Rosariel.com
天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

<3>



 不気味な顔の男だった。

 顔の大半が青いアザで覆われており、細くつり上がった右目の周りだけが白く浮いている。

 頬骨の張ったのっぺりとした顔立ちで、頑丈そうな顎が張り出し、薄い唇が嘲笑の形につり上がっていた。

 皿が床に落ちた音で、その男はサイラに気づいたようだった。

 細い双眸が糸のように眇められ、サイラを睨み付ける。

 その瞬間、全身が凍りついたように冷たくなり、鳥肌が立った。

 同時に周りの喧噪が戻ってくる。

 青アザの男の言葉に気づいた様子もなく、他の客は相変わらず賑やかに騒ぎ続けていた。

「俺の顔がそんなに珍しいか?」

 青アザの男がゆらりと立ち上がる。

 その周りを固めていた数人の男たちもまた、一斉に振り返り、サイラを見て殺気立った。

「……何だぁ、お前? 遊んでほしいのか」

 男たちは立ちつくすサイラをすばやく囲み、恐ろしい声で恫喝した。

 その荒っぽい迫力にサイラは怯えてしまったが、それでも青アザの男から目を離すことができない。

 仲間の男たちとは格が違う。

 この群を率いているのは、間違い無く青アザの男だった。

「おら、何とか言えよ!」

 立ちすくむサイラの肩を、男の一人が強い力で押した。

 床に突き飛ばされたサイラは、その衝撃でようやく我に返った。

 這いつくばったサイラを見下ろし、男たちは嘲るようにゲラゲラと笑っている。

(──逃げなきゃ!)

 真っ白になった頭の中で、自分自身の悲鳴が谺する。

 全身の血液が狂ったようにドクドクと鳴り響き、サイラは息苦しさに喘いだ。

 逃げ場を探して周囲を見回したが、男たちの太い足で囲まれてしまっている。

 ところがその中に一つだけ、黒革の長靴(ブーツ)に包まれた優雅な足が見えた。

 思わず見上げると、壁際の椅子に座っている人物と目が合う。

 だが、そんな気がしただけかもしれない。

 その人物は、黒い革の仮面で顔全体を覆い、両目があるはずの穴も薄い布地で隠していた。

 黒の仮面には、銀糸で美しい象徴模様が描かれている。

(……夜の神ニュヴス)

 天律(てんりつ)の神々の中で、夜と月を司ると伝えられる神。

 夜の神の仮面をつけるにふさわしく、その人物は全身が闇に包まれているように見えた。

 黒い布を頭に巻き付けて髪を隠し、喉元まで覆っている。

 革製の胸甲の上から、たっぷりと漆黒のマントを巻き付けており、ズボンや膝まである長靴、帯にいたるまで真っ黒だった。

 青アザの男も不気味だが、この黒装束の人物もまた異様だった。

 まるで彫像のように動かず、それでもサイラを冷ややかに見つめる眼差しだけは感じ取れる。

 青アザの男よりは細身だが、武装しているせいで、男なのか女なのかさえ判別できない。

 その時、サイラは自分の頭巾が払い落とされたのを感じ、はっと後ろを振り返った。

「……何だ、可愛いお嬢ちゃんじゃねえか」

 猛り立っていた男たちは、サイラの顔を認めた途端、下卑た笑みを浮かべる。

「お嬢ちゃんなら、可愛がり方を変えてやらないとなぁ」

 男たちは欲望を露にして笑い、サイラの細い腕を掴み上げた。

「は、離せ! ぼ、僕は……お嬢ちゃんじゃない!」

 黒衣の人物に見入ってしまった自分の愚かさにも腹が立ち、サイラは抗いながら声を上げた。

 だが、細く震える声が、男たちをさらに面白がらせる。

「ちゃんと喋れるじゃねえか」

 男たちは嘲笑い、テーブルの上に置かれていた酒器や料理の皿を乱暴に払いのけた。

 床に落ちた食器が騒々しく鳴り響く中、男の一人がサイラの腰をテーブルに押しつける。

「どれどれ……本当にお嬢ちゃんじゃないのか、確かめてみるか」

 背後から抱きついてきた男が、ごつごつした固い手でサイラの胸元をさぐり始める。

 その無遠慮な手つきに、サイラの全身は粟立った。

 生まれてから一度も、このような扱いは受けたことがない。

 両親に殴られたり、蹴られたりしたことはあったが、こんな──何かを確かめているような──気持ち悪い触り方は初めてだった。

「いい匂いをさせてるなあ、お前。
 こんな匂いをさせているのは、お貴族様か、ユラクの娼婦くらいなもんだぜ」

 サイラを押さえつけている男は、白い首筋に顔をうずめ、肌に舌を這わせた。

 男の一点が急に大きく膨らみ、その硬く強張ったモノを、サイラの尻にぐいぐいと押しつけてくる。

 ハアハアと喘ぐ男の生臭い息が首筋にかかり、サイラは本能的な恐怖を感じた。

「い、嫌だッ! 止めろ!」

 その時、テーブルの前に回り込んだ青アザの男が、サイラの琥珀色の髪をぐいと掴み上げた。

 髪を引っ張られる痛みに、思わず涙が滲む。顔をのぞきこんできた青アザの男を、サイラは息を止めて見返した。

「──お前、何を聞いたんだ?」

 青アザの男は、低くしゃがれた声で囁くように問う。

 サイラは大きく目を見開いたまま、射すくめられたように動けなくなった。

 言いしれぬ恐怖に囚われ、声も出せない。

 と、その時、ノルドの大声が響き渡った。

「困りますよ、お客さん。うちで喧嘩は止めてください」

 取り囲んでいた男たちがさっと離れるのを感じ、サイラは全身に安堵が広がるのを感じた。

 のろのろと振り返ると、ノルドが片手に恐ろしげな肉切り包丁を持ったまま仁王立ちになっている。

 ちらりとサイラを一瞥したノルドは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた猟師の顔つきで、青アザの男をじっと睨みすえた。

「何があったか知らないが、ここは楽しく飲み食いする場所なんですよ。
 これ以上暴れるなら、出て行ってもらいます」

 青アザの男の迫力にも負けず、ノルドは堂々と言い放つ。

 父親のエドと同じく、獰猛な熊や狼とも対峙してきた男である。

 目をそらした方が負けだと言わんばかりに、青アザの男を睨みつけていた。

「悪かったよ。ちょっとした行き違いでね」

 先に折れたのは青アザの男だった。

 それを合図としたように、サイラにからんでいた男たちも、卑屈なほど頭を下げながら退散していく。

 最後に黒装束の人物が音もなく立ち上がり、乱れたテーブルの上に数枚の銀貨を放り出した。

 ノルドはそれを見て眉根を寄せたが、何も言わなかった。

 青アザの男と謎めいた黒装束の人物、そしてその仲間らしき数人が立ち去ると、食堂のあちこちから拍手が起こる。

 面倒事に巻き込まれたくないと思いつつも、男たちの物騒な行動を不愉快に思っていたのだろう。

「──大丈夫か、サイラ?」

 腰が抜けて床に座り込んでしまったサイラに、ノルドが心配そうに声をかけた。

 立ち上がるのを手助けしようと、サイラに手を差し伸べる。

 ところが、その大きな手を見た途端、先ほどの恐怖が躰中を冷たく駆け巡り、サイラは身を強張らせた。

「ご、ごめんなさい、ノルド。迷惑かけて……」

 深く息を吸い込むと、ざわざわとした不安が鎮まる。

 サイラはノルドの手を借りて立ち上がり、脱がされてしまった頭巾を被った。

 顔を見られないよう、顎の辺りまで布地を引っ張ると、ようやく少しほっとする。

「本当に大丈夫か? いったい何があったんだ?」

 心配するノルドにそう問われると、恐怖が蘇り、唇が震えた。

 恐ろしい青アザの男の言葉が脳裏を過ぎる。

『……いいか、聖舞師、舞闘師もろとも、皆殺しにしろ』

 あの男たちは、今からクセ聖殿の聖師(せいし)たちを殺そうとしているのだろうか?

 とっさに口を開きかけたサイラだったが、ノルドの顔を見返した瞬間、声が出なくなった。

 まるで悪夢の中のような出来事──青アザの男が本当にそう言ったのかどうかさえ、急に定かでなくなる。

 もしあれが、麦酒に酔った幻聴だったとしたら?

 黙り込んでしまったサイラを、ノルドは食堂の戸口まで見送りに来ると、すまなさそうに言った。

「これに懲りずにまた来てくれよ、サイラ。今度から傭兵には用心しておくから」

 サイラは「うん」と小さく頷いた後、ふと気になって「傭兵?」と聞き返した。

「ああ、多分あいつらは傭兵だ。金で雇われて殺し合う連中だよ。
 血の臭いをぷんぷんさせていやがる」

 ノルドは逞しい両腕を組み、不機嫌な顔つきで地面に唾を吐いた。

 あの男たちは殺し屋──これ以上関われば、無事では済まないかもしれない。

 ノルドに話せば、彼にも迷惑をかける。

(それに、きっと……舞闘師がいるなら、大丈夫だ)

 クセ聖殿の舞闘師は、武技を極めた強者ぞろい。

「皆殺し」になど、できるはずはない。

 あの男たちが言うほど、それは簡単な事ではないのだ。

 だから、自分が黙っていても何も問題は起こらない。

 あんな恐ろしい男たちの事は、もう二度と考えたくない。

 恐怖に怯えきっていたサイラは、心に残ったその言葉から、必死に耳を塞ごうとした。

 その時、荒れ狂う獰猛な唸り声を耳にして、サイラは荷馬車の傍に繋いであった白狼に駆け寄った。

「──スヴァル…ッ!」

 散々暴れたのか、地面には荒々しい引っ掻き傷が深々と残り、鎖を繋いだ木の棒には沢山の噛み痕ができている。

 サイラの悲鳴を聞きつけ、必死で助けに行こうとしていたのかもしれない。

 けれど頑丈な鎖は外れず、スヴァルはもがき続けたのだろう。

 まだ興奮が治まらず、背中の毛を逆立てて唸り続けるスヴァルの首を、サイラはしっかりと抱き締めた。

「……心配かけてごめんね」

 やがて獰猛な唸り声が少しずつ静まり、白狼が甘えるような鼻声を出す。

 サイラはスヴァルの顔を何度も撫で、小さく泣き笑いを浮かべた。

「今日はもう帰ろうか。疲れちゃったよ」

 どこよりも安心できる山の家に戻って、嫌な事はさっさと忘れてしまいたい。

 あの乱暴な男たちとは、二度と関わることなど無いはず──サイラはそう思っていた。