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猛る獅竜と永遠の契りを


《第1章》 闇に潜む魔獣

<7>



 その時──。

 場違いなほど陽気で野太い歌声が部屋の外で響き渡り、ほどなく、酔っ払った男の怒鳴り声と共に、扉がガンガンと乱暴に叩かれた。

「お〜い、ここを開けてくれ。ご主人様のお帰りだぞ」

 不審者の登場に、隣室に控えていた二頭の犬がワンワンと吠え立てる。

「──何事だ?」

 思いがけない邪魔に苛立ったのか、双眸を眇めたメギュレはエリュイから離れ、事の成り行きを探るように騒音に意識を向ける。

「たすけ……助けてっ! 誰か……助けて!! 殺される!!」

 エリュイはとっさに、腹の底から声を振り絞った。

 突然噴き上がった悲鳴に、さすがのメギュレも驚愕したのか、慌ててエリュイの口を塞ごうとする。

 力ずくで黙らせようとする手から顔を背け、エリュイはあらん限りの声で「助けて」と叫び続けた。


 
「申し訳ありません、ご主人様。
 酔い潰れたどこぞの男が、廊下で騒いでおりまして」

 別室に控えていたメギュレの使用人が、慌ただしく飛び込んでくる。

 恐縮しきった面持ちで報告するその男を睨んだメギュレは、エリュイに猿轡を噛ませ、見張っておくようにと命令した。

 やはり騒ぎの行方が気になるのか、様子を確かめに寝室から出て行く。

 一方の使用人は、主の命令を忠実に実行するべく、なおも騒ぎ立てようとするエリュイの口に布地を押し込んだ。

 後頭部に回した布端を固く結び合わせると、さらに解くことができないよう両手首をも結わえてしまう。

 のろのろと頭を振ろうとしながら、エリュイはくぐもった呻きを上げた。

 いつの間にか、酔っ払いの大騒ぎは聞こえなくなっている。

 助けてもらえるのではと希望を抱いた。

 だが、願いは届かず、さらなる窮地に自分を追い込んでしまったのだ。

 メギュレ一人ならばまだしも、相手が二人になれば、弱り切った躰で逃げることは難しい。

 突然、何かがぶつかったような大きな衝突音が響いた。

「うわあぁっ──化け物だあぁっ!」

 恐怖に満ちた叫び声が上がる。

 何が起こったのかと、見張りの男がぎょっとしたように振り返った。

 燭台の炎が消えてしまったのか、隣室を照らしていた燈明(あかり)が失せる。

 躰を緊張させたエリュイの前に、血相を変えたメギュレが飛び込んできた。

 先刻までの余裕は消え失せ、剣を抜いた顔は青ざめてさえいる。

「燈明(あかり)を寄越せ!」

 動揺しておろおろする見張りの男に怒鳴りつけたメギュレは、寝台の傍の燭台を受け取って振り返った。

 暗闇を照らすように燭台を翳し、姿の見えぬ敵に対して身構える。

 隣の部屋から、グルルル……ッと地底から響き上がるような獰猛な唸り声が低く轟いた。

 人間ではない、猛獣を思わせる不気味な声。

 寝台に転がされていたエリュイは、それを聞いた途端、全身の血が凍りつくような恐怖に襲われた。

(まさか……まさか……ザグレスが……?)

 死んだはずのザグレスが生き返るはずはないのに、今もまた、過去から伸びてくる黒い呪縛に囚われそうになる。

 次の刹那、暗闇に潜んでいた何かが、目にも止まらぬ速さで飛び出してきた。

 その黒影は、メギュレが持つ燭台へと飛びかかり、取り落とさせる。

 床に落ちた蝋燭の炎が消えると、漆黒の闇に閉ざされた寝室の中に、妖火のように爛々と耀う紡錘形の大きな瞳が浮かび上がった。

「ヒッ……ひいいっ! 助けてくれーっ!」

 恐怖が忍耐の限界を超えたのか、メギュレの使用人が大きな悲鳴を上げて逃げ出していく。

 魔獣は間髪入れずに男の背後に飛びかかり、強烈な力で床へと叩きつけたようだった。

 エリュイの目には何も見えないが、ドンッと倒れ込む重々しい衝撃音が響く。

「おのれ、化け物めが!」

 焦燥に裏返った罵声を上げ、メギュレが動く。

 光り輝く魔獣の双眸に目がけて斬りかかったようだが、闇に溶け込んでいる敵の前には無力だった。

 短い苦悶の呻きを一声上げた後、メギュレの気配が消える。

 しんとした静けさが部屋に満ちると、「何事だ?」と騒ぎ立てる野次馬たちの声が、壁の向こうでひときわ大きく響いた。

 この部屋の中にいるのは、エリュイと……謎に包まれた魔獣だけ。

 助けに来てくれる人はいない。守ってくれていた父も、母も……死んでしまったのだから。

 ギシリと寝台が軋み、エリュイの躰に何かが触れた。

 人の髪よりもずっと硬質な感触の体毛が、ほとんど裸にされていたエリュイの肌をざらりと撫でる。

「……ザ……ザグレス……」

 恐怖に支配され、意識が急速に遠退いてゆく。

 逃げることはできない。

 ならば、せめて……苦痛を感じないよう、一瞬でこの命を奪ってほしい。

 そんな虚しい願いを脳裏に思い浮かべたまま、エリュイは気を失った。



 夜更けになっても、《石竜館》の周りは騒々しい。

 街区ひとつを丸々占領するほどの規模を持つ《石竜館》は、あたかも壁に囲まれた小さな城塞であったが、それが今、戦が起こったかのような不穏な空気に包まれている。

 さらにその周辺では、ミルザの警邏兵が怒鳴り声を上げながら、町一番の隊商宿を襲撃したという怪物を探し回っている。

 不夜城となったミルザは、今宵、町の隅々まで捜索が行われたのだろう。

 ミルザにとっては何よりも大事な夏大市と竜神祭を騒がせる元凶を突き止めるため、町の守備隊全員が駆り出されているかのような篝火の勢いだった。

 夜明けに近い空にかかる下弦の月は、暗闇を照らし出す警邏兵の松明に比べ、いつもより幾分控えめに感じられる。

「やれやれ、大騒ぎになっているな。厄介な事だ」

 騒動の中心になっている《石竜館》よりも、さらに路地の奥にある《白鹿亭》という名のうら寂れた旅籠(はたご)に宿を取っていたグウィンザは、大きく開いた窓の桟に腰かけて、赤々と空を染める篝火を眺めていた。

 興奮しきった目撃者の話によれば、《石竜館》を襲った怪物は熊のように巨大で、狼のような姿をしていたらしい。

 あり得ないほど極大な猿のようだったと語る者や、イシュヴァの化身獅竜だったと断言する者もいる。

 闇に消えた魔獣の姿を見た者はほとんどいないというのに、事細かにその容貌が人々の間で囁かれているのが不思議だった。

 無意識に、右手の親指に嵌めてある銀の指輪をなぞっていたグウィンザは、丸く削られた表面に視線を落とした。

 竜神イシュヴァ神殿の紋章、両翼を広げた飛竜の刻印。

 印章としても使用するため、浮き彫りにされたグウィンザの名前と身分は、鏡文字になっている。

 表向きの立場は、イシュヴァ神殿の騎士。

 だが、指輪の裏には、マディヤル国王直属の巡察官であることを示す、暗号の乱数が刻まれている。

 世界を渡り歩くイシュヴァ神殿の《探求の騎士》であることも、王の密命を帯びてマディヤル国内を視察し、問題があれば調査する巡察官であることも、過去の記憶を失っているグウィンザには、相応しい身分であるのだろう。

 ひとつ所に留まらず、放浪を続けていれば、正体を怪しまれることはない。

 昔の知り合いに出くわす可能性も低い。

(──もっとも、シディラス商人が多い《石竜館》には、俺を見知っている者がいるかもしれないが)

 奴隷の烙印を背中に押され、シディラスの武器商人の所有物となり、剣闘士として戦っていた頃。

 グウィンザとしての記憶は、そこから始まっている。

 血と暴力と殺戮に明け暮れていた日々。

 戦いの勝者は神のごとく崇められ、寝台に侍る美しい女たちが、夜毎現れては消えてゆく。

 残酷な本性を剥き出しにして、泣き叫ぶ女や……時には男も、陵辱する。

 正体を見た者たちの命は、その場で絶たれた。

 背徳の饗宴に差し出された憐れな生贄は、犯されながらも快楽にむせび啼き、恍惚の中で死んでゆく。

 己は何者であるのか?

 失われた記憶を取り戻すため、秩序正しく、文明豊かなマディヤル王国に戻ってきた今でも、時々、陽炎の中に揺れる闘技場を夢に見る。

 夜風に揺れる白い紗幕と麝香の香り、艶めいた喘ぎと、血に染まった絹の敷布──おぞましくも醜い、罪の記憶。

 戦い続けることは、グウィンザの天性であり、本能と深く結びついた欲望だった。

 それゆえに、荒ぶる衝動に箍(たが)をはめ、自らを律して神殿騎士として生きねばならない今の境遇は、自由でありながら、ひどく窮屈に思えることがある。

 精力も人並み以上に強く、絶倫だと交わる女たちを嘆かせてはいたが、特定の誰かを求めたことは一度もない。

 それでもグウィンザは、餓えたように何かを……誰かを探し求めている。

 溜息をついた時、上空から柔らかな羽音がして、真っ白な翼の梟が一羽舞い降りてきた。

 空を仰いだグウィンザが片腕を伸ばすと、白梟は物怖じもせずに鉤爪を開き、止まり木代わりに腕に止まる。

「ホウ」と一声鳴いた白梟の頭を指先で撫でてやると、ぎょろりと見開かれていた瞳がゆっくりと瞬き、青い光を封じた石のように光った。

『厄介な荷物を抱え込んだようだな、グウィンザ。
 そなたの身を滅ぼす災厄になるとも知れぬのに』

 白梟の嘴から、しゃがれた老婆のような声が突如として飛び出してくる。

 ひどく聞き取りづらいその声に苦笑しながら、グウィンザは寝台を占領している人影に視線を向けた。

 エリュイという名を持つ、美しい若者。

 窓から射し込む月光と町灯りだけが、小さな部屋を照らす光だったが、そんな仄暗い中でさえ、グウィンザの黄金の眼は、ぐったりと横たわるエリュイを見逃すことはない。

 ゆっくりと規則正しく繰り返される寝息もまた、先程から変わらず秘やかに響いていた。

「ああ……あれか。拾うつもりは無かったんだが、行きがかり上、仕方なくな」

『月が満ちる前に、早々に放り出せ。
 危険を冒してまで、助けるに値する者なのか?
自我を失うほどに狂えば、そなたはまた記憶を失うことになるのだぞ』

 月の魔力は、満ちるほどに強くなり、狂気の囁きでグウィンザを惑わし続ける。

 月神ニュヴスがもたらす狂気に蝕まれ、自我に虚ろを増やし続ければ、いずれは破滅するしかない。

 だが、流れる血潮の奥深くから、声なき声が囁きかけてくるのだ。

 かつて月が二つ存在した太古の世界から続く竜の血は、理性の箍で抑え続けていなければ、小さき人間の自我などあっさりと駆逐してゆく。

「《竜の眼》からのわざわざの警告、感激して泣けてきそうだ。
 長旅をするうちに、この俺に情が移ったか?」

 揶揄するように言葉を返すと、白梟は怒ったように羽毛を大きく膨らませ、鉤爪に力を込めた。

 鋭く尖った鉤爪が、容赦なく腕にめり込んでくる。

『たわけた事を。
 狂気がそなたの人格を破壊し、そなたが暴走するなら、私はそなたを処刑し、早々にこのつまらぬ務めから解放される。
 その時が今から待ち遠しいほどだ』