉を投げかけた。

「お前の知らない裏世界には、面白いクラブもあってな。
 生きたまま人間を切り裂き、犯す。
 クラブの会員は、ほとんどが金も暇も有り余った有力者だ。
 彼らは刺激に飢えているから、それを解消するためなら何でもするだろう。
 消耗が激しいから、女には高い値がつく。
 一度入れば、二度と日の目を見ることはない。
 逃走させないようシャブ漬けにされ、使えなくなれば臓器を奪われ、最後は人知れず魚の餌になる。
 お前の妹を、そこにやってもいいんだぞ」

 非情の瞳は冗談を言っているようには見えない。

 激しいショックを受けた零は大きく目を見開き、青ざめた顔をゆっくりと横に振った。

「咲妃には、手を出さないで。僕なら、どうなってもいいから……」

 絶望に追い詰められ、氷の仮面が砕け散る。

 セピア色をした零の瞳が潤み、すうっと一粒の涙が滑り落ちた。

 鷲塚は立ち上がると、零の腕をつかんで己の正面に立たせた。}

 本来の顔立ちを覆い隠す眼鏡を無造作に投げ捨てると、鷲塚は顎をつかんで零を見下ろした。

「――綺麗な顔をしているな、お前は。
 妹の代わりに、お前を風俗かクラブに売ってもいいかもしれん。
 美少年が好きな男たちは、案外に多いものだ。
 男の股ぐらに跪いて、犯されてみるか?」

 零は声にならない悲鳴を喉から迸らせた。

「……風俗だけは嫌だ。
 それぐらいなら、僕を殺して、臓器を売り飛ばせばいい」

「それを決めるのは俺の仕事だ。
 金を返さない限り、お前に選択権は無い」

 打ちのめされた零は、ずるずるとその場に崩れ落ちそうになった。

 だが腕をつかまれているため、それすらも許されない。

「お願い、他の事なら何でもするから、風俗だけはやめて……。
 あなたが言うなら、何でも従う、殺されてもいい。
 でも、躰を売るのだけは、絶対に嫌だ。
 それくらいなら……死んだ方がいい」

「死ぬ覚悟があるなら、男に抱かれるくらい楽なものだろう。
 そのうちに慣れる。
 毎日十本、口と尻に咥え込むだけだ。
 お前が励めば、金はすぐに作れる」

「いやだ……イヤ、お願い……私を、殺して……。
 誰にも、知られないうちに…死なせて……咲妃の代わりに――」

 悲痛な声でそう訴える零を、鷲塚は冷ややかに嘲笑う。

「普通は命乞いをするものだがな。お前、死にたいのか?」

 力の抜けた零の腰に片腕を回し、鷲塚は問いかける。

 朦朧とした眼差しで鷲塚を見上げ、零はうなずいた。

 死への誘いを受け入れるように――。

 血の気の失せた零の頬を指先でなぞった鷲塚は、鋼の双眸を満足げに細め、耳元でひどく優しく冷艶に囁いた。

「我が儘を言える立場か? だが、まあいい。
 それほど言うなら、俺がお前を、今ここで買ってやろう、一億でな。
 お前の命ひとつで、この自殺した男の金額は支払える。
 両親や妹を助けたいんだろう……零? 
 家族を救いたければ、俺のものになれ」

 声と吐息が鼓膜に触れ、電気が流れたかのように躰がびくりと震える。

 死が囁く、甘美なまでの恐ろしい誘惑。

 零は涙を溜めたセピアの双瞳を瞠った。

「私の……命……?」

 十日後に期限が差し迫った借金は、それで全額返済できる。

 全てが帳消しになったわけではないから、多少の時間稼ぎにしかならない。

 だが、一ヶ月という時間があれば、何か他に解決方法が見つかるかもしれない。

――本当なら、とっくに失われていたはずの命。

 家族のために失ったとしても、決して後悔はしない。

 度重なるダメージで、零の思考はすでに麻痺していたが、その想いだけは強く心の中に刻まれている。

 鷲塚の言葉は死へと導く絶望であり、一縷の希望……ここで拒否すれば、次に狙われるのは間違いなく咲妃だから。

 両親にとって、そして零自身にとって何よりも大切な妹を、犠牲にするわけにはいかない。

「私を……死なせてくれるなら……あなたが、私を殺してくれるなら――」

 躰に、力が入らない。

 支えが無ければ、崩れてしまう。

 朦朧と霞みかけた視界の中で、鷲塚の鋼の双眸が鋭く眇められる。

「俺のものになるな?」

 零はうなずいた。

「契約成立だ。契約書にサインをしてもらおうか」

 鷲塚が手を離した途端、糸が切れた人形のように、零は床の上に崩れ落ちていた。

 鷲塚はあらかじめ作成させておいた契約書を提示する。

 合法的な書式に見えるが、しかしその実は人身売買の誓約書でしかない。

 ソファにしがみつくようにして座り直した零は、暗い眼差しでその書類を見つめた。

(……こんな紙切れ一枚で、この命を失う。
 まるで、死神と契約をしているみたいだ――)

 一つの命と引き替えに、家族の命を助けてもらう。

 命を売ったのは鳴川零、そして買った死神の名前は――鷲塚海琉。

 名前を書くペンが震えてしまい、ようやく書き終えた時、零は憔悴しきってぐったりとソファに倒れ込んでしまった。

 鷲塚は契約書を取り上げると、部屋に置かれている電話から、誰かに細かく指示をし始めたようだった。

(もう何も、聞きたくない……)

 感情までも死神に売り渡してしまったのか、涙すら出てこない。

 躰は重く、何故か無性に眠くなってきていた。

(――どうせ死ぬのなら、もう目覚めなくてもいい)

 全ての意思が闇に引き込まれるのを感じながら、零は気を失っていた。




「兄貴、判りましたよ。ハヤトにクスリを流していた連中」

 慌ただしく総本部事務所に戻ってきた新堂は、高宮が詰める奥の部屋に、珍しいメンバーがいる事に驚いた。

「お久しぶりです、古谷の兄貴」

 礼儀正しく頭を下げた新堂を見て、古谷が皮肉っぽく笑う。

「俺はもうカタギなんだからな。その兄貴ってのはよせや」

「あなたを見ても、誰もカタギの人間とは思いませんよ」

 くすりと笑ったのは、東林総合警備株式会社の若き社長。

 何故か一緒に仲良くコーヒーを飲んでいる東山を見て、新堂は思わず首を傾げた。

「あれ、東山社長まで。何かあったんですか、兄貴?」

 新堂が訊ねると、高宮は大きく息を吐き出した。

「古谷さんは、あの鳴川零をここまで連れてきたんだ」

「へーえ、ついに落としたんですか、若頭。
 これからどうするんでしょうね?」

 興味をそそられたような表情を浮かべた新堂を、高宮はじろりと睨む。

「俺に聞くな。それより、どうなっているんだ、クスリの流れは?」

「ハヤトにクスリを流しているのは、北聖会系九頭竜組の若い組員です。
 俺の昔の同僚が、取引現場を目撃したことがあるらしいんで」

 慌てて説明を始めた新堂の話を聞きながら、高宮は厳しく双眸を眇めた。

「九頭竜か。あそこは、昔からクスリを扱っていたな」

 高宮が考え込むと、古谷がにやにやと笑いながら身を乗り出す。

「何の話だ、おい。俺にも聞かせろや」

「古谷さん、あなた、カタギじゃなかったんですか?」

 呆れたように笑いながら東山が訊ねると、古谷はふふんと鼻を鳴らして胸を反らした。

「情報通じゃなきゃ、この業界も渡っていけねえんだよ。
 それに関しちゃ、カタギもヤクザもねえだろ?
 それで、新堂――その九頭竜のチンピラと荒神会と、どういうつながりがあるんだ?」

 さすがは荒神会の元幹部。

 古谷の眼光は今でも鋭い。

 教えて良いものかどうか。

 新堂は躊躇って高宮を見やったが、若頭補佐がうなずいたのを見て、説明を加えた。

「古谷さんが連れてきた鳴川零に、チーマーがちょっかい出してきまして。
 若頭に報告したら、組関係じゃないか調べろと命令されたってわけです」

「おいおい、また鳴川零か?
 どうしちまったんだろうね、鷲塚の奴は。
 だが、九頭竜のチンピラが引っかかったとなると、単なる偶然じゃないのか……」

 大げさに両手を上げて見せた古谷は、そのまま鷲鼻をつまんで考え込んだ。

「零ちゃんは可愛いから、盛りのついたガキが襲いたくなる気持ちも判るがねえ。
 あの鷲塚ですら、のぼせ上がってるみたいだからな。
 愛人に余計なモンが引っかかってないか、調査中ってところか?」

「やめてくださいよ、古谷さん。
 まさか若頭がオカマを愛人にするわけないですよ」

 嫌悪感を滲ませた新堂を見て、東山がおかしげに笑う。

「でも新堂君。零ちゃんはすごく可愛いですよ、ほら」

 ウエイトレス姿の写真を東山から渡され、胡散臭げに受け取った新堂は、それを見た途端目を剥いた。

「……ほんとだ。すっげえ可愛い」

 すっかり写真に見入ってしまった新堂を楽しげに眺めながら、東山は双眸を細め、人差し指を立てて見せた。

「私も古谷さんと同じく、愛人説に一票ですね。
 いつもの会長にしては、妙にしつこかったし、土産もでかかった。
 そうだろ、高宮若頭補佐?」

「――さてな。とりあえず新堂。その辺はお前に任せるから、好きに調べろ。
 ただし、今は九頭竜と揉め事を起こすんじゃないぞ」

 ショックで放心したまま新堂がうなずくと、古谷がくすくすと笑いながら口を挟む。

「じゃあ、俺もちょいと調べてやるよ。
 渋谷にもいくつかビル持ってるし、会計事務所系列の客もいるんだ。
 可愛い零ちゃんのために、変な虫がついてないか調べてやりますかね」

「はあ……ありがとうございます、古谷の兄貴。
 でも、本当に愛人なんですかねえ?
 SMクラブにでも売ろうかって、若頭が話をしてたような……」