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IceDoll  


 ‡ 第1章

   《9》



「バカだねえ、あいつら」

 ジャケットの内ポケットから新しい煙草を取り出した新堂は、ライターで火をつけると、ふーっと空に向かって紫煙を吐き出した。

「怪我はしてないよな?」

 零に向き直った新堂が、真面目な表情でそう訊ねる。

「助けていただいて、ありがとうございました」

 頭を下げた零を見返し、新堂の顔に複雑な苦笑が浮かんだ。

「気にすんな。最近、躾のなってないガキが多いからな。
 っていうのは、うちの兄貴の受け売りだけど。
 ――まあ実際、ここでおかしなマネをされると、うちも困るし」

 新堂はそう言い、慌ただしく零を手招きした。

「ほら、さっさとこんな所から出て、家に帰れ」



 丁寧に頭を下げて工事現場を出て行く零を見送り、新堂は咥え煙草のまま、天を仰いだ。

「やれやれ。おかしな事になっちまったなあ。
 兄貴に何て報告すりゃあいいんだ?」

 予想外の成り行きに、思わずぼやきがこぼれる。

 この工事現場に零を連れ込んだのは、普段は渋谷をうろついているチーマーだった。

 ヘッドのハヤト――芝浦隼人(しばうらはやと)には、以前からドラッグをばらまいているという黒い噂が流れている。

 今のところ売人レベルで、組織には属していないようだが、先ほどの様子を見ると、遠からずどこかの世話になるだろう。

 新堂が渋谷のホストクラブに雇われていた頃、ハヤトとは店の近くで何度か顔を合わせ、絡まれたことがある。

 刺々しい雰囲気は変わっていない。

 むしろ、さらに荒んで、粗暴になった。

 そんな因縁のあるハヤトと、まさかこんな場所で出くわすとは、東京は思っていた以上に狭いらしい。

(あいつら……渋谷を離れて、この界隈で活動してんのか?)

 ハヤトが鳴川零と関わったのは、偶然だろう。

 だが、ドラッグを密売しているなら、ハヤトのバックにいる存在を確認しておかねばならない。

 今夜の腹いせに、再び零にちょっかいを出されては困るし、他の組織……特に北聖会が関われば面倒なことになる。

 何しろ鳴川零は、荒神会の若頭、「死神(しにがみ)」の異名を持つ鷲塚の大事な獲物。

 鷲塚が零を捕らえるその時まで、何事もないよう、大事に守らなければならない。

 嘆息した新堂は、近くに停めてあった愛車のBMWに急いで乗り込むと、先を行く零に気づかれないよう、慎重に尾行を再開した。




 その日の午後三時、《KATZE》で仕事をしながら、零は今朝方の出来事を考え込んでいた。

(何だか、続けざまに荒神会って名前を聞いたな。
 この辺りも縄張りみたいだから、当然なのかもしれないけど……)

 今日は珍しく客の入りが悪いため、いつもより時間がゆっくりと過ぎていゆく。

 そのおかげで、考える時間だけは十分にあった。

(でも、助けてくれたあの人……どこかで見たような気もするんだよね)

 知り合いではないが、かすかな既視感があった。

《クリスタルローズ》の客の中にいたのだろうか。

 洗い終わったグラスやカップを磨きながら、束の間、ぼんやりと物思いにふけっていた零は、ドアベルの音を聞くと、慌てて笑顔を作った。

「いらっしゃいませ」

 カウンターから出ると、そこに、思いがけない人物が立っている。

「……零ちゃん? 君、零ちゃんだよね?」

 心底驚いたような声を上げたのは、昨夜《クリスタルローズ》に来ていた、廣田成司。

「ひ、廣田さん!? どうして、ここに……」

 ショックのあまり、声が上擦る。

 エプロン姿の零を、上から下まで見つめていた廣田は、我に返ったように答えた。

「この近くのホテルで商談があったから、その帰り。
 ちょっと喉が乾いたなーと思って、喫茶店に寄ったんだ。
 でも、こんな所で零ちゃんに会えるなんて、僕は何てラッキーなんだろう」

 何か言い訳を考えなければと思う。

 だが、思考が空回りしてしまい、瞬間的に言葉が思い浮かばない。

 ほとんどパニックに陥っている零を、廣田は楽しくて仕方がないといった様子で見つめている。

 そして、落ち着いた物腰でカウンター席に座った。

「やっぱり、僕の勘に間違いはなかったな。
 零ちゃんが本当は女の子なんだって、ずーっと思ってたんだよね。
 だから言ったでしょ、僕はストレートだって」

 長い足を組んだ廣田は、硬直している零に優しく微笑みかける。

 見ているだけで心が和みそうな笑顔を見返し、零は諦めて溜息をついた。

 この姿を見られた以上、あれこれ言い訳しても仕方がない。

 廣田がどう考えていようと、まだ秘密を暴かれたわけではないのだ。

《クリスタルローズ》では男装して働いていると、思っていてもらうしかない。

「……廣田さん、ご注文は?」

「そうだねえ。じゃあ、このブレンドをもらおうかな」

 朗らかな笑顔を絶やさず、廣田はメニューを指差す。

 その時、奥の厨房にいた丹波がひょっこりと出てきて、ぎくしゃくした雰囲気の二人を見ると、不思議そうに首を傾げた。

「あれ、零ちゃんのお友達?」

「そ、その……友達というか……」

 零が言葉を詰まらせると、廣田がさりげない口調で答えた。

「僕は零ちゃんのファンのひとり。
 いいねえ、マスター。こんな綺麗な子がいる店なんて、滅多にないよ」

「ええ、零ちゃんのファンは多いんですよ。
 子供からお爺ちゃん、お婆ちゃん、女子高生にも人気ですからねえ。
 競争率高いから、気合い入れなきゃダメですよ」

 丹波が笑いながら言うと、廣田は悲観的な表情を浮かべた。

「そりゃ、大変だ。僕もうかうかしてられないな」

「ぼんやりしていると、ある日突然、零ちゃんに彼氏ができてるかもしれませんよ」

 冗談めかした口調でそう言い、丹波はブレンドコーヒーを廣田に出してやる。

「ごゆっくり」と言い残し、途中だった自家製ケーキ作りを再開するために、丹波は厨房に引っ込んでしまった。

 二人きりになってしまい、どうしようかと逡巡している零に、廣田が声をかけてきた。

「アイスドールも可愛く笑えるんだね。
 夜の方だと、君はあまり笑わないだろう?」

 カウンターに頬杖をついた廣田が、じっと零の顔を見つめてくる。

 心の中に踏み込まれることを恐れ、零は全身を緊張させた。

 秘密は隠し通さなければならない。

 誰にも、知られたくない。

 家族もいないこの東京で、自分を守れるのは、自分自身だけなのだから。

 顔から表情を消し、零は冷たい眼差しで廣田を見つめた。

「廣田さん。《クリスタルローズ》のお客様には、ここの事は、絶対に内緒にしておいてください」

「……やれやれ。ねえ、知ってるかい?
 常連の中には、君が男でも構わないから、強引にアプローチしてみたいって奴が結構多いんだよ。
 もっとも、君のその氷の仮面に怖じ気づいているけれどね。
 でも、さっきみたいな笑顔を見せたら危険だな」

「どういう意味ですか?」

「夜道で襲われるかもしれないってこと。
 これは冗談じゃないから、本当に気をつけた方がいいよ」

 早朝に遭遇した不愉快な出来事を思い出してしまい、零の顔からさっと血の気が引く。

 自分の言葉がもたらした反応に驚いたのか、廣田は訝しげに眉根を寄せた。

「……ひょっとして、誰かに酷い事された?」

 心配そうな声で訊かれ、零は慌てて首を横に振る。

「いえ、大丈夫です。
 ちょっと危ない目には遭いかけましたけど、通りすがりの人に助けてもらいましたし」

「そうか、何事もなかったならいいんだ。
 それはそうと、今度、二人で食事でもどう?
 もう僕に、君の昼の顔を隠す必要はないだろう?」

 首を傾げた廣田は、上目づかいで零を見上げ、ゴールデンレトリバーを思わせる人懐っこい笑顔を浮かべる。

 遊んでくれと催促している犬の姿を思い出してしまい、零はくすりと微笑んでいた。

「……それは交換条件ですか?
 黙ってる代わりに、食事をしろっていう」

「そんなつもりは無かったけど、良いアイデアだね。
 それなら断れないもんね、君は」

 廣田がぽんと手を打つ。

「本気で脅すつもりですか?」

 零が眉をひそめると、廣田は考え込むように首をひねった。

「うーん、君の返答によるかな。
 イエスなら脅さない、ノーなら交換条件ってことで」

「それを脅迫って言うんですよ、廣田さん」

 零が呆れると、廣田は楽しげに笑い出した。

「嫌われるのは嫌だから、好きにしていいよ。
 君がどうしても嫌だって言うなら、僕も諦める。
 零ちゃんの意思は尊重したいからね。
 でも、次回はさらに戦略を練ってアプローチをしようかな」

 零は警戒を解いて、カウンターにもたれかかった。

 廣田は根っからの善(い)い人なのかもしれない。

 強引に誘っても、零が断れないと判っているのに、そうしようとしない。

「わかりました。いいですよ、食事くらいなら。
 ただ、月曜日しか予定が空かないんですけど、それでも良いですか?
 専務さんなら、会社の方も忙しいんでしょう?」

 歓喜に顔を輝かせた廣田は、鞄の中から慌ただしく手帳を取り出し、自分の予定を確認し始めた。

「いつにする? 零ちゃんの予定に合わせるよ。
 もし忙しくても、何とかして時間を空けるようにするし。
 それで文句言われたら、『辞めてやる』って脅してやるから」

 大げさな発言に、零は思わず笑ってしまう。

 強張っていた心が和むのは、廣田の明るい人柄のおかげだろう。

「じゃあ、来週の月曜日にしましょう」

「いいよ。今日が木曜日だから、あと三日だね。
 もし都合が悪くなったら、このナンバーに連絡して。
 時間は六時でいい? 場所はどこにしようか」

 名刺に携帯電話のナンバーを書き込み、廣田は零に渡した。

「どこでもいいんですけどね。
 ただ帰りが遅くなると困るから、あまり遠い所は……」

「うーん、じゃあ銀座にしようか。
 店は僕が考えておくから、和光前で待ち合わせをしよう。
 迎えに行ってあげたいけど、それは困るでしょ?」

 零の心理を先読みしたのか、廣田は穏やかに訊ねる。

 とっさに大きくうなずいてしまうと、廣田はくすくすと笑った。

「僕のこと警戒してるね、零ちゃん。
 大丈夫、取って喰ったりしないからさ。
 でもその反応は、なかなか初々しくてよろしい。
 最近の女子高生なんて、『大丈夫?』って聞きたくなるぐらい、無防備な子が多いからさ」

「からかわないでください。
 それより、会社の方には戻らなくても平気なんですか?」

 壁に掛かっているアンティーク時計を振り返った零を見て、廣田はさも悲しげに溜息をつき、嘆かわしいというように首を振った。

「素っ気ないなあ。
 せっかくデートの約束したんだから、もう少し喜んでよ」

「ただ今、私も仕事中なんです。
 時間、本当に大丈夫なんですか?」

 零に示された時計を見上げた途端、廣田は慌てたように立ち上がった。

「ヤバい! 企画会議があるんだった。
 じゃあね、零ちゃん。絶対、約束したからね。
 連絡もせずに約束すっぽかしたら、僕は東京湾に身を投げるからね。判った?」

 真剣な顔で、廣田が矢継ぎ早に訴える。

 零は笑いながらうなずいた。

「行けなくなったら、必ず電話します。気をつけて帰ってくださいね」

「ありがと。じゃあ、ごちそうさま」

 慌ただしく会計を済ませ、外に飛び出していった廣田を見送った零は、ほうっと長い息を吐き出した。

「なんだか、勢いに巻き込まれたって感じだな」

 凝ってもいない肩を軽く叩き、首を回して独り言を呟く。

 視線を感じて背後を振り返ると、厨房からひょいと顔をのぞかせ、丹波がにやにや笑っている。

「マスター! ひょっとして、全部聞いてたんですか!?」

 頬を赤らめた零を見返し、丹波は人の悪い笑みを浮かべながら、ウィンクを投げてくる。

「まあ、ちらっとね。でも、あの青年、零ちゃんとの約束、無事取りつけたみたいだね」

「大げさですよ。軽く食事をするだけなんですから。
 あの人、夜のお客さんなんです。
 あーあ、でも、ばれちゃったなぁ」

 照れ臭くなって丹波にそう言い訳をした零は、両腕を大きく伸ばして背伸びをした。

 だが、いつになく、心の中が浮き立っている。

 気心の知れた友達以外の人と、初めての食事。

 デートの真似事くらいなら、こんな自分でも許されるだろうか?

(一度だけなら、きっと大丈夫――廣田さんは、優しいから……)

 ふと《KATZE》の奥のテーブルに視線が動く。

 そこに座っていた、黒い夜の闇。

 脳裏に秀麗な面影と、鋭く見返してきた鋼色の双眸が浮かび上がり、胸がすくむ。

 もう二度と、出逢うことなどない。

 そうであるのに、心が惑う……不安と、訳の判らない心細さに。

 吸い込まれてゆきそうな心を、零は無理矢理引き戻し、黒い幻影を頭の隅に追いやった。