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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 東西に連なるトゥバ山脈と、南北に延びるタリリア山脈の狭間に位置するキーレ。

 アゼリス王国とマディヤル王国の国境地帯に広がるその町は、サイラとナランが住まう山間(やまあい)の家から、荷馬車で半日のところにあった。

 キーレの高い城門塔には、いつもアゼリス王国の青い旗が風に靡いている。

 天空から大地を守護する大鷲と、国王を象徴する獅子が織り出された銀色の紋章。

 荷馬車に乗っているサイラの目にも、王旗は鮮やかに飛び込んでくる。

 自分たちがどの国に住んでいるのか、普段あまり意識することはなかったが、キーレに入ると事情が変わる。

 城門を守る兵士に、アゼリス王国の住人である事を証明しなければならなかったし、町に入る目的も告げなければならなかった。

「薬屋のグレイズさんに、香油と薬草酒を届けに行きます」

 荷台に寝そべっていた白狼を御者台に呼び寄せたサイラは、消え入りそうな小さな声で門衛の質問に答えた。

 目立たない灰色の頭巾(フード)を目深に下ろしたサイラを見て、赤ら顔の門衛は不機嫌そうに通行証を返す。

「《山の魔女》の養い子か。通っていいぞ。ただし、厄介事は起こすなよ」

 余計な事は何も言わず、サイラは頭を下げると、荷馬車を引くロバの手綱を操った。

 キーレの町に入ると、砂利道が丸石を敷き詰めた石畳に変わる。

 荷馬車がゴトゴト揺れるため、荷台に積んだ陶器の壺がぶつかり合い、音を立てた。

 ナランは、キーレの町周辺では、《山の魔女》と呼ばれて恐れられている。

 彼女が作る香油や薬草酒は、町に住む人々だけではなく、アゼリスやマディヤルの商人たちの間でも評判だった。

 その一方で、恐ろしい毒薬を作っているという噂も流れている。

 死を予言し、妖術を使い、精霊や妖霊を自由に操る──人々はナランの事をそう考えているのだ。

 もっとも、それは根も葉もない噂ではない。

 そして真実であるがゆえに、人々はナランを畏怖した。

 そのため、幸か不幸か、ナランの養い子であるサイラにも疑惑の眼差しが向けられる。

 魔女の養い子と積極的に関わろうとする人間はあまりいない。

 ところが、キーレの町で薬屋を営むグレイズは、珍しくナランやサイラに偏見を持たない男だった。

 昔は聖都クセで商売をやっていたそうで、サイラが知らない様々な情報を教えてくれる。

 でっぷりと太った躰に、つやつや光る革の前掛けを付け、グレイズはいつも忙しそうに店内を歩き回っていた。

 扱いづらそうな巨体であるにもかかわらず、グレイズの指先は器用に動き、繊細な薬草や香油を魔法のように操るのだった。

「今月はこれだけもらうよ」

 皮膚炎や関節炎、膀胱炎にも効くシラカバ、下剤や利尿剤に使うナナカマド、下痢や発熱、風邪に利用するハンノキ。

 そして鎮痛や火傷に使われ、深い眠りをもたらす紫薫草の香油を、グレイズはいつもより多めに買い上げてくれた。

 薬草酒の種類はさらに多く、荷馬車から必要な壺や瓶を降ろすと、サイラの息は上がってしまう。

 商品の代金と、「お駄賃だ」と笑って、グレイズはサイラに銀貨と銅貨を渡した。

「しっかり食べないと太らないぞ。いつまでたっても、ひょろひょろのままだ」

 そう言って、グレイズは自分の太鼓腹を叩いて見せる。

「見た目よりは力あるんだよ。毎日ナランに鍛えられてるし」

 グレイズが淹れてくれた薬草茶で一息つきながら、サイラは腕に力こぶを作って見せた。

 井戸から水を汲んだり、家畜の世話をしたり、ナランとの慎ましやかな生活の中でも、力仕事はいくらでもある。

 サイラの両腕には、細くてもしなやかな筋肉がついていたが、グレイズは肩をすくめながら笑った。

「男はやっぱり腕っぷしが強くないとダメだ。
 エドの腕を見てみろ。鋼のようじゃないか」

 ナランの弟で、キーレ近辺では一番の猟師と名高いエドの名前を上げられ、サイラは反論を諦めて溜息をついた。

「エドには敵わないよ。熊を殴り殺した事があるって、自慢してたもの」

「確かにあいつと喧嘩するバカはいないな」

 グレイズは豪快に笑うと、ふと思い出したようにサイラに訊ねた。

「そう言えば、聖都クセの噂を聞いたか、サイラ? 昔、ナランが住んでいた所だ」

「……聖都の話は聞いたことがあるけど、最近の話は知らないや」

 控えめに答え、サイラは首を傾げた。

「クセの噂って?」

 グレイズは無精髭が伸びた顎を撫で、キーレで噂になっている話題を教えてくれた。

「最近、聖都の領主がまた呪いで死んだらしい。
 三年は持ったから、まだ良い方なんだが。
 最近クセの地は悪霊が蠢いていて、商人や巡礼者たちも行くのを怖がっている」

 聖都クセ──神々に使わされた舞人が、悪霊を鎮めた聖なる地。

 そのクセが再び呪われた地と呼ばれるようになったのは、三十年ほど前、アゼリス王国の先代君主ザイナス王が、聖都にあった大聖殿を滅ぼしてしまったからだと言われていた。

 サイラが生まれるずっと前の事件だが、どうしてそんな事が起こってしまったのか理解できない。

 聖人クセを奉る大聖殿を、アゼリスの国王は何故攻め滅ぼしたのか──。

 サイラは、その理由を思いつくことすらできなかった。


 グレイズの店を出たサイラは、空になった荷台にスヴァルを乗せた。

 荷馬車を出そうとした途端、後方から大きな蹄の音が聞こえ、鎖帷子(くさりかたびら)をまとった騎士が慌ただしく通り過ぎてゆく。

 その勢いに怯えたように、サイラのロバは道の端へ寄ろうとする。

 背後を確認したサイラは、ナフトに励ましの言葉をかけ、用心深く荷馬車を移動させた。

 今日はいつになく武装した騎士の姿をよく見かける。

 騎士がまたがる巨大な軍馬に比べれば、ロバのナフトは哀れなほど小さく見えた。

 用心していないと何が起こるか判らない。

 身分の高い貴族や騎士たちからすれば粗末な荷馬車でも、サイラやナランにとっては大切な財産だった。

 多くの人々や荷馬車が行き交う大通りから、あまり人気の無い路地に入ると、目指す居酒屋食堂の看板が見えた。

 色の褪せた看板には、白い酒盃(ゴブレット)に入った麦の穂と葡萄が描かれている。

 この店に入れば、麦酒(ビール)や葡萄酒(ワイン)にありつけるという目印だった。

 店の前に荷馬車を止めたサイラは、スヴァルの首にしっかりとした革の首輪を嵌めた。

 その首輪に鎖を通し、馬やロバを繋ぐ横棒の支柱に固定する。

「ちょっと待っててね、スヴァル。ご飯を食べてくるから」

 どれほど賢くても、混雑する食堂内にスヴァルを連れていくことはできない。

 サイラにとっては飼い犬のような存在だが、スヴァルは見た目も明らかに狼であるため、忌み嫌われることも多いのだ。

 とはいえ、こうして繋いでおけば、町に迷い込んできた野生の狼に間違われることもないだろう。

 いつも一緒にいるスヴァルと離れるのは心細かったが、サイラは鼻を鳴らす白狼の頭を撫で、馴染みになっている食堂の扉をくぐった。

 食堂の主人ノルドは、ナランの弟エドの長男であり、元猟師だった。

 イノシシに襲われて右足が不自由になったため、ノルドは猟師をやめ、キーレの町に食堂を開いた。

 やがて肉料理が美味いと評判になり、いつも腹をすかせた客で賑わうようになったのだ。

 エドの息子という気安さもあり、サイラもいつの間にか常連の一人になっていた。

「こんにちは、ノルド。今日は何が食べられるの?」

 厨房に面した立食席からサイラが声をかけると、ノルドは大粒の汗をぬぐいながら振り返った。

「久しぶりだな、サイラ。今日は鹿を焼いたんだ。親父が捕ってきたやつだぞ」

 破顔したノルドは、切り分けた鹿肉を木皿に載せ、コケモモと木苺のソースをかける。

「今日は親父の所に泊まっていくのか?」

 朝一番で焼いたというパンを添え、ノルドは皿をサイラに渡した。

「これから帰ると真夜中になるから、泊めてもらおうと思ってるんだけど」

「じゃあ、親父に会ったら言ってやってくれ。『今日の鹿は最高だった』って」

 にやりと笑ったノルドは、真鍮のジョッキに麦酒をなみなみと注ぎ、サイラに手渡した。

 料理の皿とジョッキをそれぞれ左右の手で持ち、サイラは空いているテーブルを探した。

 店内は今日も混んでおり、どのテーブルも客で埋まっている。

 とはいえ、人見知りの激しいサイラには、相席するなど考えられない。

 ようやく店の角に小さな空きテーブルを見つけ、ガタガタと揺れる椅子に腰を下ろす。

 ノルド自慢の肉料理を黙々と食べていると、隣の席から商人らしき男たちの会話が聞こえてくる。

「王弟殿下がマディヤルを訪問しているらしいが、やっぱりタリフェ王女との結婚話か?」

「王様のお妃は姉姫の方だったろ?
 王族同士の絆が深まれば、しばらく両国は安泰だろう。
 俺たちにとっては願ってもない話だ」

 麦酒のジョッキを持ち上げたサイラは、商人たちの話を、遠い世界の出来事のように聞いていた。

「……マディヤルはタリリア山脈を越えた先だな」

 サイラが住んでいる山の家は、タリリア山脈のほぼ南端にある。

 峻厳な尾根を越えていけば、マディヤル王国にたどり着くこともできるが、あまりにも険しい崖道であるため、人々はキーレから西へ続く大平原を抜けて行く。

 山間の細い道を辿るのは、ほとんどが密猟者か犯罪者だと噂されていた。

 けれどサイラは、そのような人間に出会ったことは、今まで一度も無い。

 サイラが物思いに耽っていると、いつしか商人たちの政治談義は白熱していた。

「だが、反アゼリス派の奴らには面白くない話だろう。
 いまだに『アゼリスは反逆者の国』だと叫び続けているんだぞ」

「マディヤルのルヴァン王は親アゼリス派だ。
 今さら二つの国を、一つにまとめようなんて思ってないんじゃないか?
 そもそも、病弱なオディアス王が死んだら、王子を後見すればいいだけの話だ。
 娘のシンフェ王女が生んだ子なんだから。
 戦をしかけなくても、マディヤルの影響力は今よりもずっと強くなる」

「むしろ王弟にとっては、王位を狙う絶好の機会じゃないか? 
 王太子はまだ幼いし、その王太子に何かあったら、王弟が玉座に座れる。
 ここでマディヤルの支持を得ておくのは悪いことじゃない」

 商人たちの会話は、サイラにはさっぱり理解できなかった。

 政治を語る商人への興味が薄れ、サイラは食堂内を見回した。

 商人の姿が一番多いが、農夫や職人らしき男も見える。

 みな酒が入って声が大きくなっており、他人の事など気にも留めていない。

 食事を終えたサイラは、混み合う食堂から早く出ようと立ち上がった。 スヴァルが今か今かと待っているだろう。

 ところが急に酩酊感に襲われ、視界がくらりと揺れた。

 頭がぼんやりと霞み、足許がふらつく。

 日頃飲み慣れない酒を飲んでしまったからだろうか?

 サイラは自分を叱咤するように踏ん張った。

 空になった食器を両手で支え持ち、サイラはゆっくりと歩き始めた。

 床が波打つようにふわふわしている。

 大騒ぎする人の声がやけに大きく聞こえ、黒い人影が伸びたり縮んだりしながら、目の前を行ったり来たりしている。

(だめだ……気持ち悪い)

 暗い食堂の中に灯された蝋燭の炎が、この世ならぬ陰影を作り出し、サイラを幻惑する。

 異常なほど聴覚が研ぎ澄まされ、耳を塞ぎたくなる──その時。

「……いいか、聖舞師(せいぶし)、舞闘師(ぶとうし)もろとも、皆殺しにしろ」

 声音を抑えた低い囁きが、サイラの耳に鋭く突き刺さる。

 あれほど賑わっていた店内が一瞬しんと静まり、その言葉だけが大きく弾けた。

 雷に打たれたように棒立ちになり、手から食器が落ちる。

 何かに引っ張られるように、サイラは物騒な声の持ち主を呆然と見つめていた。