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猛る獅竜と永遠の契りを


《第1章》 闇に潜む魔獣

<3>



 馬留めの木柵に座り込んだまま、いつの間にかうたた寝をしていたエリュイの頭上で、突然、その低い声が響いた。

「──おい。そこをどいてくれ」

 頭のずっと上から……だが、深く低く響く重厚なその声は、耳元で話しかけてきたかのように強く伝わり、胸の奥にまでずしりと届く。

 状況も判らないまま混乱して立ち上がろうとした途端、眩暈に襲われ、視界がくらりと波打った。

 石畳でつまづき、大きく揺れたエリュイの躰は、そのまま地面に向かって倒れ込んでゆく。

 衝撃を覚悟して、エリュイはとっさに両目をつぶった。

 だが、想像していたような、硬い石畳に打ちつけられる苦痛は、いつまでも襲ってこない。

 誰かの逞しい腕が腰に回され、エリュイの躰を受け止めていた。

 全身がそそけ立ち、さざなみのような戦慄が駆け巡る。

 はっと目を見開いたエリュイは、自分を抱き留める男の顔を見上げ、ぎくりと躰をすくませた。

 男の双眸が……血に塗(まみ)れた黄金のように輝いている。

 思わず瞬きをすると、エリュイを見下ろしていた男はふいと視線を外し、もう片方の手で手綱を引いていた馬を見つめた。

 銀色にも見紛う灰色の巨大な馬は、ブルルっと鼻を鳴らし、エリュイが座っていた水桶に突進する。

 よほど喉が渇いていたのか、パシャパシャと飛沫(しぶき)を撥ねかせながら、一心不乱に水を飲み始めた。

「驚かせて悪かったが、ヒルヴォも余裕が無かったんでな」

 ぼそりと低い声音で呟いた男は、エリュイの顔に視線を戻す。

 彫りの深い目許は暗く沈み、金色にはもう見えない。

 街の明かりが反射して、光ったように見えたのだろうか?

「い、いえ……私の方こそ、すみませんでした」

 気を取り直して、エリュイは小声で謝った。

 男は無言でうなずくと、エリュイの腰に回していた手を引き、自分もまたイシュヴァ像の水盤へと近づいてゆく。

 他の旅人と同じようにザバザバと顔を洗い、豪快に水を飲んでいる男の広い背中を、エリュイはしばらく呆然と見つめていた。

 背が高く、肩幅が広い。

 片腕に抱かれていた時、エリュイの顔は、男のちょうど胸の辺りまでしか達していなかった。

 長旅でくたびれた旅装の下には、鍛え上げられた筋肉質の体躯が隠されており、彼がただ者ではないことをうかがわせる。

 がっしりとした腰には皮の剣帯に吊された三日月型の短刀。

 背中には黒皮が巻かれた短弓と矢筒が斜(はす)にかかっている。

 武装はしているが、王国の騎士のように鎖帷子などの防具はつけていない。

 膝まで届く、袖の無い黒革の上衣は、防具として役立つのだろうか?

 見るからに戦士のようではあったが──。

(……傭兵なのかもしれないな)

 馬の鞍に、長い剣がくくりつけられている。

 猟師なら、長剣を必要とはしないだろう。

 アリオンと同じクセ聖殿の舞闘師(ぶとうし)であれば、髪を長く伸ばしているだろうし、それと判る白い服装をして、もっと身綺麗にしている。

 肩口まで届く男の銀鋼色の髪は無造作に散らばっていて、お世辞にも優雅とは言い難い。

(そうだ……父様は、いつも美しくて、優しかった)

《天舞(てんぶ)のアリオン》──その異名に違わず、アリオンは姿形だけではなく、所作の一つ一つが舞うように優美で、洗練されていた。

 この男のように、猛獣を思わせる粗暴な雰囲気は無い。

 だが、どことなく荒々しく危険な男だと、怯えのような気後れを感じながらも、エリュイは彼から目を離せなくなっていた。

「お前、そんなに俺が珍しいか?」

 惚けたように逞しい背中を見つめていると、振り返ったその男が唐突に訊ねてきた。

 不躾な眼差しを向けていたことが急に恥ずかしくなり、エリュイは慌ててうつむいた。

「す、すみません。
 ただ、旅の方なのだろうかと考えていて……それで──」

 泥水に濡れた石畳を見下ろし、エリュイは口ごもる。

 じろじろと見ていたのだから、咎められても仕方がない。

 好奇の目にさらされて不快な気分になるのは、自分でも十分に判っているはずだった。

 しかし男は、それ以上は何も言わず、馬の鞍に引っかけてあった布を取って、ごしごしと顔や頭を擦り始めた。

 硬そうな無精髭に覆われた顎や、額から高い鼻梁にかけての線は整っていて、男らしい顔立ちだった。

 儚さなど微塵も無い、野生の荒々しさと厳しさを秘めた精悍な風貌は、三十歳前後の年齢に見える。

「確かに俺は旅をしているから、間違いではないな。
 そういうお前は、この町の者か?」

 にやりと唇の片端をつり上げて、男が聞き返してくる。

 笑うと、威厳漂うその顔に、ほんの少しだけ愛嬌と、ぞくりとするような雄の色香が加わった。

 思いがけない笑顔に面食らい、エリュイは瞬きをすると、小さくうなずいて見せた。

「なら、馬を置ける良い宿を教えてくれ。
 俺はともかく、ヒルヴォが安心して休める宿がいい」

「宿……ですか?」

 店の看板に目を向ける余裕が無かったから、この辺りに宿があったかどうか全く覚えていない。

 きょろきょろと辺りを見回したエリュイに、男はさらに条件を重ねた。

「美味い酒にありつけて、佳(い)い女が抱けるなら最高だがな」

 酒と女。つまり、この男は妓楼を探しているということだろうか? 

 生まれてから一度もそのような場所に足を踏み入れたことはなく、行きたいと思ったことすらない。

 ましてやミルザの町に、さほど詳しいわけでもなく──。

 返答に窮したエリュイは、自分を見つめている男から視線をそらし、助けになりそうな誰かを無意識に探していた。

 ところが、つい先程まで噴水の周りにいた大勢の人々は姿を消し、いつの間にか二人きりになっている。

「あの……あなたがお探しの女性が、どういう人なのか私には判りません。
 それに、私はそういう場所に行ったことが無いから、厩舎がどうなっているのかも知らない。
 もっと詳しそうな人に聞いた方がいいと思います」

「なるほど。そうか。聞いて悪かった」

 何が面白いのか、忍び笑う男をまじまじと見つめているうちに、最初に感じていた恐れや緊張がほぐれる。

 その途端、忘れていた空腹が目を覚まし、ぐうと辺りに聞こえるほどの音を立てた。

 恥ずかしさと情けなさで一気に頬が紅潮し、エリュイは慌てて鳩尾を押さえると、顔を隠すようにうなだれた。

「俺の名はグウィンザ。俺もミルザに着いたばかりで、腹ぺこだ。
 知り合ったついでに、メシに付き合わないか?
 ミルザを案内してくれたら、その返礼にご馳走しよう」

 そのまま同意するのが当たり前だと感じるような何気ない口調で、グウィンザと名乗った男は誘いをかけてくる。

 突然の申し出にエリュイは狼狽え、迷いを露わに瞳を揺らした。

 食費もままならない今の自分にとっては魅力的な言葉だったが、知り合ったと言っても、お互いの事はまだ何も知らない。

 そもそも、このグウィンザという男が悪人だとしたら、一緒について行った途端、酷い目に遭うかもしれない。

 警戒するエリュイの脳裏に、ふと疑念が浮かんだ。

(この人は……私のことを、女だと勘違いしてるんじゃないのか?)

 骨太の逞しい体格には育たなかったから、今では間違われても仕方ないと諦めているくらいなのだ。

 実際、下心を隠した男たちが、馴れ馴れしく声をかけてくることも多い。

「あの……私は男なんです。
 ですから、もしあなたが女性をお誘いになりたいなら、他の方に声をかけてみてください。
 私では、あなたのご期待に添えないでしょうから」

 言葉を選びながら、エリュイが丁寧に断ると、グウィンザは心外だと言うように片眉をつり上げ、ひどく謎めいた微笑を唇に湛えた。

「勘違いしたわけじゃないぞ。お前は女の匂いがしない。
 そもそも、お前が本当に女だったら、こんなまどろっこしいやり取りはしない」

「──えっ?」

 気まずさに動揺し、エリュイの顔色が変わる。

 羞恥で赤くなった一拍後には、グウィンザを侮辱してしまっただろうかと青ざめた。

 そんな表情を、グウィンザは双眸を細めて見つめていたが、不意に長く逞しい腕を伸ばし、エリュイの顎を指先で捕らえた。

 節ばった武骨な手に触れられた瞬間、エリュイの全身にぞくりと訳の判らない戦慄が走る。

 硬直したエリュイの顔を上げさせたグウィンザは、笑みを消した表情でじっと見下ろし、そのまま指先を顎から頬へと滑らせていった。

 硬い指の感触……長い中指が、左の目許で止まり、母親譲りの泣き黒子をなぞる。

 親指が唇の曲線をたどり、柔らかさを確かめようとするように、口の間(あわい)にわずかに差し入れられる。

 両目を見開いたまま凍りつくエリュイの耳元に、グウィンザは唇が触れんばかりに顔を寄せると、吐息を吹き込むように囁いた。

「今夜だけでいい。俺の女になれ」