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妖精王の光環


<11>



 エルダインから渡されたマントを身体に巻き付けた凛は、その時ふと、自分の顔にかかる長い黒髪に気づいた。

 水を吸ったような光沢を放ち、フランス人形のようなウェーブを描く髪は、腰を下ろしていると地面に届くほどに長い。

 凛の髪色は茶色っぽく、もともと少し癖毛であるために、いつもまとまりが良いようにすっきりとカットされている。

 ところが目の前に落ちてくる髪は、光を全て吸収するように黒々としていて、女の子がパーマをかけたようにうねうねと波打っており、生まれてから一度も切られた事がないのかと思わせるほど長く伸びていた。

(……いったい、これは誰の髪だ?)

 不気味に思いながら、その艶やかな一房を片手で引っ張った凛は、途端に引きつれた痛みを頭皮に感じた。

 その誰の物とも知れない黒髪が、自分の頭頂部に付着している事に愕然とし、凛は思わずその髪からぱっと手を放してしまう。

「──ディーナ、おまえさん、いったい何をしておるんじゃ?」

 その時、途中で振り返って、凛の様子を見守っていたエルダインが、不可解そうな声音でそう訊ねた。

 我に返った凛は、慌てて頭を横に振ると、努めて何も考えないようにしながら、エルダインの後を追いかけた。

──何か、理解のできない事が起こっている。

 改めてそう思い直した凛は、不安と焦りが吹き出しそうになる心を押さえ込んだ。

 胸の中にはもやもやとした黒い影が激しく渦巻いていたが、それが何なのかを無意識に見ようとすると、喉元まで吐き気が込み上げてくる。

 弓を引く時の要領で、無心を保ちながらエルダインに追いついた凛は、マントをきつく身体に引き寄せながら黙々と歩いた。

 落ち葉の間から顔を出す木の根や、枯木の枝が、柔らかな裸足の足裏を傷つける。

 ところが、それに気づかないほど精神的に追いつめられていた凛は、苦悩を押し殺した修行僧のような顔で、ひたすら老人を見失わぬように歩き続けた。



 エルダインに連れて行かれたのは、森の木々に囲まれた小さな泉の畔だった。

 波ひとつ立たない静かなその泉は、アクアマリンを思わせる美しい水を湛え、水面から底が透けて見えるほど清らかだった。

「ここの水は、地面の下から湧き出しておるから、見た目よりは温かいんじゃよ。
 ただ、中心の方は底無しらしいから、絶対に近づいてはいかん。
 おまえさんの着る服はここに置いておくから、身を清めて着替えたら、さっきの場所まで戻っておいで」

 そう説明したエルダインは、小脇に抱えていた布の包みを大きな石の上に置いた。

 凛は小さくうなずくと、重い足取りで岸辺に近づき、怖じ気づきそうになる自分を叱咤しながら、そっと泉を覗き込んだ。

 ところが、水鏡にその姿が映し出された瞬間、凛は全身から血の気が引くのを感じ、そのまま岸辺にへたり込んでしまった。

「──ディーナ、どうした!?」

 心配したエルダインが慌てて歩み寄ってくると、凛は呆然とした目で老人を見上げ、片手で水面を指差した。

「……あれは……誰です?」

 凛の質問に、エルダインは眉根を寄せて首を傾げた。

 言葉が理解されなかったのだろうかと思い、凛はもう一度同じ問いを繰り返した。

「誰って、あれはおまえさんじゃろう。
 泉に自分が映っておるんじゃ。
 おまえさんの元の世界には、そういう事はなかったのかね?」

 そうエルダインが言った瞬間、凛は激しい声で叫んでいた。

「──違う! 違います、あれは、俺じゃない!」

 凛の甲高い叫び声が森に響き渡ると、その声に驚いたように、小鳥たちが一斉にバサバサと空へと飛び立っていった。

「これ、静かにするんじゃ! 王の軍隊に気づかれたらどうする!」

 焦ったようにエルダインが言ったが、他になす術がないかのように、凛はただ頭を横に振るばかりだった。

「……いったい、どうして……俺は俺なのに……形は俺じゃなくなってる」

 ずっと感じていた不安の全てが溢れ出し、凛の瞳からは堰を切ったように涙がこぼれ始めた。

「形が違う? 姿が変わっているということかね?」

 凛の様子にただならぬものを感じたのか、エルダインは冷静な口調でそう訊ねた。

 込み上げてくる嗚咽を怺え、きつく唇を噛みしめて俯いていた凛は、喉の震えを止められぬまま首を縦に振った。

「──姿が変わる……異界の扉を抜けると、そういう事も起こるんじゃろうかのう。
 かつて一度も聞いたことがないような話じゃが」

 凛の傍に立って腕組みをしたエルダインは、アクアマリンの泉を見つめながら、考え込むように唸った。

「まあ、その事も多分、エルフの君がご存知じゃろう。
 もしかすると、ご存知ないかもしれんが。
 じゃが、今はとにかく、イルダールを抜けて<幻夢の森>に辿り着かねば。
 目眩ましの結界は張ってあるが、その効果も完璧とは言えんのじゃよ、ディーナ」

 エルダインは、凛の傍にしゃがみ込み、慰めるように細い背中を撫でた。

 しかしエルダインの優しい思いやりを感じた途端、混乱していた凛の心が弾け、さらに大粒の涙が流れ落ちた。

「──俺はディーナじゃない! イズリューンでもない!
 ……俺は……俺は──!」

 ヒステリックに叫び、我を忘れて名を口にしようとした凛は、次の瞬間、泉の水面に忘れもしない銀髪の男の姿を見出し、ヒッと喉を喘がせていた。

 後退った反動で、尻餅を付きそうになった凛を、とっさにエルダインの腕が支える。

 そんな二人の姿を見つめ、バルディーズの幻影は、水底から冷ややかな微笑を投げかけた。

『──老師エルダイン……本当に私から逃げられると思っているのか?』

 淡々とした声音を発した美しい銀色の影は、紺碧の隻眼で凛を眺めやると、喜悦の形に唇を歪ませた。

『私と交わったその者を連れている限り、私の目を眩ませることなどできぬ。
 それにその者は、まだ私の精を胎内に含んだままであろう?
 魔法を使わずとも、すぐに猟犬がそなたらを探し当てることだろう』

 冷酷な笑い声を立てたバルディーズを、エルダインが険しい眼差しで見下ろした。

「王よ──ディーナはおぬしには渡さん。
 エルフの君が治める<幻夢の森>に入れば、おぬしの長い腕も届かぬじゃろう。
 あそこは赦しがなければ、何人であろうと立ち入ることはできぬ禁域ゆえ」

『……だが、<幻夢の森>に入る前に捕らえれば、禁を侵すこともないな。
 それより、ディーナというのは、その者の名か?』

 一切の表情を消した冷厳な美貌を見返し、エルダインは重々しくうなずいた。

「なるほど……『夜の子』か──』

 何を思ったのか、バルディーズは謎めいた微笑を浮かべ、艶冶な流し目を凛に向けた。

 恐ろしいほど冷たい眼差しであるというのに、心を鷲掴みにするような魅惑的な色を湛える紺碧の瞳に見据えられ、凛の鼓動は早鐘のように鳴り響いた。

 思わず胸元のマントを握りしめた凛は、蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまった自分を自覚しながら、必死でバルディーズを睨み返した。

 するとバルディーズは面白そうに笑い、誘いかけるように告げた。

『相変わらず気が強い──今度会う時が楽しみだな、ディーナ。
 次に会う時は、我が花嫁に相応しい衣裳をあつらえることにしよう』

「貴様になど、二度と会いたくはない」

 生来の反骨的な気性が頭をもたげ、凛はとっさにそう言い放っていた。

 その途端、それを横で聞いていたエルダインが大きな笑い声を上げ、アクアマリンの泉の縁に歩み寄った。

「──と、言う事じゃ、バルディーズ殿。
 あまり覗き見が過ぎると、愛しい方に嫌われますぞ」

 にやりと不遜な微笑を浮かべてそう言うと、エルダインは胸の前で両手を伸ばした。

 一度、両掌を水に翳すようにした後、バルディーズの前で大きな柏手を打つ。

 その瞬間、鏡よりもリアルにバルディーズの姿を映し出していた泉が大きく揺れ、それと同時に幻影を掻き乱してしまった。

 泉に元の静謐が戻ると、凛は茫然としたまま、老魔道師を見上げた。

「……いったい、あれは──?」

「な〜に、ちゃちな小細工じゃよ──魔道師どもがよく使うこけ脅しの一種じゃ。
 じゃが、あまりぐずぐずしておると、本当に見つかってしまう。
 ディーナや、混乱しておるのは判っておるが、今は逃げねばならん。
 おまえさんが身を清めたら、すぐに出発するぞ」

 そう言って、エルダインが森の中に戻ろうとした時、向こう側から焚き火の番をしていたはずのアルレインが現れた。

「どうしたんじゃ、アルレイン?」

 驚いたようにエルダインが問いかけると、エルフの青年は氷よりもなお冷たい眼差しで凛を睨みつけた。

「──叫び声が大きすぎて、追っ手に気づかれてしまった。
 ほどなくして、猟犬が現れるだろう。
 エルダイン、今すぐにこの場所から離れなければ」

「ちょっと待て。ディーナはまだ、着替えてもおらんのじゃぞ」

 アルレインの厳しい剣幕に押されたように、エルダインは一瞬声を呑み込んだが、すぐに凛を庇うようにそう言った。

 するとアルレインは、美しい翡翠色の双眸を眇め、岸辺に座り込んでいる凛に近づいた。

「何をしている──王に注ぎ込まれた不浄を掻き出して、さっさと着替えるのだ。
 できないなら、私がやってやろう。
 王の匂いをまとわりつかせたおまえがいると、すぐに猟犬が嗅ぎつけ、襲いかかってくるだろう」

 それを聞いた凛の顔は見る見るうちに蒼白になり、戦慄くように唇が震えた。

 見かねたエルダインが、苦々しい声でアルレインを叱りつけた。

「バカな事を言うな、アルレイン!
 まったく、これだから女心を解さない若造は困るんじゃ。
 顔は綺麗なくせに、おまえの言葉は何時だって繊細さが欠けておる」

 しかしアルレインは顔色ひとつ変えず、冷淡に凛を見下ろしたままだった。

「そんな悠長な事を言っている暇が無いことくらい、貴方も判っているはずだ。
 この者をここに置き去りにするのならいざ知らず、連れて行くと言うなら、もう一刻の猶予も残されてはいない」

 その言葉を聞いた凛は、アルレインの翡翠色の双眸をきっと睨み返し、小刻みに震え続けている身体を鞭打つようにして立ち上がった。