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妖精王の光環


<12>



「──判った。だけど、着替えている間は、向こうに行ってくれ。
 ……覗かれるのは、好きじゃない」

 決死の覚悟をしてそう言った凛を、エルダインの空色の瞳が、心配そうに見つめていた。

 唇まで血の気が失せた、雪花石膏のごとき白い美貌を見返したアルレインは、承諾したように首を傾げ、そのまま踵を返した。

 足音ひとつ立てずに森の中へ戻っていくアルレインの背中を睨みつけていた凛は、その姿が茂みの中に消えると、胸の中に溜めていた空気を一気に吐き出していた。

「ディーナ──気を悪くするなと言っても無理じゃろうが、あのアルレインでさえ、今の状況を楽観視できずに焦っておる。
 おまえさんを侮辱した事は、儂がしっかり叱っておくから、そこのところだけは、どうか判ってやってくれ」

 やれやれと呟きながら大きなため息をついたエルダインは、慰めるように凛の肩を軽く叩くと、妖精族の青年を追いかけるように森の中へ入って行った。

 ただ一人水辺に残された凛は、少しの間呆然と立ちつくしていたが、おもむろに羽織っていたマントを脱ぎ落とした。

 意を決して水鏡に総身を映すと、そこにはよく見知っている自分とは違う人物が立っている。

 見たことが無いほど美しい女だった──それが、自分自身だと思わなければ。

 髪は黒々と波打って長く、小さな白い顔に嵌め込まれた目の色は、アメジストを思わせる深い紫色だった。

 首や肩のラインは、様々な武道で鍛えられていた肉体よりも遙かに細く、弓を引けるとは思えないほど華奢である。

 胸は微かな膨らみはあるものの、ほとんど男のように平らであったが、えぐれたようにくびれたウエストラインとそれに続く臀部は、女性らしい優美な曲線を描いており、すんなりと長い両脚に繋がっている。

 だが、その肉体よりも遙かに凛に衝撃をもたらしたのは、変わり果てた性器の様だった。

 あえて他人と比べた事は無かったが、日本人男性としては平均サイズだろうと思っていたペニスは、まるで赤ん坊のそれのように萎縮している。

 愕然として双眸を見開いた凛は、思わず悲鳴を上げそうになっていた。

 男とも、女とも言えないような、不完全な肉体──。

 息を飲んだ瞬間、凛は、身体の奥から内股に滑り落ちてくる不気味な感触に気づいた。

 赤い血が混ざった白濁とした粘液が、とろとろと白い肌の上を伝い、流れ落ちる。

 そのおぞましさに吐き気を催した凛は、飛び込むようにして泉に入った。

「──ちく……しょう……」

 訳も分からずに犯された記憶が鮮明に蘇り、凛はきつく両目を閉ざした。

 こんな理不尽で不可解な事はあり得ないと、頭が死に物狂いで否定する一方で、肉体のその部分は、破瓜の疼痛を訴えている。

 それでもなお確かめるように指先を伸ばし、ペニスの後方を探ってみると、女性が持つ柔らかな花弁と女芯が明らかに認められた。

「……いったい……どうして──」

 暗い絶望に打ちのめされ、水の中で膝をついた凛は、その事実を受け入れる事ができずに呆然としていた。

 頭の中に、様々な支離滅裂な推測が飛び交う。

 自分の心魂が、この異世界の異形の美女の肉体に乗り移ったのだとすれば、本来の持ち主の魂はどこにいるのか。

 もしかすると彼女の魂は、凛の肉体に入れ替わって入ってしまったのかもしれない。

 それとも、異世界に飛ばされた事で、凛の肉体そのものが変身してしまったのか──?

 そんな事を考えながら、凛は、自分の身に何が起こっているのか、誰でもいいから、とにかく納得いくように説明をして欲しいと思った。

 そして出来ることなら、元の自分へ、元の場所へと戻して欲しい。

 ところが苦悩に苛まれる凛をなおも嘲笑うかのように、岸辺から冷淡な声が響いた。

「──もう時間が無い。終わったのなら、早く上がれ」

 その声に驚き、凛がはっと背後を振り返ると、水際に旅装を整え、馬の手綱を引いたアルレインが立っている。

 アルレインの深緑色の瞳と視線が合った瞬間、凛は激しい羞恥を感じ、身体を隠すように水の中に首まで浸かった。

「……の、覗くなって言っただろう!」

 もっと厳しく非難してやりたいと思うにも関わらず、凛の口から出たのは慌てふためくような迫力の無い声だった。

 そのためか、アルレインは動揺することもなく、ひどく醒めた声で言葉を投げ返す。

「時間が無いと、さきほどから警告しておいたはずだ。
 ここで口論している間にも、猟犬は近づいてくる。
 さあ、力ずくで引きずり出されたくなければ、すぐに上がって着替えるのだ」

 アルレインの声の中に、微かな焦りを感じ取り、凛は皮肉っぽく唇を歪めた。

 ここで自分がごねていれば、このいけ好かない態度の男をもっと焦らせることができるかもしれない。

 そんな意地の悪い事を考えながらも、自分自身にも危険が及ぶことを悟っていた凛は、水の中で身体を縮めるようにしながら岸辺に近づいた。

「おい……身体に巻くバスタオルみたいなのは無いのか?」

 これ以上はさすがに身体を隠せないという場所まで着た時、凛は不機嫌そうに顔をしかめたまま、岸辺に立つアルレインに聞いた。

「──ばすたおる?」

 怪訝そうに聞き返したアルレインの顔を見て、凛は諦めたようにため息をついた。

 言葉は通じているようだが、どうやら理解されない単語もあるらしい──。

「ええと……あれだ、身体を拭くような布とか無いのか?」

 水底に両膝をついた格好で、凛が身振り手振りで説明をすると、アルレインは思い至ったというように軽くうなずいた。

 馬の鞍に積んである荷物を探り、アルレインはその中からシーツのようなクリーム色の布を取りだす。

 畳まれた布を広げたアルレインは、上がって来いと言うかのように顎をしゃくった。

「──……それ、投げてくれよ」

 束の間沈黙が続き、身動きをしないエルフの若者を睨みつけていた凛は、根負けしたかのように懇願した。

 するとアルレインは訝しげに眉をつり上げた。

「身体を拭きたいのだろう?
 何故、わざわざ布を濡らす必要があるのだ?」

「あんたに見られたくないって、さっきから言ってるだろう!
 いいから、あっち向いてろ!!」

 思わず大きな怒鳴り声を上げた凛に、アルレインは厳しい眼差しを向けた。

 と、その時、不意に森の周囲から、地の底から沸き上がるような低い獣の唸り声が聞こえてきた。

 威嚇するような獰猛な声はひとつではなく、徐々に輪を狭めるように近づいてくる。

 ほどんど同時にアルレインは弓に矢をつがえ、素早く周囲に視線を巡らせると、的を狙うように躊躇いなく矢を放った。

 次の瞬間、森の奥で、凄まじい断末魔の悲鳴が上がる。

 耳を覆いたくなるような声に愕然としたが、アルレインが次々に矢を放っていく間に、凛は急いで岸辺に上がり、着替えの服に飛びついた。

「……ア、アルレイン、ごめん。
 もう着替えたから、すぐにここから逃げよう」

 時間を取らせてしまった事に罪悪感を覚え、凛がとっさに謝ると、アルレインは口の端にちらりと皮肉げな微笑を浮かべた。

「逃げるには遅い──猟犬に囲まれてしまっているからな」

「えっ? だって、どこにも……」

 姿は見えないと、凛が言葉を続けようとした途端、森の中から、恐ろしく巨大な肉食獣が姿を現した。

 その獣は、犬というよりは、まるでライオンのように大きかった。

 逆立った灰色の毛皮に覆われており、前に付きだした頭は一抱え以上もあり、異常に発達した下顎を持っていた。

 強いて例えるならブルドッグに似た顔であったが、肩の位置が高く、強靱で長い四肢を持った体格は、ハイエナのようにも見える。

 猟犬という言葉から、ビーグルやポインターのような犬種を想像していた凛は、エルダインやアルレインが警戒していた理由をようやく悟った。

(……犬なんて、可愛いものじゃない)

 それは、どう見ても「犬」という名前を借りた怪物だった。

 凛が喉を喘がせると、その怪物の中で最も大きな獣が、木立の後ろから現れた。

『……臭う……臭うぞ……王の精と、血の臭いだ……』

 耳障りな低いしわがれ声が、獰猛な唸り声と共に響いてくる。

 猟犬の半開きになった顎からは、ダラダラと涎が落ち、炎のような赤い舌が、舌なめずりをするようにひしゃげた鼻面を舐めた。

 その声が「猟犬」から発せられたものだと察した凛は、あまりのおぞましさと恐怖に眩暈すら感じた。

 アルレインは怜悧な双眸を細め、バルディーズの猟犬たちの首領であろう、その巨大な野獣に向けて矢をつがえる。

 だが、その獣は恐れる様子もなく上唇をめくり上げ、ずらりと並んだ鋭い牙を閃かせた。

『……王の花嫁を大人しく渡せば、喉笛を引き裂いてから喰らってやる。
 だが、刃向かうなら……お前の身体から手足をもぎ取ってやるぞ』

 アルレインの返答は無かった。

 あたかも稲妻のように矢が飛び、野獣の濁った金色の眼球を狙う。

 ところが野獣の頭がそっぽ向くと、アルレインの矢は鋼鉄の壁に当たったかのように弾き返されてしまった。

 小さく舌打ちをしたアルレインは、愕然としている凛に冷静な声で教えた。

「猟犬を殺すには、目か口の中を狙うしかない。
 奴らの身体には、どんな武器も魔法もきかないのだからな」

「……や、やっぱり、犬じゃなくて、化け物じゃないか!」

 思わず声を引きつらせながら凛がそう言うと、アルレインは呆れたように凛を一瞥し、腰に帯びていた長剣を抜き放った。

「奴らは、人間やエルフを狩るために、イルダールの魔道師たちが作り上げた闇の生物なのだ。
 奴らの一群に襲われれば、どれほど大きな街でも大軍でも壊滅する。
 バルディーズが統治するイルダール王国が恐れられているのは、あの猟犬たちの力によるところが大きい。
 あの猟犬に狙われて生き延びた者は、かつて一人としていないらしいからな」

 淡々としたアルレインの言葉に、凛は頭を殴られたような衝撃を感じた。