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猛る獅竜と永遠の契りを


《第1章》 闇に潜む魔獣

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 太く艶のある低音が、鼓膜を震わせる。

 思いがけない事態に混乱していたエリュイの頭は、その刹那、パンと光が弾けて真っ白になった。

 同時に、雷が背筋を貫いてゆくような痺れに襲われ、膝ががくりと崩れる。

「……おっと」

 すかさず腕を伸ばしたグウィンザは、頽れたエリュイを支えると、声を立てて笑い始めた。

(──からかわれた!?)

 グウィンザの腕にしがみついていたエリュイは、きっと視線に力を込め、笑い続けている不埒な男を睨みつけた。

「ふざけないで下さい!
 もし私が女だったとしても、あなたのものには絶対になりません」

 魅力をひけらかす自信過剰な男に、ぴしゃりと厳しい拒絶を叩きつける。

 突き飛ばすようにしてグウィンザの腕の中から逃げ出たエリュイは、息を切らしながら振り返った。

 忌々しいことに、グウィンザは何の痛痒も感じていないかのように含み笑いを浮かべたまま、もの珍しげにエリュイを眺めている。

 瞳に怒りを集中させたエリュイは、もう一度強く睨みつけ、きつい言葉をグウィンザに投げつけようと肩をいからせた。
 

 その時、街角からちょうど出てきた二人の男が、身振り手振りを交えて話し合いながら、水場の方へと近づいてきた。

 エリュイの声が響いた途端、彼らは驚いたようにこちらを向き、一瞬立ち止まる。

「もし、そこのお二人。言い争っているようでしたが、何か問題でもありましたか?」

 薄暗がりの中から、松明の光の輪に入ってきた男の一人が声をかけてくる。

 男たちの服装は、ひと目で富裕層と判る立派なものだった。

 ぴったりとしたズボンの上に、長袖のチュニックと、袖無しの外衣を重ねて着ている。

 外衣は毛皮で縁取られた焦茶色で、金色の装飾ボタンで飾られていた。

 膝まで覆う丈の長靴は、土埃を被っているものの、まだ新しいものに見える。

 彼らはそろって、額のところで真っ直ぐに切りそろえられた髪の上に、柔らかな縁なし帽子をかぶっていた。

 顎髭は綺麗に切りそろえられているから、恐らくは、町の役人か、商人なのだろう。

 農村の者や職人たちは、これほど服装には気を遣わない。

「何だ、お前たちは?」

 グウィンザが冷ややかな威嚇の声を上げる。

 近づくなと言わんばかりの迫力に、二人の男は怯んだ様子だったが、困惑気味なエリュイの顔を見ると、愛想笑いを浮かべながら近づいてきた。

「私は、この夏大市を巡回する徴税士でして。
 市場税をもらい受けるのが仕事です。
 ああ、ご心配なく。今日の仕事はもう終わりましたから、あなた方から税金を取ろうなどとは考えていませんよ」

 警戒を深めるグウィンザの顔色をうかがいながら、男は冗談で場の雰囲気を和ませようとする。

 徴税士は、夏大市の監督官の手足となって商人たちから市場税を徴収し、さらに商人の間で起こるもめ事や、市場での犯罪を未然に防ぐ役目も負っているそうだった。

 彼の身分に偽りがない事を示す、羊皮紙の告示書も広げて見せてくれる。

 争っている二人の様子が気にかかり、声をかけてきたらしい。

「す、すみません。特に問題があるわけではないんです。
 この方に……ただ、宿について聞かれただけで」

 表情を消したグウィンザの顔を見上げたエリュイは、慌ててそう言い繕うと、ふと思いついて徴税士に訊ねた。

「もしご存知でしたら、教えていただけませんか? 
 馬がちゃんと休めて……それから、美味しい酒と、綺麗な女の人がいるような宿屋が、ミルザのどの辺りにあるのか」

 夏大市をくまなく巡る徴税士であれば、当然、ミルザの町全体にも詳しいだろう。

 ところが、エリュイの言葉を訂正するように、むっつりと両腕を組んでいたグウィンザが口を挟んできた。

「俺は、綺麗な女とは言わなかったぞ。佳い女と言ったんだ」

 ミルザの役人の前で、ふてぶてしい事この上ない。

 本当なら、質問するのはエリュイではなく、グウィンザ自身である事柄なのだ。

 横柄な態度がしゃくに触り、思わずエリュイが流し目で睨むと、グウィンザはわずかに唇の片端をつり上げた。

 悪辣な無頼にさえ見えるが、その微笑はひどく魅惑的で、だからこそ腹立たしい。

 同性のエリュイの心までも掻き乱してしまうのだから、相手が女性ならひと目で恋に落ちるかもしれない。

 あえてグウィンザを無視することに決め、エリュイは徴税士と、その連れの方に視線を戻した。

 人の善さそうな徴税士の横にいる男は、先程からエリュイをじっと見つめていて、目線を離さない。

 顔は笑っているが、その目には値踏みをしているような狡猾さが潜んでいた。

「佳い女と申されますと、つまり、その……」

 要求を察しつつ言葉を濁した徴税士を見下ろし、グウィンザは意地悪く嗤う。

「俺が探しているのは、後腐れのない、一夜の恋人になりそうな玄人(くろうと)だ」

 ただ長旅で溜まった欲望を満たしたいだけ──グウィンザは、悪びれもせずに堂々と言い放つ。

 エリュイは何も言い出せずに呆れていたが、徴税士は納得したような表情でうなずいた。

「それでしたら、《石竜館》がおすすめですよ。
 シディラスから来る商人たちが集う隊商宿で、妓楼ではありませんが、異国の風情が楽しめます。
 シディラス商人は、金離れが良いんです。
 ですから、そんな彼らを金づるにする娼婦や、気晴らしを求めるどこぞの奥方が出入りするって、ミルザでは有名なんです。
 あなたなら、いくらでも相手を見つくろうことができるのでは?」

 徴税士という仕事柄、特定の妓楼を贔屓にして、旅人に薦めるわけにはいかないのだと、彼は朗らかに笑う。

 自分は客引きではないからと。

 その《石竜館》という宿場は、一階が交易所や酒場になっており、宿泊客は二階と三階にある部屋で寝泊まりができる。

 ほとんどが相部屋になっているが、それなりの金を支払えば個室にも入れる。

 ミルザの中でも一、二を争う規模であるため、厩舎もきちんと整備されているそうだった。

 よく知っているのか、徴税士は細かく説明をした。

 グウィンザが道を訊ねると、それまで黙っていたもう一人の男が、自分が送って行こうと申し出る。

 彼はミルザを訪れる旅人を相手に、町案内や交渉の代理を行っているらしい。

 徴税士と案内人は、エリュイたちに背中を向けて、二言、三言、声を潜めて何事かをやり取りしていた。

 エリュイはほっと嘆息をもらし、ちらりとグウィンザを盗み見る。

(まったく。どうして、こんな人に──)

 どうしたことか胸の奥の苛立ちがなかなか治まらず、エリュイは眉根を寄せた。

 一瞬でも気を許しそうになったから、グウィンザにからかわれた事が気に入らないのかもしれない。

 世間知らずだと揶揄されているようで……。

 確かに、十九歳になってもまだ、肉体的に他の誰かと交わったことなどなかったけれど。

 村人から話だけはいろいろ聞かされていたが、そういう親密な触れ合いをエリュイは拒絶してきた。

 中途半端に成長が止まってしまった自分の肉体が、女たちから嗤われるのではないかと怖かった。

 言いふらされた噂で、村中の物笑いになるのも嫌だった。

 そこに考えが至った瞬間、継父クラヴトに押し倒され、服を脱がされそうになった事を思い出す。

 酒に泥酔したクラヴトは、エリュイを母だと思いこみ、豹変した。

 それまでも、酒に酔うと時々ユリィヤと間違い、抱きつかれたり、躰を触られたりすることはあったが、あんな事は始めてだった。

 エリュイはきつく瞼を閉ざして頭を振り、ずっと「お父さん」と呼んでいた男の顔を脳裏から消し去ろうとした。

 家族は、もういない。そして、これからも……。

「おい、お前。俺と一緒に来るつもりはないのか?」

 厳しい目つきでグウィンザに睨まれていたことに気づき、エリュイは困惑を隠してうなずいた。

「え、ええ……私は、家に帰ります」

 とっさに嘘をつく。

 躊躇いを見せれば、グウィンザに連れ去られてしまいそうな気がする。

 グウィンザは琥珀色の双眸を細めてエリュイを見つめると、どことなく挑発的な笑みを浮かべた。

「そうか。それなら次の奇遇に期待しよう。
 またすぐに出会うかもしれない」

 愛馬ヒルヴォの手綱を引いたグウィンザは、「世話になった」と告げて、その場に残ったエリュイの前から立ち去ろうとする。

「……あ、あのっ──グウィンザさん!」

 振り返ったグウィンザの顔を見た途端、どうして呼び止めてしまったのか判らず混乱し、エリュイは声を詰まらせた。

「どうした?」と問われるような眼差しを向けられると、ますます動揺して言葉が出なくなる。

「あ、あの……あなたには──帰りを待っている家族や……奥さんは、いないんですか?」

 口に出してしまってから、何故そんな事を聞いてしまったのかと、エリュイは後悔した。

 足を止めたグウィンザは、わずかに首を傾げてエリュイを見返すと、広い肩をすくめる。

「いずれはできるだろう。今はいなくても。そう信じることにしている」

 飄々とした声音で質問に応じたグウィンザは、エリュイに向かって不敵に笑って見せる。

 グウィンザの姿が夜闇の中に消えると、束の間忘れていた不安に胸が締めつけられ、エリュイは嘆息をもらした。

 グウィンザが最後に残した言葉が、空虚な心の中に余韻のごとく響いている。

 彼もまた、孤独な流浪の身なのかもしれない。

 帰りを待つ家族はいない……帰る場所もない──自分と、同じように。

「ところで……君は、本当に大丈夫なんですか?
 何か困っていることがあるなら、相談に乗りますよ」

 深い憂いに沈み込みそうになっていたエリュイは、徴税士の声に意識を引き戻され、思わず瞬きを繰り返していた。

 ほんのわずかな時間だったが、彼の存在がすっかり頭から抜け落ちていた。