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妖精王の光環


<10>




『……凛……凛、あなたが喋ったら、みんなが不幸になるのよ。
 だから……絶対に喋ってはダメよ。
 お母さんがいなくなったら、凛もお父さんも寂しいでしょう?』

 繰り返し囁きかける声は、いつも悪夢を紡ぎだし、安らかな眠りを妨げる。

 それが誰の声なのかを認識するまでもなく、凛の肉体は怯えて凍りつき、震え始めた。

 そのうち、過去の声と重なるようにして、新たなる声が響いた。

『……時は来たれり──闇の神イズリューンの顕現により……我らが王に永遠の命と神々の力を与えたまえ……』

(……違う……俺は……イズリューンなんかじゃない……)

 棘のある茨の蔓に喉を締め上げられるように、ぎりぎりと首が痛み、声が掠れる。

 だが、どれほど必死で訴えようとしても声は届かず、さらに別の声が重なった。

『……イズリューン……私を受け入れよ──そして……力を……』

(──嫌だ! 俺はイズリューンじゃない……ただの人間だ!)

 悪夢の中でのたうち回りながら、凛は、肉体を引き裂かれる激痛に絶叫し、魂を犯される恐怖に悲鳴を上げた。

 しかしその声は執拗に追いすがり、凛の全てを覆い尽くそうとする。

 蜘蛛の糸に絡め取られた蝶のように虚しく藻掻きながら、凛は悪夢の淵から必死に逃れようとした。

 大きく息を吸い込み、胸の中を新鮮な空気な満たした時──ふと、湿り気を帯びた濃厚な緑の香りを感じた。

 清涼な酸素が身体の隅々まで染み通ると、ねっとりと付着していた悪夢の欠片が剥がれ落ち、全てが吹き払われてゆく。

 大きなため息をついた凛は、重石が取り除かれたような身軽さを感じ、ゆっくりと瞼を開こうと意識を集中させた。

 ところが、瞳が焦点を結んだにもかかわらず、目の前に広がる世界は白く霞んでいる。

 驚いて一度目を閉じ、凛はもう一度確かめるように目を開けたが、やはり見える光景は同じだった。

 その時、ゆったりとした風が流れ、さらさらと梢が揺れる音が聞こえた。

 風に揺らされて空気もまた動き、徐々に視界がクリアになってゆく。

 辺りが霧に閉ざされていたのだと気づいた凛は、ほっと安堵のため息をついた。

 そして、幾重にも毛布でくるまれていた身体をずらすと、両腕に力を込めてゆっくりと上半身を起こす。

 周囲を何度か見回してようやく、凛は、自分が見たこともないほど深い森の中で眠っていたのだと認識した。

「……いったい、どうして──?」

 思わず驚きの声を上げた凛は、呆然と頭上を覆う木々の枝を見つめた。

 霧の立ちこめた森の中は、水分を多く含んだ空気で満たされているため、まるで水の中にいるような錯覚さえ覚えるほどだった。

 木の葉が風に揺れるたび、漣立つような音色が響き、そして、どこからともなく小鳥が囀る声が聞こえてくる。

 と、その時、それまでは人の気配など何も感じなかったというのに、突然、頭上から人の声が落ちてきた。

「──起きたのか?」

 声は低かったが、その人物の声は音楽的なまでに美しく、豊かに響いた。

 愕然として凛が背後を振り返ると、すぐ近くに芸術的なまでに美麗な顔立ちをした長身の青年が立っている。

 腰まで届く長い金髪をひとつに纏め、童話に出てくる狩人のような衣服を着た彼は、深い翡翠色の瞳でじっと凛を見下ろしていた。

 男なのか女なのか判断が付きかねるほど端整な美貌でありながら、彼の身を包む雰囲気は猛き狼のように研ぎ澄まされており、獅子のように力強く見える。

 森の中で突然野生の美しい獣に出くわしたようなショックを感じ、凛は見惚れたように彼の翡翠色の瞳を見つめていた。

 すると、青年は不愉快そうに眉根を寄せ、冷ややかな声で言った。

「私を誘惑するつもりなら、やめておくのだな。
 穢れし人間と交わった者になど、私は興味はない」

 侮蔑に満ちた言葉に、凛は冷水を浴びせかけられたような衝撃を覚え、次の瞬間には理性を取り戻していた。

「……初対面の相手に、随分な言葉じゃないか?」

 瞳を怒らせ、凛は美貌の青年を睨みつけたが、彼は軽く片眉をつりあげただけだった。

「それは失礼を──だが、そちらも、初対面の相手と会うに相応しい格好とは思えぬが」

 そう言われ、凛は訝しげに自分を見下ろした。

 毛布にくるまれていた凛の身体は全裸であり、身体を起こしたために、包んでいた毛布が滑り落ちてしまっている。

 そのため、透けるように白い肩や胸が露わになり、腹部から腰へと続くラインに辛うじて毛布が引っかかっているような状態だった。

 全く気づかなかったとはいえ、凛は自分の姿に激しい羞恥を覚え、慌てて毛布を肩まで引き上げていた。

 そんな凛の様子を見つめていた青年は、何かに気づいたようにふっと顔を上げた。

「──やれやれ、あっちもこっちも、王の軍隊がうようよしておるわい」

 ガサガサと背丈の低い茂みをかき分けながら、頑丈な体格をした白髭の老人が現れた。

「おや、アルレイン──もう挨拶を済ませたのかな?」

 凛を見下ろしている金髪の青年に、老人はそう呼びかけ、にやにやと笑いながら近づいてきた。

 青年は無言で首を振ると、足音を立てずに凛から離れ、老人の方へと歩いて行った。

「何じゃ、まだなのか」

 青年と入れ違いに凛の前に立った老人は、愛嬌のある笑みを浮かべ、どっかりと地面に腰を下ろした。

「すまんのう、驚かせてしもうて。
 もともと愛想の無いヤツなんじゃ、あのエルフの若君は。
 父君もそれを心配して、若君の修業と称して、儂に付けてくれたんじゃがな──あの愛想の悪さは一向に直らんわい」

 わはは……と声を立てて笑った老人は、透き通った空色の瞳で凛を見つめ、軽くウィンクをして見せた。

 老人の大らかな雰囲気が、張りつめていた神経を緩ませたのか、凛の唇にふっと微かな微笑みが戻った。

 その笑顔を見返し、老人はにやつきながら、金髪の青年を指差した。

「あの若造の名前はアルレイン。
 儂はエルダインじゃ──エルドと呼んでくれた方が嬉しいがな。
 ところで、おぬしに、儂の言葉は通じておるかの?」

 エルダインの名乗った老人の言葉を聞き、凛は躊躇いながらも頷いた。

「判ります……あの──俺の名前は……」

 ところが凛が名乗ろうとした瞬間、老人は片手を上げて、慌てたようにそれを遮った。

「すまんが、エルフの王に会うまでは、おぬしは自分の名前を口にしてはいかん。
 おぬしが名乗れば、たちどころに、我々がどこにいるのかがばれてしまう恐れがあるからな。
 捕らえられたくなければ、面倒をかけるが、これだけは弁えてくれ」

 エルダインの言葉に、凛は顔色を青ざめさせ、落ち葉が降り積もった地面を睨んだ。

 誰に捕らえられるのか──言われなくても、凛は瞬時に理解していた。

 どういう成り行きでこの森にいるのかは判らなかったが、最初に出会った銀髪の男から、自分は逃れてここにいるのだろう。

 ゆっくりとした動作で凛がうなずくと、老人は安心したように嘆息をもらした。

「じゃが、名前が無いと呼びにくいな。
 エルフの君に新たな名を付けてもらうまで、おぬしの事はしばらく『ディーナ』と呼ぼう。
 エルフ語で『夜の子』という意味じゃ」

「……ディーナ……──あの……俺は女じゃありません」

 ふと、そう思って口にすると、エルダインが少し怪訝そうに眉をつりあげた。

「──じゃが、男でもなかろう?
 まあ、エルフ族そのものが、そもそも性別が曖昧な一族なのじゃ。
 昨今はそうでもないが、かつて王となる者はみな、神族と同じく両性を有したという。
 もっとも、一族の力が衰えてゆくのと共に、両性の子も……そうでない子すら、生まれにくくなったということじゃがな」

 エルダインの顔を見返した凛は、戦くように震え出した唇を噛み、動揺を抑えるように拳をきつく握りしめた。

「何が起こったのか……俺には全然判りません。
 ただ、気が付いたら見知らぬ場所にいて…………目覚めたら、あなた達に会った。
 これからどうすればいいのか──どうすれば元の場所に戻れるのか……何も判らない」

 必死で理性を保とうとする凛を見つめながら、エルダインは重々しいため息をついた。

「おぬしがここに存在する訳は……もう少し落ち着いてから説明しよう。
 その前に、まずは身支度を整えて、朝食にするとしようかの。
 おぬしの魅力的なその姿は、世間知らずのアルレインには、ちと目の毒じゃからな」

「……何をバカな事を」

 焚き火に枯木を差し入れていたアルレインが、エルダインの言葉を聞き、呆れたように素っ気なく鼻を鳴らした。

「おや、老人の戯言など聞き流せばよかろうに。
 まあとにかく、これ以上おぬしを荷物のように丸めていくわけにもいかんから、身動きしやすいように着替えてもらおう」

 笑いながら立ち上がったエルダインは、尻についた汚れを両手で払うと、荷物を纏めてある焚き火の傍に歩み寄った。

「ディーナ──とりあえず、これを羽織って、ついておいで」

 荷物の中から丸められた黒いマントを取りだしたエルダインは、それを凛に投げて寄こした。

 戸惑いつつも、そのマントを広げてみると、漆黒のビロードのような布地に、白い毛皮の縁取りがある豪奢なものであることに気づく。

 肩から羽織ってみると、とても軽く、温かい。

 手触りは驚くほど滑らかで、凛はそのマントが非常に上質で高価なものであると察した。