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IceDoll  


 ‡ 第1章

   《8》



 午前三時。

 営業時間が無事に終了し、上がろうとしていた時、零は《クリスタルローズ》のママであり、社長でもある絵里子に呼び止められた。

「ごめんね、零ちゃん。帰りが遅くなっちゃうのに」

 店の奥にある社長室に零を招き入れ、応接用のソファに座らせた絵里子は、申し訳なさそうに謝りながらローズティーを淹れた。

「今日、オーナーから電話があってね。
 零ちゃんの事、しつこく聞かれたのよ。
 何か心当たりはある?」

 思いも寄らぬ事を問われた零は、首を横に振る。

 そんな零を見つめ、絵里子は安堵したような溜息をつくと、すぐに明るい顔に戻った。

「そう、ならいいんだけど。
 正直に話すとね、この店は私のものだけど、このビルは荒神会のフロント会社のものなの。
 このビルのオーナーの上には、荒神会が繋がってるってわけ」

「荒神会って……あの、ヤクザの、ですか?」

 まさかと思い、零が目を瞠ると、絵里子は真顔でうなずく。

「話せば長くなるけど、そうなの。
 だから余計に心配になって。
 オーナーがわざわざ電話してくるぐらいだから、零ちゃんが何かトラブルに巻き込まれているのかと思ったのよ。
 でも、何もなければいいの」

 ウェッジウッドのティーカップをテーブルに置き、絵里子はいつにない真剣な顔で零を見つめた。

「本当に気をつけるのよ、零ちゃん。
 何かあったら、すぐに相談してちょうだい。
 荒神会は組員の教育を徹底してるし、おかしなチンピラはいない方だけれどね。
 オーナーは今はカタギだけど、荒神会の元幹部だわ。
 何も知らないあなたは、ヤクザなんかに絶対関わってはダメよ」

 何となく、「ヤクザ」という言葉にリアルな危険を感じない。

 どことなく他人事のよう。

 だが、ハスキーな絵里子の声の中に、身を案じてくれる優しい思いやりを感じ取り、零は素直な気持ちでうなずいた。

「判りました、気をつけるようにします。
 心配かけて、本当にごめんなさい、絵里子ママ」

 深く頭を下げた零を見て、絵里子はくすくすと笑い出す。

「まあ、やめてちょうだい。
 私の気の回しすぎかもしれないんだから。
 さて、長話をしてると遅くなるから、もうお帰りなさいな。
 何度も言うようだけど、夜道には気をつけるのよ。
 最近、この辺りを徘徊している強盗がいるんだから」




 店が閉まった後、今から飲みに出かけるという強者揃いのホステスたちに手を振って、零は家路についた。

 始発電車が出る前だから、深夜と変わらず外は暗い。

 シャッターが閉められた駅前には、終電に乗り損ねた酔っ払いが寝ころんでおり、コンビニ前には髪を金色に染めた少年たちが意味もなくたむろしている。

 ロータリーに並ぶタクシーに動きは無いが、向いに建つ二十四時間営業のカラオケ店だけが眩しいほどのネオンを放っていた。

 オールナイトで遊ぶ大学生らしきグループが、カラオケ店の前で賑やかな歓声を上げ、肩を組んで流行りの曲を歌っている。

 まったく音程外れだったが、笑い合う彼らは楽しそうだった。

 ふと羨ましくなったが、そんな自分に気づき、零は苦笑する。

(帰ったらシャワーを浴びて、さっさと寝ちゃおう)

 普通のサラリーマンやOLから見れば不規則な生活なのだろうが、二年も経つと、さすがに躰が慣れてくる。

 そうは言っても、規則正しい生活にも、零は憧れていた。

(朝起きて、朝ご飯を食べて、夜眠るっていう生活は、夢だよね。
 咲妃(さき)は元気にしてるのかな?)

 勉強が忙しいと言っていたけれど、まだ夢の中にいるだろう。

 小さな欠伸をした零は、溌剌とした妹の笑顔を思い出して微笑んだ。

 高校一年生の妹、鳴川咲妃は、零の自慢の妹だった。

 彼女は可愛くて、しっかりしていて、有名大学間違い無しと教師から太鼓判を押してもらえるほど成績が良い。

 両親にとっても、咲妃は自慢の娘だった。

 だからこそ、彼女には無事に高校を卒業して、大学まで進んでもらいたい。

 目標がちゃんとあって、頑張って勉強しているのだから、経済的な事情で夢を諦めるようなことにはなってほしくない。

(咲妃ならきっと、自分の夢を叶えられる。
 私自身は、咲妃を応援できて、家族みんなが幸せであれば、それでいいんだから)

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と慕ってくる妹と、小さい頃はいつも一緒に遊んでいた。

 もしかすると、あの頃が一番、穏やかで心安らぐ日々を送れていたのかもしれない。

 家の中には笑顔が溢れ、家族みんなで囲む食卓はとても温かかった。

 何の悩みも、迷いも無かった幸せな時間……もう二度と戻ってはこないのだろうか?

 ぼんやりと過去に思いを馳せながら歩いていた零は、ビルの工事現場の前に、数人の若者が集まっていることに気づいた。

 狭くなった歩道を遮るようにして、彼らはガードレールに腰をかけ、ぺちゃくちゃと声高に喋っている。

「おねーさん、今、帰りなの?
 エッチだなあ、朝帰りなんて。
 ねえ、俺たちと一緒に、イイことしようよ」

 その中のひとりが零の姿を認め、にやにやと笑いながら声をかけてきた。

「言っておくけど、僕は男だよ」

 仕事場では制服に着替えるため、零はジーンズとニット、革のジャケットというラフな格好だった。

 ショートカットにもしたから、ちゃんと男に見えるだろう。

 そう思いつつも、一応、訂正しておく。

 かえって好奇心を刺激されたのか、若者たちは零の周囲をぐるりと取り巻いた。

「へえ、男なの? それにしちゃあ、きれーな顔してるよなあ」

 ひと目でリーダーと判る大柄の少年が、馴れ馴れしく零の顎をつかみ上げる。

 銀色に染めた髪と、ニキビ跡の多い痩(こけ)けた頬が目立つ顔。

 厚ぼったい一重瞼の下で、少年の暗く澱んだ眼がぎらりと光った。

 背筋にさっと悪寒が走る。

 とっさに零は顔を背け、きつく睨みつけた。

 喧嘩をして勝てるとは思わない。

 身を守る術を何も持たないからこそ、恐怖だけは、隠し通さなければならない。

 冷ややかな無表情のままでいると、相手が鼻白んで引き下がることもある。

 荒んだ薄笑いを浮かべた少年は、両眼に凶暴な獣欲を溢れさせると、突然零の手首をつかんだ。

「本当に男か、ちょっと確かめてみようぜ。
 男でも、ヤルことはできるしな」

 興奮した笑い声を上げながら、銀髪の少年は、足を踏ん張って抗う零を乱暴に引きずり、工事現場の中へ連れ込もうとする。

 明け方で人通りも無いせいか、誰も助けには来ない。

 白色の防音シートに囲まれた工事現場。

 建築資材が積まれた中間に、ぽっかりと何も置いていない空白地帯がある。

 道路からちょうど死角になっているその場所に、零は力任せに突き飛ばされた。

 零は急いで跳ね起き、自分を取り囲んでいる少年たちに向き直る。

 躰がすくみ、今にも震えてしまいそうだったが、零は気力を奮い立たせた。

「こんな事をしたら、犯罪だよ」

 無意味と思いつつも、そう言ってみる。

 少年たちはどっと笑い声を上げた。

「余裕があるじゃねえか、おねーさん。
 怒ったその顔、そそられるなあ。
 ぐちゃぐちゃに犯して、泣かせたくなるぜ」

 残忍な笑みを浮かべた少年たちは、無力な獲物を追いつめるように、じわじわと包囲の輪を縮めてくる。

 逃げ場が無いと悟った瞬間、喉元まで恐怖がせり上がり、零の顔は蒼白になった。

 あと一歩で少年たちが飛びかかってくる、その寸前。

 不意に、怒ったような男の声が響いた。

「おい、おめーら。こんな所で何してやがる」

「なんだあ、てめえは!」

 工事現場にふらりと現れた侵入者を片づけるため、少年のひとりが飛びかかって行く。

 殴りかかった途端、鋭い足蹴りをくらって跳ね飛ばされ、少年は白目をむいて地面に倒れた。

 恐れる様子もなく分け入ってきたのは、キザな仕草で煙草を吸う二十五歳前後くらいの男だった。

 明るい茶髪は無造作にセットされており、全体的に派手な雰囲気。

 均整の取れたすらりとした躰に細身のスーツをまとい、甘く整った顔立ちの彼は、ホストのようにも見えた。

「これは荒神会のビルなんだよ。
 ハンパなガキが汚ねえマネすっと、てめえら全員、バラして海に捨てるぜ。
 それとも、山に埋められる方がいいか? 
 好きな方を選ばせてやる」

 いきり立つ少年たちを小馬鹿にしたように嗤うと、男は煙草をぴんと指先で弾いた。

 吸いかけの煙草はリーダーの少年の足元まで飛んでいき、地面に転がる。

 一度地面に視線を落とした銀髪の少年は、憎悪のこもった暗い瞳でその男を睨みつけた。

「……新堂。何であんたがこんな所にいるんだ?」

 知り合いなのか、少年は訝しむように訊く。

 新堂と呼ばれた男は、胸を反らした傲慢な態度で、嘲るように睨み返した。

「うるせえよ、ハヤト。
 お前こそ、縄張りは渋谷だろうが。
 何でこんな所に出張ってるのかは知らねえが、さっさと失せろ!」

 ドスの利いた新堂の恫喝に、さすがの少年たちも怯んだようだった。

 ところが「ハヤト」と呼ばれた少年だけは、細く眇めた両眼をぎらつかせ、憎々しげに新堂を睨みつけている。

「オンナに金を貢がせてたクズが、いつの間に荒神会に入ったんだ?」

 挑発的なハヤトの言葉に、新堂はふんと鼻を鳴らした。

「おめーらには関係ないだろうが。
 消えねえってんなら、ここで始末してやろうか?」

 新堂がジャケットの内側に手を入れると、その動作を見た少年たちは、慌てふためいて逃げ出してゆく。

「覚えてろ、新堂! 
 いつか、てめえを殺してやる!!」

 リーダーのハヤトもまた、そう捨て台詞を吐いて、工事現場から走り去っていった。