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IceDoll  


 ‡ 第1章

   《6》



「いい店だな、マスター」

 久しぶりに現金での会計を済ませ、《KATZE》のドアを開けた鷲塚は、帰り際にそう声をかける。

 口髭をはやしたマスターは、人好きのする明るい笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。
 綺麗な看板娘のおかげで、何とかやってますよ。
 また是非お立ち寄りください」

「……ありがとうございました」

 愛想の良いマスターに比べると、綺麗な看板娘であるはずのウェイトレスの方は、硬く緊張した表情だった。

 唇は微笑んでいるように見えるが、視線はわずかにそらされ、鷲塚の目を見返そうとはしない。

 鷲塚は口許に薄い笑みを刻むと、喫茶店を後にした。

 少し歩道を歩くと、急発進した車が後方から近づいて来る。

「遅れて申し訳ありません、若頭」

「気にするな、新堂。それより、鎌倉に行ってくれ。
 総長が何やら話があるそうだからな」

 後部座席に乗り込んだ鷲塚は、すぐにパソコンを起動させる。

 ルームミラー越しにその様子をうかがっていた新堂は、遠慮がちに鷲塚に訊ねた。

「では、あの女の尾行はもういいんですか?」

「あと三時間は仕事だそうだ。
 その間にこっちも片づけられる仕事があるだろう。
 それが終わったら、お前はあの店の前に戻れ」

 モニターから目線を離さず、鷲塚は淡々とそう告げる。

 その後、東山から送信されてきたデータに目を通していた鷲塚は、不意におかしくなり、低く笑い始めた。

「こいつは面白い。鳴川零は、実家には大学に通っていると伝えているようだ。
 出身高校は私立清塔学園……中高一貫の進学校だな」

「あれ……清塔学園って、男子校じゃなかったかな?
 女子部は無かったような気がする」

 鷲塚の言葉を耳にして、新堂が怪訝そうに呟いた。

「正解だ。鳴川零は、少なくとも高校時代までは、男として生活をしていた。
 上手く騙されたもんだな。
 この目で見ても、いまだに男だとは信じられん」

 鷲塚はくつくつと笑いながら、ゆったりとシートに寄りかかった。

「親は、今の零の姿を知らないようだ。
 もっとも多額の負債を抱え込んでいて、それどころではないのだろうが。
 妹がひとりいるが、やはり私立の女子高に通っている。
 学費が払えなくて退学になりそうだったところを、零が仕送りしているおかげで、なんとか無事に通えているらしい」

 アームレストに肘をついた右手で、鷲塚は冷笑を浮かべる口許を支えた。

「掛け持ちして仕事をしているのは、実家に仕送りするためということですか?
 ショーパブの時給はそこそこ良いはずですが、それだけではやっていけないと?」

 高宮が興味を持ったように訊ねると、鷲塚はモニターに視線を残したままうなずく。

「おそらくな。それにしても、これだけネタがそろえば、脅すには十分だろう」

 鷲塚の言葉はほとんど独白に近かったが、ずっと聞き耳を立てながら運転をしていた新堂が、耳ざとく聞きつけて苦笑する。

「あのオカマ、脅しても大した金にはならないと思いますよ。
 今時、大学生でも、あんなボロアパートには住まないと思いますからね。
 大地震が来たら、間違いなく全壊しますよ」

「それは単純すぎるだろう。
 お前、本当にナンバーワンホストだったのか?」

 高宮が皮肉げな一瞥を向けると、小馬鹿にされた新堂はムキになって言い返した。

「あ、兄貴、疑ってますね? 本当ですよ。
 女の扱いは上手かったんですから。
 でも、オカマの相手はしませんでしたから、調子が狂うんです」

「わめくな、騒々しい。黙って運転しろ」

 ぴしゃりと高宮に叱責されると、新堂は口の中でぶつぶつと不満を並べ立てた後、むっつりと黙り込む。

 高宮と新堂の掛け合いには耳を貸さず、鷲塚はデータに集中していたが、車内に静けさが戻ると、鳴川零に関連する人物へと電話をかけた。




「零ちゃん。ほら、廣田さん来たよ」

 頼まれていたカクテルをカウンターに取りに来ていた真那が、入り口のドアから入ってきた男に気づくと、そっと零に耳打ちをする。

 顔を上げた零は、わざとらしくならないよう、さりげない視線を走らせた。

 ドアの所に細身のスーツを来た二十七、八歳くらいの男が立っている。

 整ってはいるが、これといって特徴の無い顔。

 零はふと、デパートに並ぶマネキンを思い出した。

 目線が合うと、彼は真っ直ぐにカウンターに向かって来る。

 押し寄せる勢いに圧倒されていた零の顔を、廣田は食い入るように見つめた。

「何になさいますか?」

《KATZE》で働いている日中よりも、トーンの低い声音で問いかけると、廣田は柔らかな微笑を浮かべる。

 個性の無かった顔が、不思議に人好きのするハンサムな顔に変わった。

「マティーニを頂こうかな」

 廣田の声はおっとりとした穏やかな印象であり、零を恐れさせることはない。

《KATZE》で顔を合わせたとしても、きっと普段通りの応対ができるだろう。

(今日の人は……やっぱり、特別だよね)

 昼間の男の秀麗な面影が脳裏を過ぎり、零は細い吐息をもらす。

 明るい昼の日射しが、彼のシビアな雰囲気を少し和らげていたのかもしれない。

 漆黒の髪と鋼色の瞳を持つあの男には、むしろ夜の闇がよく似合う。

 もし、今ここに彼が現れたなら、零もホステスたちも、そして訪れている客さえも、その場に釘づけになるだろう。

 毒々しい極彩色のネオンが輝く不夜城の中でさえ、彼の存在感はきっと薄れない。

(見かけない人だったけど、あの辺りで働いているんだろうか)

 営業回りのサラリーマンには見えなかった。

 他者を寄せつけない孤高の雰囲気は独特で、忙しないビジネス街には馴染まない。

 本能的に恐怖を感じてしまったから、二度と顔を合わせたくないと怖じ気づいているはずなのに……胸の奥に、もう一度だけ彼を見てみたいという淡い期待が宿る。

 近づかなくてもいいから、ほんの少し。

 偶然、街中ですれ違うくらいで十分。

 零のことを思い出さなくてもいい。

 注文を受けたマティーニを作りながらも、零の心は《KATZE》で出会った男の方へと引きずられてゆく。

 一瞬の出会いなのに、これほど心が揺れるのは何故だろう。

「――ねえ。君と同伴するには、僕はどうすればいいの?」

 カウンターテーブルに両肘を突いていた廣田が、重ね合わせた手の上に顎を載せて、唐突にそう訊ねてきた。

 彼の上目づかいの瞳は、どこか悲しがっている犬を思わせる。

 寂しがりやの大型犬――まるで、人間が大好きなゴールデン・レトリバーのよう。