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妖精王の光環


<14>



 以前の日常生活では考えられない怪物と向かい合ったまま、凛は顔に「無表情」という名の仮面を貼りつけた。

 自分の内面──恐れや怯え、そして考えを、敵に読みとられてはならない。

 二本の矢をつがえ、キリリ……と弓弦を引いた時、猟犬の醜い顔に、初めて緊張と怯えが走ったように見えた。

 二頭の猟犬は、いつでも矢をかわせるように、頭と腰を低く沈め、凛を睨みつけてくる。

 空気がぴんと張りつめ、沈黙に支配された時、一陣の旋風と共に大きな怒鳴り声が響いてきた。

「──アルレイン、ディーナ! 泉の中に飛び込め!」

 それが老魔道師エルダインの声だと、凛が悟るよりも早く、猟犬たちの包囲網を突破したアルレインが、頭上に伸びた木の枝から舞い降りてきた。

 まるで体操選手か、サーカスの軽業師のように、エルフの青年は綺麗に宙返りする。

 地面に足が付いたと思った一瞬後、アルレインは一頭の猟犬に飛びかかり、手にしたサーベルで猟犬の目を抉っていた。

 そのまま素早く手首がひるがえり、剣勢の衰えぬ白刃が、残りの一頭の口腔内に突き通される。

 どっと地面に倒れた猟犬の頭を蹴って、アルレインは後方に高く宙返り、呆然としている凛の前に戻ってきた。

「──来い」

 有無を言わさぬ強さで、アルレインは凛の腰に腕を回し、まるで人形を抱えるかのようにして泉に向かって走った。

 冷酷でありながらも華麗な剣舞に気を奪われていた凛は、はっと我に返った途端、思わず大声で叫んでいた。

「ば…馬鹿、放せ! 俺に触るな!」

「うるさい」

 冷淡な一言を放ったアルレインは、しかし凛の意思を尊重するかのように、ぱっと腕を放してしまう。

 束縛が無くなったと思った途端、凛の身体は泉の中深くに落下していた。

 あっと思った瞬間には、口の中に勢いよく水が流れ込み、凛は慌てて手足をばたつかせた。

 頭上を見上げると、波紋を広げる水面の上で、何かがキラキラと輝いているのが見えた。

 まるで雪が降っているかのような美しい光景に、凛は呼吸が苦しくなってきたのも忘れ、思わず見惚れてしまう。

 しかし、すぐに空気を求める身体の訴えに気づき、凛は水面を目指して泳ぎ始めた。

 ところが、もうすぐ指先が水上に達すると思った時、突然、何かに身体を絡め取られ、凛は再び水の底へと引き戻されていた。

 愕然として両目を見開いた凛は、行く手を阻んだのがアルレインだと判ると、ますます混乱した。

(──いったい、何を……!?)

 息苦しさのあまり、必死になってアルレインの手を振りほどこうとした凛は、その時、水の中まで聞こえてくる大音響に気づいた。

 何かが爆発したような音に続き、水の中にまで衝撃の波動が伝わってくる。

 その音に驚いた凛は、何が起こったのかと問いかけるように、水の中でも美しいエルフの顔を見返していた。

 透き通った水の中で、深い翡翠色の瞳が硬質な輝きを放ち、淡いプラチナブロンドの長い髪が、藻草のように揺らめいている。

 まるで人魚のようだと思い、抵抗するのも忘れて、凛はアルレインを見つめていた。

 すると、アルレインの端麗な顔が、視界を遮るかのように近づいてきた。

 頭部を引き寄せられ、それを怪訝に思うより先に、唇に柔らかな感触が当たる。

(……な…に?)

 度重なるショックで、さすがに頭脳も回転を鈍らせているのか、凛はとっさに状況把握ができなかった。

 だが、わずかに開いていた口の中に、優しい吐息を吹き込まれると、頭が次第に活性化してくる。

 アルレインに口づけされていると悟った瞬間、凛は瞼を瞬かせ、自分を抱き締めている男の肩をつかみ、必死で押しのけようとした。

 アルレインは、身を捩らせながらもがく凛を片腕の中に封じ込め、もう片方の手で、逃れられないようにがっちりと後頭部を押さえている。

 それから数分後、ようやく泉から顔を出した凛は、すぐ傍に浮かび上がったアルレインの美貌を、思い切り平手打ちにしていた。

「──お、おまえ……いったい、どういうつもりだ!」

 いきなりの出来事に動揺していた凛は、ようやくスムーズに呼吸できるようになった事もあり、顔を真っ赤にしたまま怒鳴りつけていた。

 自分を毛嫌いしているはずのアルレインに、まさかキスをされるとは思いもしなくて、凛の理性はガタガタに混乱していた。

 ところがアルレインは不機嫌そうに眉根を寄せ、この上無く冷淡な声で言った。

「呼吸ができずに苦しそうにしていたから、手助けをしてやっただけだろう。
 あのまま顔を出していたら、お前も猟犬どもと同じ目に遭っていたのだぞ。
 おまえに打たれる理由は、何も無いのだがな」

「……手助けだって?」

 その返答に戸惑った凛は、アルレインの指が示す方向に首を巡らせ、そこに広がる光景を目の当たりにすると、唇を開けたまま言葉を続ける事ができなくなった。

 森の中には、驚くべき光景が出現していた。

 凛たちを襲っていた猟犬たちが、まるで北極か南極の氷山に氷漬けにでもされたかのように、透明な氷の中に封じ込められていたのである。

 天に向かって聳える氷柱は、まるで水晶の結晶のような形をしており、あたかも琥珀の中の昆虫のように、猟犬たちを呑み込んでいるのだった。

「アルレイン、ディーナ! おまえさんたちは、無事だったか!」

 泉から顔を出した二人に気づいたのか、結晶の間を歩いていたエルダインが、嬉しそうな表情で叫んだ。

「……エ、エルダイン……これは、一体……?」

 泉の中心部から岸辺へと近づいた凛は、にこにこと笑う老魔道師に問いかけた。

 エルダインは少し自慢顔で胸をそらし、作品を披露するかのように氷柱群を示した。

「なに、妖精王からいただいていた魔水晶の粉を、ほんの一振りな。
 さすがの猟犬どもも、まさか自分たちが食われるはめになるとは思わなんだろうよ。
 まあ……生き物なら見境がないから、使い方を誤ると厄介なんじゃが」

 刈り込まれた白い顎髭を撫でながら、エルダインはおかしげに笑った。

 エルダインの説明を補足するように、アルレインが続けて言った。

「魔水晶の粉が身体に付着すれば、あっという間に水晶の中に閉じ込められる。
 エルフだろうと、人間だろうと、他の動物であろうと、血の通う生物であれば、どんなものでも養分にして水晶は育つゆえ。
 だからこそ、水の中で、魔水晶が育ちきるのを待ったのだ」

「……生き物を……食べる水晶?」

 呟くような声で凛が問い返すと、エルダインは肯定するようにうなずいた。

「魔水晶は、扱いが難しい上、滅多に手に入らぬ貴重品なんじゃ。
 イルダールに乗り込むならば、猟犬に追われるのは目に見えておったからな。
 通常の武器や魔法で奴らを倒すのは難しい。
 となれば、どうにか奴らをやっつける方法を考えねばならんじゃろう?
 使わずに済めば、それに越した事はなかったが──まあ、後ろを気にしながら逃げるのは、儂の性に合わんからな」

 嬉々とした表情で説明するエルダインと、冷静沈着な表情のアルレインを見比べていた凛は、思わずくらりと眩暈を感じた。

「──前もって、言っておいてくれれば……」

 極度の不安にさらされることも、アルレインをひっぱたくことも無かっただろう──。

 少し恨めしげな口調で凛が言うと、エルダインは気にした様子もなく笑った。

「敵を欺くには、まず味方からと言うじゃろう。
 猟犬対策の秘策であったし、こんなに早く使うことになるとは、儂も思わなかったんじゃ。
 いずれにしても、これで少しは気楽に旅が続けられる」

 その後、エルダインは、ふと気が付いたように凛とアルレインを見つめた。

「──なんじゃ、おまえさんたち、びしょ濡れじゃないか。
 早く着替えをせんと、風邪を引くぞ」




 パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、凛はぼんやりと炎を見つめていた。

 泉に飛び込んで濡れてしまった衣服は今、木の枝に掛けて干されている。

「魔法でぱぱっと乾かせばいいじゃないか」と提案してみたが、凛のその意見は、あっさりとエルダインに却下されてしまったのだ。

 魔法というのは、そう簡単に使えるものではないらしい。

 そのため、着る物を失った凛は、裸体の上からマントにくるまったまま、焚き火を見つめて座り込んでいるのであった。

「おまえさんも泳いでくればどうかね?」

 炎の中に新しい薪をくべながら、エルダインがそう言った。

「遠慮しておきます。アルレインが水浴びしてるし……」

 誤解したままひっぱたいた事を、凛はまだアルレインに謝っていなかった。

 しかし理由はどうであれ、アルレインとキスをした事は確かなのだ。

 どんな顔をして謝ればいいのか判らず、気まずい思いを抱えたまま、凛は何度目か判らないため息をついていた。

「別にアルレインは気にせんじゃろう」

「俺が気にするんです──人前で、裸で泳ぐなんて……」

 むっつりとした表情で凛が答えると、エルダインはおかしげに笑いながら、泉の方を振り返った。

「見かけによらず、おまえさんは初じゃのう。
 エルフたちにしてみれば、服を着ていようと、いまいと、気にするような事じゃないと考えておるはずじゃがな。
 エルフの里では、みんなそろって、裸で水浴びをしておるよ」

 エルダインの言葉を聞いて、凛は納得してしまった。

 アルレインが非常識なまでにデリカシーの無い男かと思っていたが、どうやら根本的な常識が違うらしい。

 人前で裸体をさらす事を、凛は恥ずべき事だと考えているが、アルレインたちエルフにとっては日常的な事で、別に隠すような事ではないらしかった。

(──所変われば、常識も変わるっていうことだよな……)

 深いため息をついた凛は、これから先に待ち受ける未来を思い、思わず鬱々とした気分に陥ってしまった。