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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 意識の無い騎士に、病や怪我を癒す紋様を刺繍した肌着を身につけさせ、吹き出す汗をこまめにぬぐう。

 ナランによれば、煎じ薬が効けば、汗の中に毒が沁みだしてくるらしい。

 騎士の看病を続ける間に、山の牧場で何が起こったのか、サイラはナランに話して聞かせた。

 そして騎士の心臓が鼓動を弱めると、二人は大地の力を集め、癒気を送り込む。

 そうするうちに冷たかった騎士の躰は、次第に赤みを増し、今度は大粒の汗が噴き出るほど発熱し始めた。

「熱が高くなるのは悪くないけど、長引くとこれまた厄介だね」

 二度目の肌着を取り替えた後、ナランが溜息をつく。

「熱冷ましを飲ませなくてもいいの?」

 騎士の額に置いた紫薫草の湿布を取り替えながら、サイラは訊ねた。

「今、この男の躰は《悪霊の血》と戦っている。勝てば熱は下がるだろう」

 ナランはそう答えると、何かを考えるような眼差しを窓の外に向けた。

「しばらく私がこの男を見ているから、お前はあの黒い馬を見てきておやり。
 お前の話から察するに、多分あの馬は、お前の歌に導かれて来たのだろう」

「──僕の歌?」

 サイラが首を傾げると、ナランは小さく微笑んだ。

「お前の歌には昔から不思議な力がある。運命を引き寄せる力だ。
 かつて私もそうだったように、あの馬も、必死の思いでこの男を運んできたのだろう。
 もしかしたらマディヤルからやって来たのかもしれないよ」

 運命を引き寄せる力……だが、自分に与えられる運命とはどんなものなのだろう?
 サイラはふと思った。

 ナランは死にかけていたサイラを助け、クセの秘伎を教えてくれた。

 だからこそ、歌い、舞い続けることは己の運命なのだと、すんなり受け入れられた。

 ならばこの騎士もまた、何かを伝えるために送り届けられた存在なのだろうか?

 傷ついた騎士の傍から離れ、サイラは家畜小屋へと向かった。

 いつもは一つ空けてある囲いの中に、大きな黒馬が寝藁に寄りかかるようにして横たわっている。

 サイラの姿を見ても、立ち上がる元気も無いようだった。

「君のご主人、頑張っているからね」

 馬の顔の前に跪いたサイラは、励ますように鼻面を撫でる。

 騎士の治療が緊急だったとはいえ、馬の世話を後回しにしてしまったのが心苦しい。

 汗を沢山かいていた馬に塩を混ぜた水を飲ませ、鞍を外し、この囲いに連れてくるのが精一杯だった。

 飼い葉を置いておいたが、食べた様子は無い。

 びっしょりと汗をかいた黒馬は、大きな胸を波打たせ、憔悴しきっていた。

 サイラは馬の気を鎮めるように歌を歌いながら、ロバのメフトにも使っている疲労回復用の湿布を四肢に巻き始めた。

 その間、スヴァルはサイラの言いつけに従い、家畜小屋の外でじっと待っている。

 疲労困憊の馬を興奮させてしまったら、余分な怪我を負わせてしまうことになる。

 そうサイラは判断したのだが、スヴァルの顔つきはいかにも不服そうだった。

 シラカバの香油を入れた冷水で、サイラは馬の大きな体躯を拭いてやり、家畜小屋の中に夜風を招き入れた。

 筋肉痛や炎症にも効果があるシラカバは、火照った馬体を冷やしてくれるだろう。

 黒馬の呼吸が落ち着くまで傍で見守っていたサイラは、その後台所に戻り、リンゴとニンジンをさいの目に刻んだ。

 それを差し出すと、黒馬は匂いを嗅いで少し迷うような表情を浮かべたが、思い切ったようにサイラの手から食べ始める。

 少しでも食欲があることに安心し、サイラは黒馬の額を撫でた。

「ご主人も頑張っているから、君も元気にならなきゃだめだよ」

 すると、サイラが新参者の黒馬ばかり構っているのが気に入らないのか、スヴァルが腹這いになりながら近寄ってくる。

 黒馬はそれを気にする様子もなく、せがむように鼻先でサイラを押した。

「後でもっと沢山持ってきてあげるね。ご主人の様子を見てくるよ」

 残りを黒馬に与えたサイラは、そう約束して母屋に戻った。


「やっぱり、腕を切り落とさなきゃいけないかもね」

 翌日、騎士の容態を見ていたナランが、平静そのものの声で言った。

「う…腕を……切り落とす!?」

 サイラが声を引きつらせると、ナランは青黒く腫れ上がった騎士の右腕を取り上げた。

「命が助かるなら、腕を一本無くしても儲けものだろう。毒が回ると腐ってくるし」

 想像した途端、喉の奥がぐうと鳴る。

 サイラは慌ててナランの膝に取りすがった。

「何とかならない、ナラン? 右手が無くなると大変だよ」

 するとナランは重々しく溜息をつき、サイラの顔を見下ろした。

「熱が高いし、意識も戻らない。死んでから右腕が必要になるとは思えないよ」

 痛烈なその言葉に、サイラは衝撃を受けた。

 ナランが言いたい事は判る。本当に命が危ないのだ。

 だが、利き腕を失った騎士は、命を取り留めたことを喜ぶのだろうか?

 顔色を変えて狼狽えるサイラを見つめ、ナランは再び溜息をついた。

「この男の体力と幸運に賭けてみるしかないが……今晩まで様子を見よう。
 この状態で腕を切るのも、確かに危険が大きすぎる。
 血が止まらなくなって、ほとんどが死んでしまうから」

 どちらを選んでも、危険であることには変わりないのだ。

 サイラはそれまで以上に必死になって、名も知らぬ騎士を看病した。

 ナランが調合した香油を塗布し、むくみを取るために騎士の全身をさする。

 さらに経絡と呼ばれる気の通り道を、癒し歌を歌いながら指圧する。

 しばらくすると、躰中にどっと疲労が押し寄せてきた。

 寝台横の椅子に座り込んだサイラは、騎士の右手を両手で包み込み、そっと額を押しつけた。

(どうか……この人が助かるように、天律の神々と聖霊のご加護を──)

 後はこうして、祈ることしかできないのだろうか? そう思うと、無力感が忍び寄ってくる。

 その時、騎士の指がぴくりと動いた。

 今まで閉ざされていた瞼が微かに震え、うっすらと目を開く。

 その瞳は何も見ていないようだったが、サイラは希望を抱いた。

「僕の声が聞こえる? 頑張ってください。あなたは生きてますよ!」

 励ましが届いたのか、騎士の瞳がわずかに動き、サイラの顔を見つめる。

 その瞳の色を見てどきりとする。騎士の瞳は、神秘的な深い紫紺色だった。

「……お前は……誰だ?」

 ひどく掠れた声が乾いた唇からこぼれる。

 サイラは騎士の右手をぎゅっと握りしめた。

「僕は……サイラです」

 そう言った後、もっと他に答えようがあったかと思い、サイラは口を開きかけた。

 しかし騎士は「サイラ」と名前を呟き、そのまま深い眠りに引き込まれてゆく。

 声を上げて呼びかけようとしたが、肩に置かれたナランの手に気づき、サイラはっと振り返った。

「眠らせておやり。意識が戻ったなら、山は越えたと思っていい。
 次はもう少し長く目覚めるだろう」

 鼻の奥がつんとして、目に涙が浮かび上がってくる。

 涙ぐんだサイラは騎士を見下ろし、温かな血が通った右手を寝台の中にそっと戻した。

 夜になると騎士の状態はさらに改善され、躰のむくみが引き、右腕の腫れも治まってきた。

 ところが真夜中になるとまた一変し、騎士がぶるぶると震え始める。

 ぶ厚い羊毛の上掛けを被せてやったが、それでも震えが治まらない。

「スヴァル、ここにおいで」

 ナランと交代で看病を続けていたサイラは、寝台の隙間をぽんぽんと叩いた。

 しかしスヴァルは怪訝な顔つきになり、その場から一歩も動かない。

「……しょうがないなあ」

 踏みつけないよう用心しながら騎士の躰をまたぐと、サイラは上掛けの下に滑り込んだ。

 肘をついて自分の躰を支えながら、苦しげな騎士の額に片手を置き、小声で癒し歌を歌う。

 やがて悪寒が和らいだのか、騎士の震えが止まり、表情も穏やかになった。

 ほっと安堵したサイラは、猛烈な眠気を感じてあくびをした。

 徹夜で看病を続けているせいで、昨日からあまり眠っていない。

 大量に使った紫薫草は、眠りへ誘う作用もある。

 添い寝をしているせいで躰が温まり、睡魔がやって来たのだろう。

 懸命に目を瞬かせ、サイラはあくびを噛み殺した。

 深く息を吸い込むたびに、紫薫草の香りが胸の中にまで広がる。

 やがて、うとうととし始めたサイラは、いつの間にか深い眠りに引き込まれていった。