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IceDoll  


 ‡ 第1章

   《2》



 午後六時半。

 開店時間の七時までには店内に滑り込もうと、零は混雑する駅前通りの交差点を足早に渡った。

 色とりどりのネオンサインが輝き始めた表通りから、高層ビルの隙間を抜ける薄暗い路地を進む。

 路地の中ほどまで来た時、カランカランと缶が転がる音が背後で響き、零はびくりと立ちすくんだ。

 恐る恐る振り返っても、誰もいない。

 路上に捨てられた空き缶が、風に吹かれてきたのだろうか?

 気を取り直して歩き始めた零は、テナントのゴミバケツが並ぶじめじめと湿った路地裏から、雑居ビルの裏口に入り、従業員用エレベーターに乗り込んだ。

 地下一階のボタンを押すと、かすかな軋みを上げてドアが閉まる。

 ゆっくりと地下に降り始めたエレベーターは、動きが遅い上にひどく薄暗い。

 その密閉された空間に足を踏み入れるたびに、零はいつも息苦しい気分に襲われた。

 ひとりだけ閉じ込められ、取り残されているような不安。

 そんな心配をする必要は無いはずなのに、どうしてなのか緊張してしまう。

 中学生の頃、クラスメイトの悪戯で、学校の地下倉庫に置き去りにされた事がある。

 その時味わった恐怖が、いまだに尾を引いているのだ。

 チカチカと点滅する階数パネルを見上げていた零は、エレベーターが止まるとようやく吐息をもらした。

 ドアが開くのとほとんど同時に足を踏み出し、逃げるように外に出る。

 ほの暗いブルーライトに照らされた廊下の突き当たりに、この界隈では有名なニューハーフ・パブ《Crystal Rose(クリスタル ローズ)》があった。

 アンティーク風の看板が出ているドアを開けた途端、零はハスキーで色っぽい声に迎えられた。

「あっらー、レイちゃん!
 どうしちゃったのよー、その髪?」

「切っちゃったの!? もったいなーい!」

 開店準備中のホールに出ていたニューハーフのホステスたちが、驚きの声を上げながら、一斉に零を取り囲む。

 短く切った髪を撫でた零は、はにかみながら微笑んだ。

 何だか、照れ臭い。

 昔はずっとショートカットだったのに。

「ちょっとしたイメチェンです。ロングも飽きてきたから」

 背中の半ばまで伸びていた零の亜麻色の髪は、少し長めのショートカットになっていた。

 もともと髪質が柔らかく、癖があるため、裾のところだけが緩やかにウェーブしている。

「レイちゃん、ますます中性的になったわね」

「でも、可愛いじゃない。絶世の美少年って感じで。
 お姉さん、食べちゃいたいわぁ」

 女性として働く元男性ホステスの間で、零は数少ない「男」のバーテンダーとして雇われていた。

「君もニューハーフ?」と日常茶飯事のように質問されるが、訪れる客には「自分は男です」と告げて働いている。

 個性的できらびやかなドレスをまとうホステスたちとは対照的に、零の仕事着はシンプルだった。

《クリスタルローズ》の優雅な雰囲気に合わせた白いドレスシャツに黒のスラックスとベストというバーテンスタイルで、零はいつも黙々と水割りやカクテルを作り続けている。

 零がホールに出ることは滅多にない。

 カウンターに座った客に話しかけられれば、もちろん丁寧に応対はするが、他のホステスたちのように、積極的に会話に参加するようなことはなかった。

 深い海底を思わせる暗い店内で、男のようにも、女のようにも見える不可解な存在。

 だが、かつては男であったはずのホステスたちが、咲き誇る花のように美しいため、訪れる客は、暗がりにいる零のことまで気に留めない。

 男か、女か──たとえ疑っていたとしても、ここは非日常の世界。

 本気で確かめようという、野暮な真似をする客はひとりもいなかった。

「今日、零ちゃん、お休みでしょ?」

 零が店の控え室に入ると、一番仲の良いホステスの真那(まな)が話しかけてきた。

 同僚たちは、大なり小なりの苦労を重ねてきている人が多いからなのか、お互いに仲良く、零に対しても優しい。

 その中でも真那は、零と同い年ということもあって、プライベートでも友達として付き合っていた。

 真那の身長は百六十五センチと男としては小柄だったが、《クリスタルローズ》で働くホステスたちの平均身長が百六十七センチであるため、彼女はほぼ平均だった。

 百七十五センチある零の方が、ほとんどのホステスたちよりも背が高い。

 そのため、立ち話をしていると、いつも自然と零が真那を見下ろす形になる。

 今日の真那の衣裳は、最近ハマっているという黒いゴシック系のドレス。

 色白で大きな目をした真那は、長い髪をフワフワに巻いていて、フランス人形のように見えた。

 裾が丸く広がったスカート丈はかなり短く、その下から白くてすんなりとした両足が伸びている。

 繊細なレースで縁取られた襟ぐりは、深く大きく開いており、黒い十字架と、白く豊かな谷間がのぞいていた。

「シャツの替えを持って来ておこうと思って。
 明日忘れたら、困っちゃうもんね。
 どうせ帰り道だったし……」

 控え室のさらに奥にある更衣室に行くと、零は自分専用のロッカーを開けた。

 今日買ったばかりの新しいシャツをハンガーに掛けておく。

 美しいフリルが襟から胸元まで何段にも重なった白いドレスシャツは、本日の戦利品のひとつだった。

「綺麗ね〜、これ。
 こういうの着ると、零ちゃん、本当に美少年に見えちゃうんだから。
って言うより、宝塚の男役って感じ? 今度、またデートしようねぇ」

 頬に両手を当て、小首を傾げる真那は、アイドルのように可愛らしい。

「彼女」が元男だと知って、人間不信に陥る客がいるほどだった。

「いいけど……外でその格好は止めてね。
 さすがの僕も、ちょっと恥ずかしい」

《クリスタルローズ》で働いている時、零の一人称は「私」から「僕」に変わる。

 最初は意識的に変えていたのだが、最近ではほとんど癖のようになっていた。

「えー、いいじゃない。
 原宿行けば、目立たないわよぉ」

「真那は可愛いから余計に目立つんでしょ。
 ほら、早く行かないと姉さんたちに怒られるよ。
 それより、絵里子(えりこ)ママは?」

 零はロッカーを閉めると、黒目がちな上目づかいで見上げてくる真那に訊ねた。

「応接室に行ってる。
 このビルのオーナーって人が来てるから、挨拶だって」

「オーナーって、僕は見たことないな。
 それじゃ、ママに会うのは無理だね」

「零ちゃん、ママに用事があったの?
 様子、見てきてあげようか?」

 不思議そうに見上げてくる真那を見下ろし、零は淡く微笑んだ。

「大丈夫、明日でも構わないから。
 それより、真那。
 静香(しずか)さんが怖い声で呼んでるよ」

 その途端、青ざめた真那はくるりと踵を返し、ばたばたと走り出す。

 後ろ手にドアを閉めようとした時、真那ははっと思い出したように、もう一度顔をのぞかせた。

「あ、さっきまで廣田さん来てたの。
 零ちゃんいないって判ると、すぐ帰ってったよ。
 あの人、絶対、零ちゃんに気があるのよ。
 いい人そうだけど、気をつけてね」

 真那が言い終えた時、とても女とは思えないような、ドスのきいた重低音の呼び声が響いてきた。

「きゃっ!」と可愛らしく首をすくめ、真那は小走りでホールに向かう。

(……廣田さん? どんな人だっけ?)

 零は腕を組んでしばらく考え込んでいたが、首を傾げた。

 記憶力は悪くない方だと思うし、特に常連客となれば顔も好みも覚えている。

 けれど、廣田という男の名前と、彼が何を飲んだかというところまでは覚えているものの、どうしても顔が思い出せない。

「まあ、いいか。次に来たら、忘れないようにしよう」

 独り言を呟いた零は、目立たないように裏口を通って《クリスタルローズ》を後にした。