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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 震えている自分の躰を感じながら、サイラは改めて黒衣の騎士に近づいた。

 早く何とかしなければ……。

 まずは出血を止めようと、自分の服の裾を裂く。

 それを包帯代わりにして、騎士の肩口の傷をできるだけしっかりと縛る。

 騎士が再び苦しげに呻いた途端、サイラの手は恐ろしさのあまりぶるぶる震えた。

「……何者だ?」

 白鑞のように青白くなっていた騎士の口から、不意に誰何の問いがこぼれる。

 その掠れ声にぎょっとしたサイラは、再び飛び上がりそうになったが、馬を驚かせてはいけないととっさに思い、深く息を吸い込んで堪えた。

「ぼ、僕、近くに住んでいる者です。
 すぐに助けますから、じっとしていてください」

 サイラが答えると、騎士は深い溜息をつき、弱々しく呟いた。

「……無駄だ……私は死ぬだろう……あの…毒矢が……」

 騎士の言葉は呂律が回っておらず、ひどく聞き取りにくい。

 続きを聞こうと、サイラは耳を澄ましていたが、声が途絶える。

 騎士は気を失っていた。

 サイラは慌てて大地の力を呼び起こし、手印を結んで癒気(ゆき)を凝縮させた。

 熱くなった波動を、騎士の心臓に送り込む。

 わずかな時間稼ぎにしかならないが、せめてナランがいる所までは頑張ってほしい。

 騎士の顔にほんのりと血の気が戻ると、サイラは急いで指笛を吹き、山羊と羊の群を呼び集めた。

 黒馬の手綱を取ったサイラは、用心深く道を選びながら山を下った。

 馬の背に時々目を向け、騎士がちゃんと息をしているか確かめる。

 ところが、しばらくすると急に不安に襲われ、サイラは立ち止まった。

(もしかして、この人……キーレで会った黒い人じゃ……?)

 数日前、サイラが国境の町キーレを訪れていた時、奇妙で恐ろしい集団に遭遇した。

 その中にいた、夜の神ニュヴスの仮面をつけた謎の人物。

 あの日、冷ややかにサイラを見下ろしていた黒装束の人物と、傷を負った黒衣の騎士の姿が不意に重なり合って見える。

 心臓が恐怖にすくみ上がり、サイラは唇を噛んだ。

 タリリア山脈の尾根を越えてくるのは、密猟者か犯罪者だと聞いている。

 もしこの騎士が悪人だとしたら?

(でも……ナランは僕を助けてくれた)

 ナランは、サイラの身の上を何も知らなかった。

 それでも、息絶えそうな幼いサイラの命を助け、大切に育ててくれた。

 もし、ここでこの騎士を見捨てたら、一生ナランに顔向けができない。

 ナランならば、迷わずこの騎士を助けるだろう。

 善人か悪人かなど、命が助かった後で考えればいい。

 サイラはそう決心し、山を下る道を再び歩き始めた。



「──ナラン、ナラン!」

 サイラが大声で叫ぶと、母屋から出てきたナランは、驚いたように目を見開いた。

「おやまあ、サイラ。
 今度はずいぶん大きなのを拾ってきたね」

 かつてサイラが狼の子を拾ってきた時、ナランは動じずに笑っていた。

 肝の太いナランも、サイラが大きな黒馬を引き連れて帰ってくるとは思わなかったらしい。

「怪我人なんだ! 死にそうなんだ!」

 矢継ぎ早にサイラがまくし立てると、ナランは「まあ、お待ち」とたしなめ、騎士を背負う黒馬に近づいた。

 静かな声で鎮めの歌を歌い、黒馬に優しく話しかける。

「お疲れだったね。お前のご主人は私があずかろう。
 後は私たちに任せなさい」

 黒馬は鼻を鳴らすと、ナランの手印の動きに合わせるように、後ろからゆっくりと肢を折り、地面にうつ伏せる。

 ナランはサイラを呼び寄せ、二人がかりで意識の無い騎士を鞍から降ろした。

「まず、この鎧を脱がせてしまおうか。重くて運べたもんじゃない」

 そう言って、ナランは騎士のマントやずしりと重い胸鎧、両腕の籠手を手際よく外し始める。

 鎧の下に着る綿入りの下着は、騎士の血を吸って黒ずんでいた。

 ナランは帯に挟んだ短剣で厚い布地を切り裂き、さらにその下のチュニックも裂いて、騎士の上半身を裸にする。

「やれやれ、重たそうな男だね。
 サイラ、左側を抱えてちょうだい。寝台に運ぼう」

 騎士は驚くほど背が高く、サイラとナランで両脇を支えても、長い足を地面に引きずるほどだった。

 戸口に近いサイラの寝室に運び込み、ふうふう言いながら騎士を横たえる。

 サイラが布で縛っていたからか、傷口の血は止まっているようだった。

「……毒矢って言ってたよ、この人」

 念入りに傷口を観察しているナランに、サイラは告げた。

「毒とは厄介だね。命が助かるかどうか、私にも判らない」

 動揺するサイラを見て、ナランは落ち着いた声で、「湯を沸かして、綺麗な布を集めてきてちょうだい」と言いつけた。

「それから紫薫草の薬草酒だ。何にしても、傷口の消毒をしなければ」

 サイラは身を翻し、ナランに言われた物を大急ぎで準備した。

 布を抱えて戻ると、ナランが悩ましげな声で呟く。

「これは、シュルグにやられたかもしれないね。一番厄介な毒だよ」

「──シュルグ?」

 ナランは頷き、騎士の口を開いて舌を引き出し、瞼を上げて瞳の様子を確認した。

「シュルグというのは、マディヤルの北方森林地帯に住む猟師が、熊狩りに使う毒だ。
 《悪霊の血》とも呼ばれる猛毒だよ。
 射られた者は麻痺を起こして死んでしまう。毒が舌にまで回ると、絶対に助からない」

 淡々としたナランの説明を聞き、サイラは息を止めた。

「で、でも……この人、喋れたよ」

「それなら、まだ助かる見込みはあるかもしれないね。
 そもそも、この肩の傷は矢傷じゃないよ。
 おそらく本人が矢を抜いたんだろう。
 毒矢だと気づき、大きく肉を抉った。その処置が遅ければ、とっくに死んでいるはずだ」

 肩の肉を自ら抉ったと聞き、サイラはその激痛を想像して口を押さえた。

 自分だったら、矢が刺さっただけで気絶してしまうだろう。

 抜けないように返しがついた鉄の鏃を、引き抜くことなど絶対にできない。

「私は解毒剤を作ってくる。その間に、傷口を洗っておやり」

「……ええっ、僕!?」

 こんな酷い傷を薬草酒で洗ったら、それこそ焼けるように痛むだろう。

 小さい頃、切り傷をつくるたびにナランに湿布され、サイラはあまりの痛さに泣き出したほどだった。

「助けたいなら、しっかりおし。
 これ以上傷を悪化させると、腕ごと切り落とさなきゃいけなくなるよ」

 弱気になったサイラを叱咤して、ナランは足早に寝室から出て行く。

 紫薫草の薬草酒を布地に浸したサイラは、筋肉がずたずたになった肩を見てきつく眉を寄せた。

 見れば見るほど無惨な傷だった。

 毒から命を守るためとはいえ、こんな風になったら、元のように腕が使えるかどうか。

 右腕なのだから、おそらくは利き手だろう。

 サイラは覚悟を決め、できるだけそっと傷口を押さえた。

 その瞬間、意識の無い男の口から、獣のような唸り声が漏れ出る。

「……ご、ごめんなさい」

 反射的に手を引っこめ、サイラはおずおずと謝った。

 しかし男は気を失ったまま目を覚まさない。

 小心な自分を情けなく思いながら、サイラはもう一度手を伸ばした。

 激痛に呻く騎士の苦しげな声を聞くたびに、サイラは目を閉じてしまった。

 いつの間にか足許にスヴァルが座りこみ、心配そうな顔つきでサイラを見上げている。

 最後に沸騰した湯を冷まして傷口を洗い、紫薫草の香油を湿らせた布を当てた。

 綺麗に包帯を巻きつけると、ようやくほっとする。しかし騎士が何も言わなくなった事に気づき、サイラは急いで首の脈を確認した。

「良かった……生きてる」

 安堵したサイラは、ぬるま湯に香油を垂らし、香り高いその湯で騎士の躰を清めた。

 鎮痛効果の高い紫薫草だが、この香りは気持ちを安らげる。

 怪我人の苦痛が少しでもやわらげばいいと思い、硬く強張った首や肩、そして血で汚れた胸や腕に布を滑らせた。

(……大きな人だな)

 傷ばかりに目がいっていたが、包帯で隠れてしまうと、ようやく騎士の全体を眺める余裕ができた。

 きっと強い騎士なのだろう──首筋や肩、胸の筋肉は鍛えられて隆々と盛り上がっている。

 力無く投げ出された腕にもみっしりと筋肉がついており、長い指を持つ大きな掌には硬いタコができていた。

 エドやキーレの町のグレイズ、ノルド以外の男を、これほど間近で見たのは初めてだった。

 彼らよりはずっと若いが、サイラよりは年上だろう。

 血の気を失って青ざめているせいか、戦う者の猛々しさは感じられない。

 漆黒の髪に縁取られた顔は、気品と力強さが調和しており、美しいとさえ感じられた。

 あまりにも熱心に見つめていたせいか、ナランが入ってきたことに気づかなかった。

「──サイラ、そっち側を支えてちょうだい」

 独特の匂いがする煎じ汁を冷ましながら、ナランが背後から声をかける。

 騎士に見惚れていたサイラは、びっくりして飛び上がった。

 ガタンと大きな音を立てて椅子が倒れ、驚いたスヴァルがぱっと飛び退く。

 その様子を呆れたように眺め、ナランは溜息をついた。

「落ち着きなさい。ほら、そっちの肩を起こして、これを飲ませるんだよ」

 言われた通りに騎士の上半身を起こしたサイラは、顔のすぐ横から漂ってくる煎じ汁の匂いを吸い込み、思わず鼻に皺を寄せた。