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天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

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 今朝の祈りには全く身が入っていない。

 一人で朝の礼拝を行いながら、サイラは気持ちが落ち込んでゆくのを感じた。

 昨夜は騎士と一緒に眠り込んでしまい、ナランに起こされるまで目覚めなかった。

 騎士の容態が落ち着いていたから良かったものの、何かあったら一生悔やまれただろう。

 自己嫌悪に陥り、サイラは溜息をついた。

 重い足取りで母屋に戻ると、戸口を空けた途端、牛乳を煮込む甘い匂いが漂ってくる。

 大切な雌牛イマから搾る乳は、普段はチーズやバターに加工して保存することが多い。

 ところが今朝は、イマの新鮮な乳を沢山使い、ナランは牛乳粥を作っていた。

「お前もだいぶ疲れているんだろう。朝はゆっくりご飯を食べなさい」

 ナランは塩を加えて味を整え、最後にチーズを削り入れる。

 大好物の匂いを嗅いだ途端、サイラの胃袋は空腹を訴えた。

「……怒ってないの、寝ちゃったこと?」

 おずおずとサイラが訊ねると、ナランは振り返って肩をすくめた。

「怒るわけがないよ。お前はずっと働き通しだったから、眠気に襲われても仕方がない。
 眠らないでずっと頑張れるほど、人の躰は強くできていないからね」

 ナランの言葉を聞いて、サイラの心は軽くなった。

 まだ心のどこかで、「役立たず」と罵られることを恐れる自分がいる。

 そんなサイラを見つめ、ナランは微笑んだ。

「冷めてしまう前に着替えておいで。今日もまた忙しくなるよ」

 騎士が眠る寝室に足音を忍ばせて入ったサイラは、長櫃の上に置いてある普段着を広げた。

 礼拝用の聖衣を着替える前に、ちらりと寝台の方を振り返る。

 目覚めている様子は無いが、万が一にも自分が《半月》であると知られたくはない。

 先にズボンを穿き、腰の周りに革紐を巻く。

 聖衣を脱いで半裸になったところで、背後からその声が響いてきた。

「お前の名は……サイラだったな」

 ぎょっとして振り返ったサイラは、瞼を開けた騎士の顔を見て狼狽した。

 躰を隠すように衣裳を胸元に引き寄せ、サイラは混乱に陥りながら、何度も首を縦に振っていた。

「……は、はい。ぼ、僕はサイラです」

 口ごもりながら、やっとの思いでそう答えると、騎士は疲れたように瞼を閉ざし、溜息をつく。

「──水をくれ。喉が乾いた」

 まだ掠れて弱々しい声ではあったが、命じることに慣れた傲慢な響きがある。

 戸惑ったサイラは、急いでチュニックを被ると、台所にいるナランを呼びに飛び出した。

「おはようございます、閣下」

 ナランは騎士の傍に立つと、優雅なお辞儀をしてそう呼びかける。

 敬称を交えたその挨拶に、サイラは驚いた。

 自分が知っているいつものナランとは違い、遙かに堂々としていて、威厳が感じられる。

 騎士は薄く瞼を開けてナランを見つめると、視線を動かしてサイラを見た。

「……どうやら、私の記憶は混乱しているらしい。お前たちは何者だ?」

「お話をする前に、どうぞ閣下の御名をお告げください。
 わたくしどもは、タリリア山脈に住む貧しき牧者でございます」

 騎士の物言いにも動じず、ナランは滑らかな口調で応じる。

 その受け答えに感心しつつ、サイラはぽかんとしていた。

「ただの牧人とは思えぬが……」

 騎士はそう呟き、目を閉じてしまう。

 まだ朦朧としていて、完全には覚醒していないのかもしれない。

 このまま眠ってしまうのだろうかとサイラは心配したが、騎士は神秘的な紫紺の双眸を開き、掠れた声で名乗った。

「私の名はライゼル。アゼリスの国王陛下にお仕えする者だ」

「──ライゼル閣下」

 ナランは敬意を表するように軽く頭を下げると、サイラを手招いて傍に呼び寄せた。

「この者はサイラ。負傷された閣下と出会い、お助けしました。
 わたくしの名はナランと申します」

 その紹介を聞き、ライゼルと名乗った騎士は訝しげに眉をひそめる。

 ところが右手を動かそうとした途端、激痛が走ったのか、秀麗な顔が大きく歪んだ。

「教えてくれ、ナラン殿。私はどのくらい眠っていた?」

「サイラが閣下を見つけてから、今日で三日目になります。
 その前のことはわたくしどもには判りませんが、毒矢で射られたご様子でした」

 ナランの冷静な答えに、ライゼルは苦悩を深めたようだった。

「──そうだ。あれは毒矢だった。供の者たちも……」

 激しいほどの悲しみと後悔の気配がライゼルから漂ってくる。

 なじみの無い傲慢な雰囲気に圧倒されていたサイラは、慰めの言葉も見つけられず、おろおろしていた。

 騎士が眠っている時は、彼に怯えを感じることもなく、ただ助けたいと思っていた。

 だが、目覚めた彼がこうして話し始めると、急に緊張してしまい、怖くて話しかけることができなくなる。

 とっさに、サイラは寝台の横に置いてあった水差しから木の器に水を注ぐと、ナランに目で訴えた。

 声なき言葉が届き、ナランは軽く目で頷く。

「まずは水をお飲みください。閣下も衰弱しておられますゆえ」

 ライゼルは躰を起こそうとしたが、麻痺が残っているために力が入らないようだった。

 サイラが左側からその躰を支え起こすと、ライゼルは自嘲と怒りが入り混ざったような笑みを浮かべる。

 そんな表情でさえ、どこか不自然さがある。

 サイラが考えていた以上に、毒による麻痺は、ライゼルの躰を蝕んでいるようだった。

「……無様だな。このような姿を人目にさらすことになろうとは」

「お命が助かったことを、素直にお喜びになるべきでしょう」

 騎士の矜恃の高さにうんざりしたのか、ナランの言葉に皮肉の棘が混ざる。

 ライゼルが怒り出すのではないかと、サイラははらはらした。

 けれどライゼルは飢えたように水を飲み干すと、深い溜息をついた。

「……その通りだ。生きていればこそ、復讐も叶う」

 支えられて寝台に身を横たえたライゼルは、力無く震える左手で、サイラの腕に触れた。

「助けてくれたことを感謝する……今は何もできないが……」

 小さな声でそう言い、ライゼルは意識を失うように眠りに落ちた。


「君のご主人、さっき目を覚ましたよ」

 家畜小屋で動物たちの世話をしながら、サイラは食欲を取り戻した黒馬に話しかけた。

 多量の糞を戸外に運び出し、床を掃き清める。

 新しい寝藁に替えてやると、黒馬は人懐っこく顔をすり寄せてきた。

「だけど、ちょっと難しそうな人だよね……ライゼル閣下」

 黒馬を撫でながらそう呟き、サイラは溜息をもらす。

 騎士がまとう雰囲気は、何となく威圧的で、彼の前に立つと、自分がとるに足らない卑小な存在になったような気分になる。

 キーレの住人は気さくであるため、こんな戸惑いを感じることもなかった。

 あれほど意識が戻ることを祈っていたが、眠っていた時の方が、まだ親しみやすかったようにさえ感じる。

「勝手な想像だけど、君みたいな性格かと思ってたんだよ」

 漆黒のたてがみを風にたなびかせ、タリリア山脈の尾根に立っていた黒馬は、雄々しく、美しかった。

 その姿は今も鮮明に覚えている。

 ライゼルは黒馬と一体に見えたから、その人となりをも重ね合わせてしまったのかもしれない。

 黒馬はすぐに打ち解けて、サイラに心を開いてくれたくれたけれど──。

 甘えてくる黒馬の澄んだ黒瞳を見つめ、サイラは小さく微笑んだ。

 その後四肢に巻いた湿布を取り替え、全身にブラシをかけてやる。

 色あせて見えた漆黒の馬体は、今日は艶を取り戻して輝いていた。

 母屋に戻ったサイラは、騎士の様子を見に行った。

 音を立てないように扉を開けると、ライゼルはまだ眠っていた。

 熱が上がっているのか、額に汗の玉が浮かんでいる。

 顔の横に落ちた布を紫薫草の冷水で洗い、サイラはそっと汗を拭った。

 傷ついた右肩に掌をかざし、小さな声で癒し歌を歌う。

 切り落とさなくても大丈夫だろうとナランは言っていたが、毒が出きったら傷口を縫わなくてはいけないらしい。

「……お前が歌っていたのか」

 物思いに沈んでいたサイラは、はっと我に返った。

 目覚めたライゼルと視線が合い、頭の中が真っ白になる。

 ナランのようにすらすらと言葉が出てこない。口が凍りついたように動かなかった。

 ライゼルは訝しげに目を細め、小さな吐息をもらした。

「夢の中で歌声が聞こえた。
 命が離れそうになるたびに、私をこの世に引き戻した。
 その歌がなければ、死んでいたかもしれない」

「ナランも……歌っていたから……」

 自分だけの力ではないと言いたかったが、ライゼルにじっと見つめられ、サイラは言葉を失った。

 強く見つめられると、どうしてよいのか判らなくなる。

 思わず目を伏せると、騎士の左手がゆっくりと上がった。

「まだ痺れは残っているが、少し動くようになってきた。
 早くティサに戻らねばならぬのに、忌々しいことだな」

 苦悩と憤りが滲む声を聞き、サイラは不意にキーレで遭遇した出来事を思い出した。

 もしライゼルが、キーレで出会った黒装束の人物なら、自分の事を覚えているかもしれない。

「あの……僕のこと、覚えていませんか?」

 唐突で愚かな問いかけだと思いながら、サイラが訊ねると、ライゼルは眉間に皺を寄せた。

「──お前とは初対面のはずだがな」

 やや考え込むような間の後に、ライゼルは答える。

 やはり、あの黒仮面とは別人なのだろう。

 恐ろしい青アザの男たちと、山で出会ったこの黒衣の騎士は、全く関係ないのかもしれない。

 そう思い、サイラは安堵した。