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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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「──サイラ、もっと膝を伸ばして!」

 地面に敷いたむしろの上に座り、練習用の木琴を八拍子で打ち鳴らしていたナランが、すかさず厳しい声を上げる。

 左膝を曲げ、右足を伸ばして円を描くように動いていたサイラは、慌てて右膝を真っ直ぐに伸ばした。

 複雑に連なる両手の手印を形作ることに気を取られ、一瞬、足許への意識が疎かになっていたらしい。

 ナランと共に暮らし始めてから十八年間、サイラはほとんど毎日のように、歌と舞踏の稽古に明け暮れていた。

 クセが伝えた秘伎を、ナランから継承し、天の舞人に少しでも近づくために──。

 ただそれだけが、《半月》の己が生き長らえ、ナランに巡り逢った意味なのだと、サイラは信じていた。

 そして何よりも、クセのように精霊と共に歌い、踊ることが大好きだった。

 両足で描き出す聖なる陣紋は、世界の力を呼び覚ます。

 もっとも重要とされるのは、爪先で大地を踏む「一点」。

 それは宇宙の始まりと終わりを象徴し、天律の神々や精霊、地霊への祈りの合図となる。

 そして手印は、呼び起こされた力を封じ込めるための所作。

 片手の独立した型だけでも三十、両手を組み合わせた型はさらに二十五ほどあり、それぞれに「太陽」「月」「蓮」「狼」「剣」などの美しい名前が付けられていた。

 今一度、サイラは呼吸を整え、爪先で大地を打った──一点。

 足首に巻いた銀鈴が、シャンと涼やかな音を立てる。

 天に差し伸べた右手は「太陽」、大地を押さえる左手は「蛇」の手印を結び、木琴の拍子に合わせて右に旋回する。

 右の螺旋は世界の力を巻き込み、凝縮させてゆく。

 その時、サイラの舞踏に合わせて、周囲の空気がちらちらと輝き始めた。

(ああ……精霊だ)

 音無く響き続ける世界の波動の中で、サイラは踊り続ける。

 翻弄されそうなほどに荒々しい力──大地から迸る熱い波動が全身を貫き、天を目指して駆け上ってゆく。

 偉大なる天律の神々への賛歌を口ずさむ。

 肉体を使う舞踏が聖なる神殿であるなら、内側から生まれる歌こそは魂の祈り。

 舞踏の流れに乗って、古の言葉がきらきらと輝く。

(天の舞人クセに……僕の祈りを──)

 サイラの胸の奥から温かな思いが溢れ出し、天に向かって羽ばたいた。




 鎧戸(よろいど)の隙間から射し込む一筋の曙光(しょこう)が顔を照らし出すと、サイラはぱちりと瞼を開けた。

 毛布の中で大きく背伸びをすると、寝台の隣で眠っていた大きな狼が、朝の挨拶をしようと長い顔を伸ばしてくる。

「おはよう、スヴァル」

 白い狼の顔を抱き締め、サイラは陽射しをたっぷり浴びた乾いた臭いを吸い込んだ。

 薄い夜着姿のまま母屋の外に出たサイラは、戸口の前に置かれた大きな水桶で顔を洗った。

 その後、壁に吊り下げられた紫薫草(しくんそう)の束を水に浸し、首や胸元、両腕を何度も払う。

 水を吸った薬草が肌に触れた途端、涼やかな香りが辺り一面にふわりと広がる。

 深々と息を吸い込むと、香りが全身に行き渡った。

 寒さに震えながら寝室に戻り、サイラは白い麻布で作られた袖無しの聖衣に着替えた。

 聖別された長衣の胸元には、青い太陽神ウィドゥの紋章──翼を広げた大鷲──が刺繍されている。

 聖なる神紋を織り出した青い帯を腰に巻き付け、手早く身支度を整える。

 寝癖で乱れた琥珀色の髪にざっと手櫛を通し、サイラは小走りで母屋の外に駆け出した。

「ナラン、おはよう」

 毎朝の礼拝を行う場所には、すでに養母のナランが先に来ていて、静かに瞑想をしていた。

 かつて、聖都クセの舞人だったというナランは、七十歳を過ぎた今でも、背筋がぴんと伸びていて、若々しい。

 サイラよりもずっと華奢で小柄なナランだが、蓮華座(れんげざ)で「神蛇」の手印を結ぶ姿は、思わずはっとするほど神々しく見える。

 サイラがおずおずと声をかけると、ナランは灰色の双眸を開き、穏やかに微笑んだ。

「おはよう、サイラ、スヴァル。今日も良い天気になりそうだよ」

 すらりと立ち上がったナランは、養い子であり弟子でもあるサイラを連れて、トゥバ山脈を見渡せる崖の方へと歩き始めた。

 早朝の山々は、厳かな静謐の中に横たわっている。

 太陽はまだその姿を現していないが、暁の光が雪に覆われた山並みを金色に輝かせていた。

 空の青は深く、鮮やかに広がり、羽根のような白い雲が気持ち良さそうに浮かんでいる。

 ナランの横に立ったサイラは、胸の前で両手を合わせ、太陽神ウィドゥに捧げる神歌を歌い始めた。サイラの声に寄り添うように、ナランの豊かな歌声が響く。

 やがて、東の方から太陽が昇った。

 その光を仰ぐように、サイラはゆっくりと両腕を天に差し伸べ、指先で手印を結びながら舞い始める。

 ナランも同じ所作で緩やかに舞う。

 古の言葉が連なる神歌を共に歌いながら、二人は太陽が完全に姿を現すまで舞い続けた。

「さて、朝ご飯の支度をしようか。サイラ、山羊の乳を搾ってきてちょうだい」

 朝の礼拝を終えて家に戻ると、ナランがてきぱきとした態度で言いつけた。

 サイラは急いで膝丈のチュニックとズボンに着替えると、礼拝用の聖衣を丁寧に畳んで、がっしりとした作りの長櫃に収めた。

 母屋の横にある薪小屋と、野菜が植えられた畑の前を通り過ぎたサイラは、山風を遮るため坂の下に建てられた家畜小屋に入ると、一頭一頭の名前を呼びながら「おはよう」と呼びかけた。

 雌牛のイマと荷馬車を引くロバのメフト。

 二頭の山羊はサマとエリ、そして三頭の羊マビ、ケル、リト。

 それら七頭が家畜小屋に住んでおり、彼らの世話をするのはもっぱらサイラの役目だった。

 イマとメフトを家畜小屋から引き出し、母屋の前に立っている二本のシラカバの木に繋ぐ。

 三頭の羊は、柵に囲まれた牧場に放してやる。

 羊たちを牧柵の中に誘導するのは、サイラではなく白狼スヴァルの仕事だった。

 水桶の水を新鮮なものに取り替えたサイラは、二頭の山羊が残っている囲いに入った。

 昨夜のうちに掃除を済ませた囲いの方に山羊を移動させると、一仕事を終えたスヴァルが駆け足で戻ってくる。

「お疲れ様。ちょっと待ってね」

 おすそわけを狙っているスヴァルを見て笑い、サイラはエリの乳を搾った。

 目も開かないうちに母狼と死に別れたスヴァルは、森の中でサイラに拾われ、山羊の乳で育てられた。

 立派な成獣に育った今でも、山羊の乳はスヴァルの大好物なのだ。

 囲いの外で大人しくうずくまっていたスヴァルは、目の前に器が置かれると、あっという間に乳を飲み干してしまう。

「もっとくれ」と言うように見上げてくるスヴァルを見下ろし、サイラは首を横に振った。

「だめだよ、スヴァル。エドが置いていってくれた骨付き肉が残ってるんだからね」

 すると純白の若狼は、不満を訴えるように鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまった。



「明日、キーレの町に行ってこようと思うんだ」

 その日の夜、ナランが用意した夕食を食べながら、サイラは言った。

「グレイズさんの店の香油と薬草酒がそろそろ無くなる頃だからさ。
 ついでに買い出しをしてくるよ」

 薄焼きパンを割いていたナランは「ふむ」と呟き、香油や薬草酒が蓄えられた陶器の甕(かめ)に視線を向けた。

「あっという間に一月(ひとつき)経ったね。一人で行けるかい、サイラ?」

「僕だってもう大人だよ。スヴァルも一緒だし、問題無いよ」

 そうは言っても、大きな藍色の瞳が目立つ丸顔のせいで、二十三歳になった今でも、サイラは十代半ばの少年に間違われる。

 拗ねたように唇を尖らせたサイラの顔を見つめ、ナランはくすくす笑った。

「お前がいくつになっても、町が危険な場所であることには変わりないよ。
 こんな山の中に住んでいると、その事を忘れがちだけどね。
 人が集まる場所には、様々な危険も集まってくるものさ」

 その途端、急に心細くなり、サイラは表情を曇らせた。

 不安を感じ取ったように、スヴァルが大きな頭を膝にこすりつけてくる。

 無意識に白狼を撫でながら、サイラはナランに訊ねた。

「じゃあ、行かない方がいい?」

「おやおや、さっきまでの威勢はどうしたの?
 危険を恐れて尻込みしていると、何もできない人生になるよ。
 ずっと家に閉じこもっているわけにはいかないだろう?
 そこの大食らいもいるんだし」

 ナランはスヴァルを指差し、問いかけるようにサイラの顔を見つめた。

「サイラ──お前はまだ、自分が《半月(はんげつ)》であることが怖いの?」

 ナランの問いに、サイラは思わず顔を強張らせた。

「……うん。まだ怖いよ……どうしようもなく」

 スヴァルの頭に手を置いたサイラは、胸の裡を明かすように呟いた。

「この家で、ナランと一緒にいる時はもう怖くない。
 でも、知らない人に会うのはやっぱり怖い。
 《半月》だってばれたら、殺されるかもしれないって思うから──」

 サイラはそう言うと、思慮深いナランの顔を見返して、小さく笑う。

「でもね、キーレの人たちは、僕の事、男の子だと思ってるんだ。
 その方が気楽だよ。ビクビクしなくてもいいし。
 このままずっと、ばれなきゃいいよね」

 自嘲的なサイラの笑顔を見つめ、ナランは物憂げな溜息をついた。

「《半月》であることの誇りを忘れてはいけないよ、サイラ。
 聖都クセでは、《半月》は誰よりも神々に近い存在として崇められていた。
 天の舞人クセがそうであったように」

 その名前を聞き、サイラの瞳にうっすらと涙が滲んだ。

「判ってるよ、ナラン。でも、僕はクセのように立派な人じゃない。クセのようには舞えてない。だから、今はまだ、このままでいたいんだ」

 うつむいて何度か瞬きを繰り返すと、サイラはできるだけ明るい笑顔でナランを見返した。

「やっぱり、明日はキーレに行ってくるよ。
 グレイズさんに、来月もまた来るって約束したからね」