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猛る獅竜と永遠の契りを


《第1章》 闇に潜む魔獣

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 六月に入ると、北方大森林地域の中核都市ミルザには、各地から商人が集まってくる。

 夏至の日に行われる竜神祭に合わせて、ミルザの夏大市が催されるのだ。

 マディヤル王国内の商人だけではなく、隣国アゼリス王国から、神秘に包まれたクセル聖公国から、シディラスやモルシェドといった遥か南方の国々からも、様々な荷を積んだ馬やロバの長い隊列が、ミルザを目指して旅をしてくる。

 隊商が掲げる色鮮やかな旗印が、ミルザに向かう街道のいたるところで翻っていた。

 荒石が固められた市壁の外にも、荷馬やその他の家畜、農機具を扱う市が立ち、いち早く活況を呈している。

 街路を足早に行き交う人々の顔はやる気に満ち、町を練り歩く行商人のかけ声も威勢が良い。

 夏大市は、毎朝、日の出の鐘の音と共に始まり、日の入りの鐘で終わる。

 夜間は取引が禁止されているが、酒を呑み交わしながらの商談は、そこここで行われていた。

 交易所周囲の広場には、宿泊所の客引きや、護衛隊に自身を売り込もうとする傭兵、娼婦、物乞いが群がっている。

 誰も彼もが浮かれ騒ぎ、暗い顔をしている者など一人も見当たらない。

 混み合う町中を歩いていれば、そんな印象がどんどん強くなる。

 取り残されてしまったのは、行く当ての無い、エリュイただひとり──。

 激しい飢えに悲鳴を上げ、しくしくと痛む空きっ腹を抱えたまま、エリュイは、夜の帳(とばり)に包まれた町を彷徨い続けていた。

 空腹だった。

 最後にまともな食事をしたのは、家を飛び出した朝……五日前。

 両足は木の棒のように硬く、歩くたびに鈍い痛みが走る。

(──だめだ。もう、歩けない)

 木組み造りの家屋が連なる暗い路地裏に入り込んだエリュイは、壁に背中を預けて座り込んだ。

 表通りの喧噪も、ここまではあまり届かない。

 夜の街に繰り出した酔っ払いの間を縫って歩くには、腹をすかせたエリュイの躰は、みじめなほどくたくたに疲れ果てている。

 夏大市で活気づくミルザに辿り着きさえすれば、その後の事はどうにかなると考えていた。

 だからこそ、月明かりを頼りに、ほとんど夜を徹して歩き続け、恐ろしい《霧海の森》を抜けて来た。

 途中、何度か危険に遭遇したものの、大した怪我もなくミルザに着いたのは、本当に奇跡としか思えない。

 だが、奇跡は長く続かない。

 ミルザに入ってからというもの、一転して不運ばかり。

 なけなしの所持金は雑踏の中ですり盗られ、手元に残ったのは釣り銭の銅貨五枚だけ。

 働き口を求めても、ことごとく断られてしまった。

 このままでは、広場の物乞いになるか、のたれ死にするしかない。

 壁に手を突き、ふらつく躰を支えながら、エリュイは気力を振り絞ってもう一度立ち上がった。

 細い路地裏をゆっくりと進み、少しでも飢えをしのごうと町の水場を探す。

《霧海の森》からの湧水が豊富なミルザは、町角のあちこちに水盤が作られていて、住民や旅人にその恩恵を与えてくれる。

 眩暈を感じながら、エリュイは小さな広場で噴水を見つけた。

 厳つい獅子のごとき頭と、鱗に覆われた竜身を持つ、獅竜(しりゅう)像。

 大地の神である至高神イシュヴァの石像から流れ出す水を両手ですくい上げ、エリュイは何度も乾いた口へと運ぶ。

 干涸らびた躰に染みこんでゆく水は、大好きな蜂蜜のように甘い。

 汚れた顔を洗い、濡れた前髪を掻き上げる。

 エリュイは、広場の篝火の中に照らし出された夜の街並みを振り返った。

 昼が最も長く、夜が最も短い夏至の日に行われる竜神祭の準備が、ミルザでも進んでいた。

 太陽神ウィドゥの活力が衰えゆくのを防ぎ、小麦や畑の作物の豊壌を願うため、至高神イシュヴァの姿を模した麦わらの獅竜像が、町の住居のいたるところに飾られている。

 言い伝えられるマディヤルの神話によれば、イシュヴァ神は神世の時代、空にあった双月のひとつを地上に墜とし、新たなる大地を創造した。

 そして、様々な化身の姿を使って、今も世界を守っているのだという。

 例えば、イシュヴァの本性に最も近い第一の化身は、天空を翔る飛竜。

 神力の源である竜珠(りゅうじゅ)を握り、羽ばたく姿となって、世界を見守っている。

 第二の化身は、翼無き獅竜。

 獅子のごとく力強い脚で大地を駆け巡り、生命を守護する。

 豊壌と繁栄を司る獅竜は、農村や町の人々にも人気があるのだ。

 イシュヴァの化身たる獅竜を見た者はいないため、麦わらの竜神像は御使いとされる「狼」と「蛇」を組み合わせた不格好な姿だが、人々はそれを竜神の憑代(よりしろ)と信じて疑わない。

 かつては狼の生首を、長くよった麦わらにつなぎ合わせていたらしいが、昨今は木彫りの頭部がもっぱら利用されている。

 夏至が近づけば、手作りの獅竜は花輪で飾られ、沢山の松明が灯されて、人々と共に町中を練り歩くことになるのだろう。

 家族総出で、イシュヴァと神々、そしてあまたの精霊を讃え、その恩恵を願いながら踊るのだ。

 クセ聖殿の舞人たちもまた、花々のように華やかに着飾り、神々と精霊を讃える歌や舞踏を町中で披露するだろう。

 そしてその日は、一年で一番のご馳走が食卓に並ぶはずで……。

『沢山お食べなさいな、エリュイ。今日はお祭りなんだから』

 朗らかに笑う母の笑顔が瞼の裏に過ぎり、聞こえるはずのない声が届く。

 香草を効かせた揚げニシンの酢漬け、鮭と芋を牛乳で煮込んだ熱々のシチュー、牛肉の串焼き……そして、初摘みの苺で作った甘酸っぱいジャムと蕩ける蜂蜜。

 焼き立てのパンに塗って食べれば、嫌な事は全て忘れられた。

 母が作ってくれた食事を思い浮かべた途端、エリュイの腹はぐうと音を立て、胸の奥から冷たい寂寥がこみ上げてきた。

(あの頃は幸せだった。
 母様(かあさま)も……父様(とおさま)もいて──)

 優しい思い出を振り払うように頭を振ったエリュイは、荷馬の水飲み場になっている長方形の石桶の方へと移動すると、手綱を結ぶ馬留めの木柵に腰を下ろした。

「本当に……これから、どうすれば──」

 途方に暮れてしまい、気弱な独り言が口からこぼれる。

 疲れた躰を休めるようにうなだれると、髪を一つに結んでいた革紐が緩み、石畳の水溜まりにぽとりと落ちた。

 背中まで伸びた緋色の髪がほどけて、顔の横にさらさらと流れる。

 濃い赤毛だった母ユリィヤよりもずっと淡いが、町の篝火に照らし出されたエリュイの髪は、炎のような紅蓮に染まっている。

 それはあたかも緋色のヴェール──町に出た娼婦が顔を隠す時にまとう、淫らで艶やかな誘惑の証。

 慌てて革紐を拾い上げようとしたエリュイは、水溜まりの中に、驚くほどはっきり自分の顔が映し出されていることに気づいた。

 左の目尻にある小さな黒子(ほくろ)や、男であるのに柔らかな曲線を描く唇。顔の造作は明らかに母親に似ていて、懐かしさと忌避する感情が同時に生まれる。

 今はよく見えないが、銀色がかった空色の双瞳は、父アリオンの家系から引き継いだものらしい。

 アリオン自身は、深い菫色の瞳だったけれど。

 清廉な父の美貌に似ていれば、もっと自分の事が好きになれただろうか?

 美しいと称賛される一方で、毒があるとか、色情狂いだとか、根も葉もない噂を立てられる自分の容姿が、エリュイは嫌いだった。

「娼婦のヴェール」と揶揄される髪を、切ろうと思ったことが何度もある。

 己が許されざる不義の子だと、生まれながらに刻印されているようにすら感じていた。

 そして、人目を惹くこの容姿は、いつも厄介事ばかり招き寄せてしまう。

「俺たちみたいな力仕事をするより、金持ちの奥方や旦那方に可愛がってもらった方がいいんじゃねえか?」

 今日も、朝のうちから働き口を求め、ミルザにある鍛冶屋の門戸を片っ端から叩いたが、親方衆はエリュイをひと目見るなり、すげなくあしらった。

 それどころか、じろじろと無遠慮に全身を眺め回し、嘲る者もいる。

 エリュイの細い体格は、男らしい逞しさとは無縁だった。

 年の近い幼なじみたちが、育ち盛りの時期に背丈が伸び、大人の男たちの仲間入りをしていくのに、エリュイだけは時が止まったかのように華奢なまま。

 町を歩けばいつも若い娘と間違われ、男だと言い張っても卑猥な野次の餌食になる。

 髭も生えず、腕や足も赤ん坊のようにつるつるのままだったから、口の悪い者たちからは「女男」とからかわれた。

 結局、誰から見ても軟弱に見えるのだろう。

 だが、そうだとしても、他に何の才能も取り柄もないエリュイにできるのは、継父(けいふ)クラヴトに教わった鍛冶仕事だけだった。

 剣や槍といった武器を一から作り上げる技量は無く、せいぜい日用品を修理する程度のつたない腕前であったとしても。

 もし雇ってくれる鍛冶屋がミルザに一軒も無ければ、他の職を探さなければならないが──。

(だけど……あの家には、もう絶対に帰らない。
 私は一人でも、生きていける)

 水に濡れた革紐を握り締め、エリュイは心の中で誓いを新たにした。