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IceDoll  


 ‡ 第1章

   《4》



「やべーな――すっげえ美人」

 交差点で車が停まった時、運転手の新堂が唐突に声を上げた。

「バカ野郎、よそ見をするんじゃない。
 真面目に運転しろ」

「すみません、兄貴。
 でも滅多に見ない、綺麗な女なんですよ。
 モデルなんですかねえ、あれ? 見たことないけど」

 荒神会屈指の武闘派として名を馳せている高宮は、興味無さそうにちらりと目線を送る。

 眉間に深い皺を寄せ、高宮は訝しげに太い首をひねった。

「あれ、女か?」

「どう見たって女でしょ。男じゃないですよ」

 浮ついた新堂をじろりと睨むと、寡黙な高宮にしては珍しく懐疑的に呟いた。

「人形みたいな顔だな……素晴らしく整ってはいるが。
 多分、日本人じゃないだろう?」

「ハーフなんですかねえ?」

 高宮と新堂が交わす会話に興味を引かれ、後部座席に座っていた鷲塚はノートパソコンから目線を上げた。

 話題の対象を確認するべく、カフェを見る。

 その刹那、全身に電流が走った。

 標的を捕らえた視覚に煽られたように、獰猛な衝動が躰の芯を突き抜ける。

 淡い微笑みを浮かべた繊細な美貌を見定めた途端、己の躰に生じた無意識の反応に驚き、鷲塚は鋼色の双眸を眇(すが)めていた。

 それは、久しく絶えていた強烈な征服欲と独占欲だった。

 獲物を見いだした原始的な本能は、思考よりも速く躰に信号を送る――あれが、欲しいと。

(……面白い)

 何故ひと目で惹かれたのか、確かめてみるのも一興だろう。

 この珍しい経験を、ただ見過ごしてしまうのは惜しい。

 そう思い、鷲塚は唇をつり上げた。

「新堂、そこの角を曲がったら、高宮と運転代われ。
 あの女の後を尾行しろ」 

 鷲塚の言葉を聞いて、助手席の高宮が振り返る。

「若頭、いったいどうなさるおつもりで?」

「新堂の言う通り、滅多にない上玉だ。
 何かあれば、使えるかもしれん」

 薄笑みを浮かべたまま、鷲塚はわずかに双眸を細めた。

 たとえ裏社会に関わりの無い品行方正な人間だとしても、探りを入れれば、弱点はいくらでも見つかる。

 気づかれないように罠を張り、手繰り寄せて止めを刺せば、獲物は堕ちる。

 手中に収めた哀れな獲物をどう喰らうかは、後で考えればいい。

 ルームミラー越しに鷲塚の表情を目撃した新堂が、すっきりとした二重の目許を引きつらせ、青ざめていた。

「若頭に目をつけられるってのも、何だか気の毒ですね」

 道の途中で新堂を降ろし、運転を代わった高宮が、二人きりになったところでそう言った。

「俺が欲しがった女など、今までいなかっただろう?
 俺に出くわしたあの女が不運なんだ」

 再びパソコンのモニターに視線を落としていた鷲塚は、感情の失せた声で淡々と応じる。

「本気で手に入れようと?」

「欲しいと思ったからな」


 これほど何かを強烈に欲しいと思ったのは……貪欲に力を求め続けた十代の頃以来かもしれない。

 あの頃は、復讐を成し遂げるための力を純粋に求め続けていた。

 だが、人を求めたことは一度も無い。

 優秀なビジネスパートナーや、配下の者たちは必要だが、個人的な欲望は感じない。

 セックスをするだけの相手なら、いくらでもいる。

 ベッドを共にするのは、せいぜい一晩。

 特定の誰かを望んだことはなく、性欲を解消するための相手の顔など、いちいち覚えてはいない。

 誰に対しても関心が無く、個人的な感情を向けることなど一生無いと思っていたが、あれは違った。

 アドレナリンが吹き荒れ、雄の本能を刺激する。

 斃すべき敵を前にした時と同じ興奮が、血を騒がせる。

 それは何故か。

 首を捻れば、呆気なく死んでしまいそうな無力な存在に見えるというのに――。

 冷たく冴々と光る眼で、足下に流れゆく群集を見つめていた鷲塚は、思い返すように双眸を眇める。

 やはり、欲しい。

 あれがどこの誰で、何者なのか……そんな事は無関係に、欲望が滾(たぎ)る。

 己が感じる欲求の正体が判るまで、あれを手元に引き寄せ、閉じ込めておかねばならない。

(俺に狙われたのが運の尽きだ。
 欲しいものは手に入れる……何があっても、必ず。
 お前を罠にかけて、この腕の中に捕らえてやろう。
 その時まで、残りわずかな平和を楽しみながら、大人しく待っているがいい)

 その場にはいない者へと語りかけるように、内心でそう囁いた鷲塚は、喉奥で不吉に響く笑い声を立てた。




 最近、奇妙な視線を感じる。

 夜の仕事場であるニューハーフパブ《クリスタルローズ》への出勤中や帰り道。

 昼間働いている喫茶店《KATZE(カッツェ)》への行き帰りでも、どこからかその視線を感じた。

「零ちゃん。お客さんも引いたことだし、一休みしようか」

 店の奥に隔てられた厨房に引っ込んでいたマスターの丹波が、客が帰ったテーブルを拭く零に声をかける。

 丹波の淹れるコーヒーを楽しみに来るファンや、ランチタイムに訪れるOL、看板娘の零を目当てに来るサラリーマンも多かったため、小ぢんまりとした喫茶店ではあったが、《KATZE》は毎日そこそこに繁盛している。

《KATZE》でウェイトレスの仕事をしている時、零はいつも白いエプロンをつけた「女」の姿で働いていた。

「はい、零ちゃんの大好きなカフェオレ」

 人のいなくなったカウンター席に座った零に、丹波はマイセンのカップで温かいカフェオレを出してくれる。

「わーい、いただきまーす」

 ふうっと息を吹きかけ、嬉しそうに飲み始めた零を見ながら、スツールを引き出したマスターはのんびりと話しかけた。

「それで、最近、どうなの? 夜の仕事の方は」

 零の向かい側に座った丹波は、自分用にモカのブラックを淹れて飲み始める。

 丹波は五十代でサラリーマンを辞め、この喫茶店を開いた。

 今年で還暦を迎えるが、若い人たちとの交流も多いせいか、まだまだ若々しく溌剌としている。

 灰色の口髭が渋いと、女子高生の間でも人気だった。

 そして丹波は、零がニューハーフパブで働いているという事を知っても、嫌な顔もせずに雇ってくれた希有(けう)な人物だった。

「まあ、平穏ですよ。時々揉め事は起こってますけど、みんな些細な事ですし。
 だいたいがママの裁量で解決しちゃいますからね」

「零ちゃんみたいな綺麗な女の子が、どうしてニューハーフとって気もするけどね」

「あ、それは偏見ですよ、マスター。
 彼女たちの方が、今時の女子高生に比べても、絶対女らしいんですから」

「零ちゃんも人気なんだよ、女子高生に。
 宝塚好きな美里(みさと)が、最初に零ちゃん見た時、大騒ぎしてただろう?」

 丹波(たんば)美里(みさと)はマスターの姪だったが、弟夫婦である両親を交通事故で亡くしたため、伯父に引き取られることになったのだという。

 時々《KATZE》にアルバイトに来ては、あれやこれやと零を構うのだった。

「そう言えば……最近、誰かにずっと見られているような気がするんですよね」

 ふと思い出して零が話すと、丹波は厳しい表情を浮かべた。

「ストーカーじゃないの、もしかして?
 最近、この辺も物騒だから気をつけた方がいいよ。
 二丁目の芝山さんの家、強盗に入られたんだってさ。
 幸い家族は出かけていたから無事だったけど、手口からして、世間を騒がしている外国人窃盗団だろうって言われてるみたいだし。
 家にいたら、殺されていたかもしれないよ」

「そんな事があったんですか? 
 新聞はマメにチェックしているんですけど、見落としていたのかな」

 眉をひそめた零を見つめ、丹波が心配そうな顔つきで警告する。

「気をつけなさいよ、零ちゃん。
 ただでさえ夜道は危ないんだから」

「襲われそうに見えますか、私?」

 戸惑って首を傾げると、丹波は腕組みをして何度もうなずいた。

「見える、見える。
 背は高いけど、零ちゃんは華奢だからね。
 押さえ込まれたら、男の力には適わないよ、きっと」