Rosariel.com
天に歌い 大地と踊る



第1章 半月の子

<8>



 ナランが調合した解毒剤の効果なのか、ライゼルの麻痺は日を追うごとに良くなった。

 目覚ましい快復ぶりの裏には、ライゼルの強い意思も働いているようだった。

 ナランが作り出す苦そうな煎じ薬を黙って飲み干し、肩に塗布した湿布を取り替える時も、呻き声一つ立てない。

 だが、躰が動かないライゼルを支えるサイラには、凄まじい激痛に襲われているのが伝わってきた

 歯を食いしばって苦痛に耐える間、騎士の額には脂汗が滲む。

 そして、サイラの肩に回された左手が、時々アザになるほど強く腕を掴んでくるのだ。

「傷口を縫合してもらいたい」

 上半身を起こせるようになると、ライゼルはナランにそう言った。

 縫った方が早く治ると考えているようだったが、ナランは首を傾げて考え込んだ。

「毒が残っていると、かえって傷がつかなくなる。もうしばらく待った方がいい」

 この頃になると、ナランは騎士にへりくだらなくなっていた。

 いつも通りの言葉遣いで、事を急くライゼルをたしなめる。

 一方のライゼルは明らかに苛立っていた。

 日に日に体調は良くなっていたが、サイラの支えが無いと歩くことができない。

 それが騎士の焦燥を深め、苛立たせる原因となっている。

 まるで手負いの獣のように神経質になっているライゼルに、サイラはかける言葉を持たなかった。

 騎士の頭には、王都ティサに戻ることしかない。

 世間話をしたところで、ライゼルの気持ちは鎮まらないだろう。

「私が生きていることを、王都に知らせなければならない」

 縫合を承諾しないナランに、ライゼルは強い口調で告げる。

 何故それほど焦っているのか理由は判らなかったが、サイラは口をつぐんでいた。

 身内が心配しているというのは容易に想像できるが、ライゼルにはもっと切羽詰まった事情があるようにも思える。

「無理をして動けば、命を落とすことにもなりかねない。
 シュルグという毒は、それほど油断できないもの。
 死なせるためにあなたを助けたわけではないよ、ライゼル殿」

 ナランが平然と皮肉を返すと、ライゼルの双眸に火花のような怒りが浮かんだ。

「だが、長々とここに留まってはおれぬのだ。一刻も早く襲撃者を捜し出さねば……」

「それほど死にたければ、行くがいい。止めはしないよ。
 けれど予言しておく。今出て行けば、キーレにたどり着く前に息絶えるだろう」

 ナランの灰色の瞳が騎士をひたと見すえる。

 二人の間に流れる険悪な空気におののき、サイラは考える前に口を出していた。

「……あ、あの……手紙を書けばいいんじゃないかな?」

 するとナランは「おや」と驚くようにサイラを見つめ、瞳を和ませた。

 ライゼルもまたサイラを一瞥し、その案を考え込んだが、ゆっくりと首を横に振る。

「私が生きていることは秘密にされなければならない。
 私には敵が多いのだ。
 私が生きていると敵に知れ、この家を襲われたら、お前たちも殺されるだろう。
 私の命を救ってくれたお前たちを、そのような目に遭わせるわけにはいかない」

 ライゼルが早く出立したがったのは、そういう理由もあったのかと、サイラは驚いた。

 自分の事ばかりでなく、二人の安全も考えてくれていたのだ。

「毒矢を受けるほどの恨みを買った覚えは?」

 ナランが訊ねると、騎士はひどく乾いた笑い声を立てた。

「数えきれないほどだ。良くも悪くも私は目立ち過ぎた」

 どういう意味なのかは判らなかったが、ライゼルはきっと有名な騎士なのだろう。

 サイラは唇を押さえて考え込み、ふと首を傾げた。

「……エドに頼んでみたらどうだろう。猟師だから目立たないし、いろんな土地にも詳しい。
 誰か信頼のできる人に手紙を届けてもらえば、あなたの秘密は守られるよ」

「なるほど。ティサから迎えを寄越してもらえば、ライゼル殿の身も安全だ──一人で戻るよりはずっとね。
 大急ぎで知らせても、往復するには半月ほどかかる。
 そのくらいあれば、今よりマシに動けるようになるよ」

 ナランの言葉は、サイラを力づけた。

 しかしライゼルは、なおも気乗りしない様子で、眉間に深く皺を刻んでいる。

「エドなら絶対に信用できるよ。ナランの弟だし、キーレで一番腕の良い猟師なんだ」

 口下手なサイラにしては珍しく、この時は饒舌になった。

 ナランの予言は外れたことがない。

 それを知るからこそ、このままライゼルを行かせるわけにはいかなかった。

 ライゼルの瞳は逡巡するように揺れていたが、やがてサイラの顔を見返した。

「手紙を書こう。そのエドという者を呼んでくれ」



 翌朝、サイラはナランとともに烽火(のろし)を上げた。

 それはキーレの町に住むエドへの秘密の伝言。

 ナランの手によって作られる煙玉は、その用途によって煙の色が変わる。

 赤い煙は「緊急事態」、黄色い煙は「大至急来られたし」、そして青い煙は「今日キーレに行く」など。

 今回は黄色の煙玉を使って、エドに来てもらいたいと伝言を送った。

「烽火を使うとは考えたな」

 サイラが寝室に入ると、ライゼルが物憂げな顔で呟く。

 ナランから渡された羊皮紙に文字を書こうとしていたようだが、左手に残る痺れのせいで思うようにならないらしい。

 その手元には書きかけの手紙とペンが放り出されていた。

「わざわざ町に行かなくてもすむからね。
 それに、エドが猟に出かけていても、烽火に気づけば、どこからでも来てくれる。
 最近はこの辺りの山にいるから、多分すぐに気づいてくれるよ」

 できるだけ明るい声でサイラが答えると、ライゼルは暗い陰のある笑みを浮かべた。

「そのエドが烽火を見過ごしてしまったら?」

「見過ごさないよ。エドは目が凄く良いんだ。
 それに、明け方になると、必ず僕たちのことを気にしてくれるから」

 ライゼルの冷たい揶揄に怯みつつ、サイラは信頼するエドを擁護する。

 すると騎士は小さな溜息をつき、微かに震える左手で額を押さえた。

「──大丈夫?」

 急に心配になり、サイラが顔を覗き込むと、ライゼルは自嘲的な微笑みを唇に浮かべた。

「すまない。お前に八つ当たりしても仕方がないことだった。
 ただ……私は、己がこれほど無能に感じられたことがない。
 一人で何もできぬとはな」

 無力な自分に対する苛立ちと怒りが、ライゼルの心を責め苛んでいるのだろう。

 何となくその気持ちが判り、サイラは部屋に入ってきたスヴァルの首を抱き寄せた。

「あなたの躰は、生きるために必死に頑張っていたよ。
 だから、無能だなんて言わないでほしい。
 そんなに焦らなくても、動けるようになったら、前みたいにできるよ」

 サイラの言葉を聞いていた騎士は、紫紺の双眸を閉ざして嘆息した。

 再び目を開けた時には懊悩の影は払拭されており、ライゼルは興味深そうな眼差しを白狼に向ける。

「その狼は、お前が飼い慣らしたのか?」

 スヴァルのことを聞かれ、サイラは嬉しくなった。

「エドと一緒に狩りに行った時、森の中で見つけたんだ。
 母狼を殺されて、独りぼっちになっていたから、家に連れて来たの。
 まだ目も開いてなくて、こんなに小さかったんだよ」

 サイラが両手を広げて見せると、ライゼルは穏やかに微笑する。

 どことなく物憂げで、目元に濃い疲労が漂っているが、今までのように刺々しい雰囲気ではない。

 そのためなのか、胸の奥に日が射し込んだような温もりを感じた。

「あの……ライゼル殿……閣下。
 書くのが辛かったら、僕が代わりに手紙を書こうか?」

 ナランが使っていたように敬称を交え、サイラは初めて名前を呼びかけてみる。

 すると、枕にぐったりと身を預けていたライゼルが、ふっと笑いをもらした。

「敬称はいらない──ライゼルでいい。
 お前は文字が書けるのか、サイラ?」

「ナランから教えてもらっているからね。
 でも、難しい言葉は教えてくれなきゃ書けないかもしれない」

 自信を無くして首を傾げると、騎士の唇が微かにほころぶ。

「では、お前に頼もう。椅子をもっと私の傍に。大声を出したくはないからな」

 枕元に引き寄せた椅子に座り、ライゼルが机代わりに使っていた木の板を膝に置く。

 サイラが鵞ペンをインクに浸すと、ライゼルは手紙の文言をゆっくりと口にした。

「生きている。陛下にお伝えし、秘密にせよ。
 信用できる者を選び出し、この手紙を運ぶ使者とともにキーレで待て」

「──陛下ってどう書けばいい?」

 困惑するサイラに、ライゼルは忍耐強く、一文字ずつ単語のつづりを教えた。

 サイラが手紙を書き上げると、ライゼルはそれを確認し、少し意外だと言うように褒めた。

「美しい字を書く。語彙さえ増えれば、書記官になれるかもしれんぞ」

「……書記官って?」

 サイラが聞き返すと、ライゼルは震える左手で最後の署名を記しながら答えた。

「文字を書く仕事をする者たちのことだ。会議の内容などを記録に残す」

「……そんなの、つまらないよ」

 想像し、サイラは唇を尖らせる。

 すると、意表を突かれたかのように、ライゼルはサイラの顔をまじまじと見つめた。

 何がそれほど驚かせたのか判らず、サイラは気恥ずかしさに襲われた。

「だって、ずっと座っていなきゃならないでしょ?
 歌ったり、踊ったりしている方が楽しいと思うんだ」

 口ごもりながらそう弁明すると、ライゼルは紫紺の瞳で天井を仰ぎ、不意ににやりと唇を歪めた。