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妖精王の光環


<13>



 訳の分からない異世界に飛ばされてからというもの、凛は何度もパニックに陥っていた。

 今まで見てきたもの、信じてきたもの、それら全てが覆され、目の前にはファンタジーとしか言いようのない世界があった。

 見目麗しい凶悪な王様や、性格の悪い美形のエルフや、真面目なのか不真面目なのか判らない老魔道師──。

 そんなものはゲームの中でだけ存在すれば良いのであって、実際目の当たりにすると、夢を見てるか、頭がおかしくなったかと思わずにはいられない。

 ましてや自分自身の姿形まで変わってしまっているのだから、これが夢や妄想だと認識した方がまだ納得できるような気がした。

 だが、凛とアルレインを取り巻く恐ろしい「猟犬」は、ともすれば自分に都合よく考えようとする凛の思考を、冷酷な現実に引きずり戻す。

 獣たちから漂ってくる生臭い匂いや、全身が粟立つほどの殺気、そして何よりもアルレインの緊迫した様子が、身の危険をひしひしと伝えてきた。

 時間が無いと、散々聞かされてきたにも関わらず、自分の認識不足が、この最悪な状況を作り出したと言える。

 絶体絶命の危機──そんな言葉が脳裡を過ぎり、凛はごくりと唾液を飲み下した。

「ディーナ、おまえは戦えるか?」

 まるで芸術品のように美しく、鋭利な長剣を手にしたアルレインが、楽しげとも聞こえるような口調で問いかけてくる。

「弓は引けるけど……実戦は──」

 確かに弓道や剣道を学んではいたが、命を奪い合うような戦いの場で用いた事など一度も無い。

 戦国時代ならともかく、現代日本で、剣や弓を使って戦う状況に追い込まれる事など、絶対にあり得なかった。

 ところがアルレインは、自信の無さそうなその言葉を誤解したのか、先ほどまで使っていた弓と矢筒を、あっさりと凛に手渡した。

「王が『花嫁』と呼ぶぐらいだから、おまえが殺される心配はない。
 だが、連れ戻されたくなければ、自分の身はできるだけ自分で守れ。
 この数の猟犬を相手に、おまえを守りきれるかどうかは判らない」

 手渡された弓矢は、見た目の重厚な華麗さのわりには軽く、しっくりと手に馴染む。

 矢筒を肩から斜交いに掛け、凛が弓に矢をつがえた途端、猟犬たちの間から囃し立てるような嘲笑が湧き起こった。

『武器を持った事もないくせに、無理をするなよ、お嬢ちゃん』

『殺すなと命令されているが、王も、多少の傷は大目に見てくれるはずだ。
 痛い思いをしたくなければ、大人しくしてろ』

 無敵と恐れられる猟犬にしてみれば、凛の抵抗など、何もできない赤ん坊が百戦錬磨の戦士に戦いを挑むようなものとしか思えないだろう。

 だが、もともと生真面目な秀才肌で、潔癖性なところもある凛は、それがゆえにプライドも高く、馬鹿にされる事を好まなかった。

 嘲られた途端、恐怖を上回るほどの反発心が芽生える。

 怒りに任せて矢を放とうとした時、指にかかった銀色の弦の感触が、動揺を鎮めて平常心を取り戻せと冷たく囁きかけてきた。

 猟犬たちは凛を見ながら騒々しく騒いでいおり、すぐに襲ってくるような気配はない。

 どうせ何もできるわけがないと、完全に油断しているようだった。

 浅く息を吐いた後で、凛はゆっくりと深呼吸をした。

 背筋を伸ばし、胸郭を開く。

 弓の形状は異なるが、その射法は通じるものがあるはず──。

 弓道場で修練をしている自分をイメージしながら、凛は、姿勢を正して、気力を丹田に収めた。

 日々道場に通ったのは、何事にも動じない不動の心を養いたかったがため。

 どんな状況に陥っても、何があっても、淡々とした平常心で行射できなければならないと、師匠はいつも言っていた。

 いつの間にか身体が滑るように動き、無心の中で、凛は矢を発していた。

 弓から放たれた瞬間、矢尻が鋭く輝く。

 綺麗な弧を描いて飛んだ矢の軌道を見つめていた凛は、その矢が吸い込まれるようにして猟犬の一頭を貫いた時、思わず作法も忘れて快哉を叫んでいた。

「──やった!」

 ところが猟犬の凄まじい絶叫が辺りに轟いた瞬間、鼓動が急速に跳ね上がった。

 凛が射放った矢は、一頭の猟犬の額を見事に貫通していた。

 本当は右目を狙ったはずがわずか左にそれ、ちょうど眉間辺りに突き刺さったらしい。

 苦悶の悲鳴を上げて地面を転げ回った猟犬は、痙攣を起こしながら口から泡を噴き、そのまま動かなくなってしまった。

「……役立たずかと思っていたが、これは意外だな」

 近くに立っていたアルレインが、さも驚いたと言わんばかりに呟く。

 その皮肉げな言葉にムッとなり、凛が言い返そうとした瞬間、アルレインが深い翡翠色の眼差しを向けてきた。

「油断するな──次が来る」

 どうやら、凛の一矢が、猟犬たちを本気で怒らせたらしい。

 殺意が爆発するように膨れあがり、金色の双眸は、残忍極まりない凶暴性でギラギラと光っている。

 人の頭部などひと飲みしそうな大きな口からのぞく牙をガチガチと鳴らし、地獄の底から湧き起こるような不吉な唸り声を発していた。

──と、鮫のような乱杭歯を閃かせ、猟犬の一頭がアルレインに飛びかかった。

 鈍重そうに見える体格のわりに、猟犬は敏捷に高く跳躍し、ひとっ飛びでエルフの青年に襲いかかる。

 アルレインはすいっと滑るように身をかわすと、反転しようとした猟犬に近づき、手にしていた長剣を突き出した。

 狙い違わず剣尖が右目を貫くと、舞踏するがごとき身のこなしで手首をひねり、もんどり打って倒れた猟犬の頭上を跳躍する。

 苦痛の叫びが響き渡った瞬間には、アルレインは別の猟犬と対峙していた。

 凛もまた、アルレインの援護をするように、次々と矢を放った。

 背後を防御するように大木を背にし、襲いかかってくる猟犬たちを狙って弓を構える。

 不思議な事に、凛の放つ矢は、目と口以外に傷を負うことがないと言われている猟犬の身体を射抜くようであった。

 圧倒的に不利な状態が、凛の集中力を高めたのか、飛びかかってくる獣たちの動きがよく見え、次の動作の予測がぴたりと当たる。

 だが、侮っていた凛を警戒し始めた猟犬は、二手に分かれ、じりじりと間合いを詰めるようにして近づき始めた。

 凛を追いつめようとする猟犬は二頭。

 狙いを定めて矢を放っても、彼らもまた凛の動きを見切っているのか、ひらりひらりと左右に飛び移りながら、徐々に距離を縮めてくる。

 接近戦に弓矢がむいていないことを知っているのだろう。

 矢を射かけ、次の矢をつがえる合間に、猟犬は凛を襲うつもりらしかった。

「ディーナ! 近づきすぎるな!」

 アルレインは猟犬に囲まれ、四方から攻撃されていた。

 そんな中でも凛の様子を見ていたのか、警告を発するようにアルレインが叫ぶ。

「そんな事……判ってるよ!」

 じりじりと近づいてくる猟犬から目を離さず、凛は恐怖を振り払うように叫び返した。

(……せめて、剣も借りておけば良かった)

 猟犬の跳躍力があれば、矢を放った次の瞬間には、凛を地面に押さえ込めてしまうだろう。

 どちらに狙いを定めるか迷いながら、凛は後退りをした。

 だが、すぐに踵に大樹の根が当たり、それ以上は後退できないことを悟る。

 まるで猫がネズミをいたぶるように、猟犬は時間を掛けて凛を追いつめようとしているように見えた。

『諦めろ──もう後ろには逃げられないぞ』

『それとも、猿みたいに、木に登ってみるか?』

『そうしたら、下から飛びついて、美味そうな尻の肉を噛み千切ってやる』

 下卑た嘲笑を立てながら、猟犬はわざとらしく地面に座り込んだ。

 もはや獲物に逃げ場はなく、攻撃もできない。

 猟犬たちは、そう考えたようだった。

 額から汗を滴らせながら、凛はぐっと奥歯を噛みしめた。

 アルレインが言っていたように、そして猟犬たちもまた口にしていたように、凛がバルディーズの「花嫁」ならば、殺されるような事はないだろう。

 下手に抵抗をしなければ、傷つけられることもないかもしれない。

 だが、アルレインは──間違いなく、ここで殺される。

 一瞬、弓を手放して降伏しようかと思った凛は、その誘惑を頭から追い払い、強い意思を宿らせた瞳で猟犬たちを睨んだ。

「それ以上俺に近づいたら、二匹まとめて殺してやる」

 感情を抑制した低い声で、凛がそう告げると、二頭の猟犬は途端に喉を鳴らすような唸り声を立てた。

『俺たちを殺す? どうやって?』

『矢がまぐれ当たりしたぐらいで、いい気になるな』

 嘲笑うように問いかける猟犬に、凛は冷淡な口調で応じた。

「天下無敵なはずの貴様らの毛皮を、突き破ったのは誰の矢だった?
 イズリューンの化身だからこそ、俺にその力があるとは思わないのか?」

 思えばこれが、人生で最初のはったりだった。

 だが、凛の言葉は、思った以上に猟犬たちの動揺を誘ったらしい。

 彼らは戸惑ったようにお互いに顔を見合わせ、その隙に、凛は矢筒からもう一本の矢を抜いていた。

 二本の矢を弓につがえ、凛はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「いいか──俺が本気を出して戦えば、貴様らは真っ先にあの世行きだ」

 そしてこれが、人生最大のはったりだと、凛は皮肉っぽく思った。