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猛る獅竜と永遠の契りを


《第1章》 闇に潜む魔獣

<1>



 いつしか森の中に深い霧が立ちこめ、辺り見渡す限りの白闇に閉ざされていた。

 試しに腕を伸ばしてみると、自分の指先さえ、霞んで見えない。

(森に入る前にちゃんと儀式はしたけど……樹海の精霊を怒らせてしまったかもしれない)

 頭上からパラパラと降り注ぐ樹雨(きさめ)を仰いだエリュイは、思わず溜息をもらした。

 濃霧が樹々の枝葉に触れ、水滴となって地上に落ちる──それが広漠たる《霧海(きりみ)の森》を育む豊かな樹雨。

 遥か昔から竜神イシュヴァの聖地として崇められるこの大樹海には、霧に溶け込んだ樹木の香と、息苦しくなるほどの水の気配が満ち溢れている。

 このまま霧が晴れなければ、先に進めない。

 夜が訪れても、方角の指標となる北極星(アレウト)や他の星座を、この深い霧の向こうに探し出すことはできないだろう。

 闇雲に彷徨えば、目指すミルザの町には辿り着けず、森の中で命を落としかねない。

(できるだけ早く森を抜けたいけど……今日はもう、この辺りに泊まった方がいいかもしれない)

 広大な樹海を抜けるには、どれほど急いでも四日間ほどかかる。

 それなのにダマル村を飛び出した時、エリュイは食糧をほとんど持ち出してこなかった。

 先々の事を考える余裕が無かったとはいえ、《霧海の森》を一人きりで抜けるには無謀としか言いようがない。

 体力が少しでも残っている間に、まずは食糧の確保を第一に考えなければならなかった。

 だが、この濃霧の中で、どうやってそれらを見つけるのか。

 たとえ晴れていても、口にできる木の実や果実が、手に入るとは限らない森だというのに。

 胸を突かれるような焦燥に駆られたエリュイは、両手を前に突き出し、恐る恐る手探りをしながら再び歩き始めた。

《氷雪の北壁》と呼ばれる峻厳なイシル山脈に囲まれ、マディヤルの中央大平原に舌を伸ばすように広がる《霧海の森》は、人間には属さぬ神秘の領域。

 穢れた悪霊や、邪悪な魔性の存在を拒み、精霊や妖霊、他の地域ではとうに姿を消した太古の幻獣が住むという。

 樹海を守る精霊のとりなしがあって初めて、人は樹々の中に分け入ることを許され、様々な恩恵を受けることができるのだ。

 だが、森の精霊を怒らせたなら、旅人や猟師には大変な災いがもたらされると、ダマル村の老いた語り部は教えてくれた。

 それゆえに、エリュイの運命もまた、気まぐれな精霊の気分次第。

 歩みを阻むこの濃霧が、災いの前兆だとしたら?

「──うわっ!」

 踏みしめていたはずの地面が突如として消え失せる。

 樹々の根が絡まり合った段差に気づかず、足を滑らせたエリュイは、濡れ落ち葉に覆われた斜面を転がり落ちた。

 低木の茂みにぶつかってようやく止まる。

 運悪くそれは棘の長い鬼茨の薮で、立ち上がった拍子に顔や手のあちこちに引っ掻き傷ができた。

(私は……このままこの森の中で、死んでしまうのか?)

 革紐で三つ編みにしていた長い緋色の髪が解け、棘だらけの枝に絡みついてしまっている。

 これもまた精霊の怒りなのだとしたら、樹海に踏み込んだ自分に待っている運命は、死しか残されていない。

 恐ろしい予感に怯えながら、エリュイは震える手を伸ばし、枝に絡まった髪を手繰り寄せようとした。

「……っつッ!」

 鋭利な棘にかすった途端、手の甲が裂ける。

 痛みに眉をひそめたエリュイは、切り傷から滲み出した血に気づき、慌てて唇を寄せた。

 風に漂う血臭に気づけば、獰猛な肉食の獣が襲いかかってくるかもしれない。

 瞼を閉ざし、樹雨の雫を顔に受けながら、エリュイはしばらく森の中に響く音に耳を澄ませていた。

 何かを警戒しているような、甲高い鳥の鳴き声だけが頭上に谺している。

 近づいてくるものは……いない。

(とにかく、早くここを離れなければ)

 罠にかかった兎の気分を味わうのは、もう沢山だった。

 鬼茨に絡みついた髪を切り落とそうと、エリュイは腰に吊していた短剣を鞘から抜く。

 優美に波打つ鍔と柄が特徴的な細身の短剣は、逆手に握っても掌にしっくりと馴染む。

 エリュイがいつも刃を研ぎ、肌身離さず持ち歩いている短剣は、亡き父から受け継がれた形見。

 聖都クセで鍛造(たんぞう)されたという鋭利な剣が、思わぬところで役立ちそうだった。

 その時──。

 カサリと落ち葉を踏みしめる足音。

 とっさに、エリュイは息を止める。

 逆手に持っていた短剣を素早く持ちかえ、腰帯に挟み込んである手斧を左手に構えた。

 ここは滅多に人が入り込まぬ《霧海の森》。

 太古から変わらぬ姿を留める大樹海を統べる王は、竜神イシュヴァの眷属に違いないと恐れられている。

 そうでなくとも、巨大な熊か、恐るべき狼か……。

(すぐに逃げた方がいいんじゃ……)

 エリュイの焦りを見透かすように、霧に姿を溶け込ませた大きな黒い影が、突然、目の前でぬうっと揺れる。

 恐怖に全身を強張らせたエリュイは、汗ばむ掌に力を込め、頼りない両手の武器を握り締めた。

 心臓が急き立てるように早鐘を打ち、全身からじっとりと脂汗が滲みだす。

 膝が震えているせいで、その場に立っているのさえやっとだった。

 エリュイの前で立ち止まっていた巨大な影は、ゆらりと揺らめき、白闇の中に溶け込む。

 ほっとしたのも束の間、黒影は滑るようにエリュイの右手に現れ、はっきりとその姿を現さないまま、霧の中を泳いでゆく。

 動転しておののくエリュイを嘲笑い、からかうように、霧の中から現れては消え、また現れては姿を消す。

 かちかちと震えて歯の根が合わぬ口を食いしばり、エリュイは霧に消えた影の気配を探った。

 輪郭がぼやけていて、それがどんな獣なのかすら判らない。

 雄の灰色熊と同じくらいだろうか。

 最大級の森狼より、イシル山脈の岩崖に住む雪豹より、ずっと、ずっと大きい。

 とてつもない巨躯にも関わらず、その動きは灰色熊よりもずっと俊敏で、雪豹のように足音をほとんど立てずに忍び歩いている。

 その時、エリュイの背後で、かつて感じた事のないような鮮烈な気配が生まれた。

 その場に重く漂う霧さえも揺らめく。

 空気を歪める、あたかも音の無い爆発。

 驚いた鳥たちが、けたたましく鳴きながら大空へと逃げてゆく。

(──まさか……ザグレス……!?)

 その名が脳裏に閃いた瞬間、目に見えない絶望の鎖にがんじがらめになり、エリュイは動けなくなった。

 幼い頃に一度だけ出会った恐るべき怪物。

 父アリオンを殺し、母ユリィヤの人生を狂わせ、そして……エリュイ自身をも支配しようとした。

 死んだはずのザグレスが生きていて、この場に現れたなら、もう逃げられない。

 だが──。

 振り向くこともできないエリュイの背後に、それは音もなく近づくと、鬼茨に絡まった髪に触れた。

 髪をくいくいと引っ張られる感覚で、エリュイは我に返り、反射的に振り向こうとした。

「動くな。そのままじっとしていろ」

 腹の底に響く低い声。

 言葉を聞き取りづらいほど、ひどくしわがれている。

 正面を見つめたまま、エリュイは動きを止めた。

 無防備な背中を向けているせいなのか、うなじがざわめいて鳥肌が立ち、背筋がぞくぞくし始める。

 それは、鋭く長い棘を持つ鬼茨をしばらくガサガサと揺らしていたが、苛立たしげに唸ると、バキリと枝をへし折ってしまう。

 人の手で触れたなら、皮膚が傷つき、血塗れになってしまうほどの硬い棘であるにも関わらず──。

 引き寄せられるように目線を背後に向けると、視界の隅に飛び込んできたのは、鎌のように鋭い鉤爪を持つ異形の手だった。

 指先まで黒鋼に輝く鱗で覆われ、関節がごつごつと棘のように鋭く盛り上がっている。

 三角鋲を打った戦籠手のような形状。

 だが、その動きは恐ろしく滑らかで、武骨な防具には見えない。

 人間と同じ長い指を持ちながら、一瞬にして凶器となりうる危険性を秘めた異形の手を、エリュイは目にしたことがあった。

 幼い頃、怯えるエリュイを抱き上げたザグレスの腕もまた、蛇のような鱗に覆われていたから。

 なすすべもなく立ち尽くしたまま、エリュイは双眸をきつく閉ざした。

 救いを求め、大地の神イシュヴァへの祈りを頭の中で唱え続ける。

 邪悪なものは入り込めないという《霧海の森》の聖なる力を、心底信じたいと思う。

 アリオンを亡くしたユリィヤが、《霧海の森》の傍に住み続けていたのも、ザグレスから逃れるため。

 森の聖なる力にすがったからなのだ。

 痛みをこらえるような苦しげな息づかいと、グルルと喉奥に絡まる低い唸り声が背後から響いてくる。

 そうして、樹雨に濡れたエリュイの髪が全て自由になり、ぱさりと背中に落ちると、謎めいたその存在は、霧に溶け込むように消えていった。

 振り向いた時には、不気味な黒い影も無く、森にはしんとした深い静謐が戻っている。

 かの者は、何故自分を助けてくれたのだろう?

 ザグレスなら、エリュイを二度と逃がすことなく、今度こそ捕らえたはずなのに。

 それとも、エリュイにとっては恐怖そのものとしか思えない存在が、聖なるイシュヴァの化身だったのだろうか? 

 姿を見ることはできなかったが、確かに、人ならざる強い力──魔力のようなものを放っていた。

「あれは……樹海の王、だったのか?」

 エリュイの胸に安堵と戸惑いが生まれ、その姿を探し求めるように辺りを見回した。

《霧海の森》に風が吹き始め、少しずつ霧が流されてゆく。

 うっすらと姿を現し始めた梢の狭間から、全ての幻惑を吹き払うように、眩い太陽が射し込んできた。