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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 キーレの町から戻ったサイラは、それまで以上に、歌や舞踏の稽古に励んだ。

 ナランが教えてくれることは全て覚えようと、香油や薬草酒の作り方、魔力を持つ紋様の描き方も一層熱心に取り組む。

 エドの家に泊まらず、真夜中にキーレから帰ってきたサイラに、ナランはあまり多くを問わなかった。

「変な男にからまれた」とだけ話したが、大きな衝撃を受けたサイラの精神状態を、ナランは暗に察したらしい。

 サイラにとって、見知らぬ人間と関わることは、今でも負担のかかる試練だった。

 ナランとスヴァル、他の家畜たち、そして時々訪れるエドとだけ暮らせれば、心の平安は保たれる。

 二十歳になるまで、近所の村でさえ、怖くて一人では行けなかった。

 最近になって、ようやく人と関わることができるようになってきた。

 だが、その自信はひどく脆い。あんな事件があった後では、山から出るのが怖くなった。

 その夜もなかなか眠れず、サイラはスヴァルを連れて、紫薫草が植えられた畑に出た。

 夜風が吹くたびに、紫薫草の甘く爽やかな香りが辺り一面に広がる。

 空には奇しくも銀色の半月がかかり、サイラは祈るように片手を差し伸べた。

 手印はもちろん「半月」──天の宮に戻った舞人クセに、祈りは届くだろうか……。

 いつの頃から、両性具有者が《半月》と呼ばれるようになったかは判らない。

 ただ舞人クセもまた、男でもなく、女でもない半陰陽だったと伝えられていた。

 クセを奉る聖殿の紋章は、その中心に半月が描かれているため、そこから二形者(ふたなりもの)を《半月》と呼ぶようになったとも言われている。

 だが、クセが伝えた秘伎で「半月」が象徴するものは水──天から雨となって降り注ぎ、大地を潤す。

 川や湖を作り、海へと流れる。そして再び天へと昇り、雲に生まれ変わる。

 精霊と同じように形を変え、天と大地の間に存在するもの。

(クセが示したかったのは……そういう、世界の有り様だったんじゃないのかな?)

 そんな事をとりとめもなく考えていたサイラは、夜風に乱れた髪を無意識に撫でつけた。

 乾燥すると収まりが悪くなる琥珀色の髪は、短く切られているせいで、好き勝手な方向にぴょんぴょん跳ねている。

「……伸ばそうかな」

 髪には天の霊気が宿ると信じられている。

 聖都クセの舞人は、誰もが髪を大切にし、長く伸ばしているそうだった。

 舞台に立つ時、長い髪を一つに編んで、宝冠や花々で美しく飾るらしい。

 だから、ナランの髪も長く美しかった。

 年齢のせいで白髪は多くなっているが、香油を使って毎日手入れしているため、今でも艶がある。

 だが、髪が長いと、女性だと間違われてしまうのだ。

 キーレに通うようになってから、サイラは髪を切り落とした。

 その行為はナランを嘆かせたが、サイラはどうしても「女」だと思われたくなかった。

『──女だったら高く売れたのに』

 父親ヨアルの声が、今なお耳の奥に残っている。

 売ってどうしようというのか。
 サイラを売ったお金で、他の家族を養うつもりだったのか。

「男なら良い働き手になったのに」と、両親は常々言っていた。

 五歳までサイラを育てたのも、きつい畑仕事を手伝わせるため。

《半月》のサイラは、彼らの望み通りには育たなかったから、殺されそうになり、結局森に捨てられた。

(……でも、クセに近づくためには、髪を伸ばした方がいいんだろうな)

 深い溜息をついたサイラは、前髪を一房つまんでみた。

 舞人としてさらなる高みを目指すなら、髪を伸ばし、天の霊気を蓄えることも必要なのかもしれない。

 このままの姿でクセ聖殿を訪れたら、きっと巫女や聖舞師たちに笑われてしまうだろう。

 聖殿に仕える聖師たちは、男も女も関係なく、みな髪を長く伸ばしているという。

 そう考えながらも決心がつかず、サイラはスヴァルの首を腕の中に抱き寄せた。

「まだ……このままでいいよね」

 まだまだナランから学ぶことは沢山ある。

 舞人としてもう少し自信がつくまでは、男の姿で生きていこう──サイラは、迷う自分の心にそう言い聞かせた。



 翌日、谷は朝から真っ白な霧に包まれていた。

 ナランと共に朝の礼拝を行っていたサイラは、その厳粛な光景の中に、自分が溶け込んでゆくように感じた。

 おだやかな風がゆっくりと霧を動かす。

 精霊の息づかいを全身で感じると、胸の奥から歓喜が湧き上がった。

 朝食の後、ナランと共に刺繍に取りかかる。

 魔除けの力を持つ神紋を、寝台を覆う麻布に縫い込んでゆく。

 こうしておくと、眠っている間でも、荒ぶる地霊や悪霊から身を守ることができるのだ。

 他にも、出産や結婚を祝う紋様や、怪我や病の治癒力を高める紋様などがあり、こうした図柄は刺繍だけなく、織機でも作られる。

 ナランとサイラが作る布地は、二人が山で暮らして行くための大事な収入源にもなっていた。

 国境の町キーレに持っていくと、思いの外高値で買い取ってもらえる。

 チクチクと無心で針を刺していたサイラは、強張った肩を回しながら、ふと窓の外に視線を向けた。

 いつの間にか白い闇のような霧に閉ざされ、いつもは賑やかな小鳥の声さえ聞こえてこない。

 しんとした静寂の中で、暖炉の中の薪だけがパチパチと音を立てる。

「今日は一日、こんな天気かな?」

 サイラがぽつりと呟くと、大がかりな図柄を仕上げていたナランは窓に目を向け、ややあってから答えた。

「午後からは晴れるよ。昼ご飯を食べたら、山に登っておいで」

 ナランの言葉通り、午後になると霧は晴れ渡り、山々の稜線がくっきりと青空の中に浮かび上がった。

 谷底はまだ真っ白な霧の中に沈んでいたが、天頂の太陽に照らされると、目も眩むような光の波が生まれる。

 幻想的な谷間の風景を眺めながら、サイラは、岩場が複雑に重なり合った牧場(まきば)へと登っていった。

 左手には南方のトゥバ山脈がどこまでも連なり、厳めしい顔で下界を見下ろしている。

 サイラたちが住むタリリア山脈も、北の方へ向かえば険しい岩場ばかりになるが、この辺りはなだらかな丘が続く地形で、柔らかな緑の草原が見渡す限り広がっている。

 山羊と羊が思い思いに草を食べている間、スヴァルは草原に寝そべり、油断なく目を光らせていた。

 緩やかな斜面の反対側には、切り立った崖が隠れており、山羊たちがそちらへ迷い込まないよう見張っていなければならない。

 あるいは群を離れて、この山に住む狼や山猫に襲われたりしないように。

 家畜の番をスヴァルに任せ、サイラは靴を脱ぎ、裸足になった。

 草が密集し、尖った岩が飛び出していないことを確認するため、軽く地面を踏み鳴らしてみる。

 この牧場に来た時はいつも、サイラは歌と舞踏を一人で練習していた。

 胸の前で両手を合わせ、軽く右足を浮かせる。深く息を吸い込み、気を鎮める。

 そして最初の一点──爪先で大地を踏み、天地と繋がる合図を鳴らす。

 大地の精霊に感謝を捧げる古い韻律が響き渡ると、サイラはひんやりとした静寂に包み込まれるのを感じた。

 水の中を漂うように、周囲の空気が静まってゆく。

 天の慈愛が雨のように降り注ぎ、大地を慰める──あたかも祝福の接吻を授けるかのごとく。

 それは、天への賛歌を踊る時とは異なった不思議な感覚だった。

 胸の中にも同じ静けさが広がり、舞い終えたサイラは、ゆっくりと瞼を開いた。

 その時、静寂を乱すようにスヴァルが急に立ち上がり、獰猛な唸り声を上げた。

 山を渡る風の中に、災いの足音とその匂いを感じ取ったのか、耳をぴったりと後ろに寝かせ、肩の毛を逆立てている。

 サイラははっと振り返った。

 視線の先、自分たちを見下ろす高い岩場の上に、真っ黒な影が立っている。

 闇が凝縮したような漆黒の馬だった。

 まるで山の王者のように堂々とサイラたちを見下ろし、黒いたてがみを風に靡かせている。

 黒馬はゆっくりとした足取りで岩場を下りてきた。

 威嚇する白狼を恐れる様子もなく、真っ直ぐに、迷うことなく。

 息を止め、魅入られたように見つめていたサイラは、黒馬が大きな荷物を背負っていることに気づいた。

 馬にも劣らぬ黒い塊──あれは何だろう、と目を凝らしたサイラは、突然それが人間だと察した。息絶えているのか、それはぐったりとして動かない。

「スヴァル、静かに」

 我に返ったサイラは、唸り続ける白狼をなだめ、近づいてくる黒馬に囁きかけるように歌い始めた。

 馬を脅かさないように軽く爪先で地面を踏み、胸の前でゆるやかに手印を結ぶ。

 黒馬はサイラの前で足を止め、悲しげな目で見つめると、まるで助けを請うように長い首を下げた。

 鴉のように黒い馬だが、額に菱形の白い星が輝いている。

 サイラは疲れ果てている馬の顔を撫でてやり、穏やかな声で歌い続けながら、背中の方へと回った。

 馬に背負われていたのは、やはり人間だった。

 黒い胸甲を身につけた躰の上に、漆黒のマントが折れた翼のように被さっている。

 力無くだらりと垂れ下がった右手からは、籠手の隙間からぽたぽたと赤黒い水が滴り落ちていた。

 鮮やかな緑色の草の上に、赤い水滴が落ちていくのを見つめ、サイラは愕然とした。

(──血だ!)

 黒い騎士は怪我をしているようだった。

 震える手でマントを押し上げ、サイラは息を呑んだ。

 騎士の右肩は無惨に切り裂かれ、青黒く腫れ上がっている。

 筋肉が弾け、奥の骨まで見えそうなほどの深い傷。恐る恐る触れてみると、突然、騎士が微かな呻き声を立てた。

「……ぅううっ……」

 心臓が口から飛び出るほど驚き、サイラは後ろに飛び下がっていた。

 その途端、スヴァルが大声で唸り出し、黒馬が興奮していななく。

 サイラは慌てて鎮めの歌をもう一度歌い、黒馬が暴れ出さないようになだめた。

 こんな所で鞍から落ちたら、瀕死の騎士は今度こそ死んでしまうだろう。