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妖精王の光環


<19>




 妖精王アルヴァールは、エルフ王以外はその背に乗せないという誇り高き水妖馬の戦車を、アルレインの傍らに近づけた。

 宝石細工のように美しい水妖馬であったが、あたかも肉食獣のような鋭い牙を備えているため、アルレインの白馬が怯えたように鼻を鳴らす。

 姿形は似ているとはいえ、全く別種族である水妖に対しては、本能的に恐怖を感じるのか、天馬の子孫である白馬は水際で後退りをし始めた。

 それを宥めるように、アルレインが首筋を軽く叩いてやると、白馬は両目をぎょろつかせながらも、その場に踏みとどまる。

「アルレイン──そなたも、そなたの馬も、長旅で疲れているだろう。
 その者は吾(われ)が預かるゆえ、そなたは後からゆっくりと戻ってくるがいい」

 父でもある妖精王の言葉を聞いた瞬間、アルレインの心に不可解な躊躇いが生まれた。

 腕の中で意識を失いかけている存在を見下ろし、すぐにその理由に思い当たる。

「……この者は、すでにバルディーズ王によって穢されております。
 我が君のお手を汚すことはできません」

 アルレインとさほど年齢が変わらぬように見える若々しいアルヴァールは、美しい紺碧の瞳を凛に向け、深く憐れむように言った。

「この者が望んだ事ではあるまい?
 今のバルディーズの魔力に、いったい誰が逆らえるであろうか。
 我らが同胞もまた、望まぬ凌辱を受け、命を失ってゆくというのに……」

 憂えるように瞼を閉ざしたアルヴァールは、銀の戦車の上から両腕を伸ばした。

「アルレイン──この者は、我々の世界が引き起こした悲劇の、被害者であることを決して忘れてはならぬ。
 エルダインによれば、バルディーズはこの者に執着を見せているという。
 ならば我々は、かの者の手から守ってやらねば」

 父王の言葉に頭を垂れたアルレインは、腕の中の重みをアルヴァールに手渡し、温もりの去った拳を握りしめた。




 夢と現の境を彷徨っている時、凛は、自分を探している空我の声を聞いた。

 必死の凛の名前を呼ぶ空我の声には、悲愴感が漂っており、どうしてそんなに悲しんでいるのかと不思議に思えるほどだった。

(凛……凛! おまえはどこにいるんだ?)

 ほとんど泣き声にすら聞こえる空我の呼び声に、凛は思わずくすりと笑った。

(そんなに心配しなくても、まだ生きてるから大丈夫だよ)

 非常に不可解な状況に陥ってはいるが、エルダインやアルレインという協力者がいるのだから、まだ絶望的とまではいかないだろう。

 そう思いながらゆっくりと瞼を開いた凛は、見上げている天井が、ひどく豪華で立派である事に気づいた。

「……宿屋にしては、立派すぎるな」

 アルレインと一度泊まった街道沿いの宿は、そこそこに清潔ではあったが、非常に素朴で質素だった。

 それに比べると、浮き彫り模様で装飾された真っ白な天井は、どこかの宮殿と言われた方が納得できるほど壮麗である。

 思わず感想を口に出した時、すぐ近くで人の気配が静かに動いた。

「やっと気がつかれましたね」

 聞いているだけで安堵するような、優しく穏やかな声の持ち主は、はっと目を奪われるほど美しい女性だった。

 柔らかな光を宿すプラチナブロンドの髪は、繊細で複雑な形に結い上げられて背中に流され、銀色のティアラで飾られている。

 その瞳はヒアシンスのような淡い青紫色で、静穏な慈愛に満ちていたが、どこか悲しげにも見えた。

 古代ギリシャのトーガを思わせる白いロングドレスには、様々な宝石や金糸銀糸で優雅な装飾がほどこされていたが、決して派手に見えすぎることはなく、むしろ彼女の清楚な美しさを引き立たせている。

 あたかもギリシャ神話の女神のごとき美女の出現に、凛は誰何することも忘れ、ただただその美貌に見入っていた。

「おはようございます、ディーナ様。
 わたくしの名はレウィーナと申します。
 あなた様のお世話をするようにと、我が君から命じられておりますゆえ、何なりとお申し付けくださいませ」

 にこりと微笑んだレウィーナは、目も覚めるような美女ではあったが、アルレインのような取っ付きにくさはなく、むしろ人懐っこい少女のような雰囲気があった。

「あ……あの、ここは、どこでしょう?」

 少々馬鹿げているような質問を発した凛は、驚いたようなレウィーナの様子を見て照れくさくなり、思わず視線を逸らしていた。

 しかしレウィーナは涼やかな声で問いに答えた。

「ここは<常春の森>の中にある、妖精王のお城<翠晶宮>です。
 もう少しお元気になられたら、わたくしがお城の中をご案内しますね。
 アルヴァール様がお連れになって以来、あなた様は三日三晩、眠り続けておられたのですよ。
 よほどお疲れになられていたのですね」

 レウィーナの言葉に驚き、ベッドの上から起きあがろうとした凛は、途端に全身の節々が鈍い痛みを発することに気づいた。

 アルレインに、荷物のように扱われた事を思いだし、凛は思わず低く唸った。

「アルレイン……あいつ、今度会ったら、もう一回ひっぱたいてやる」

 その名を呼んだ途端、レウィーナの白い頬がぽっと赤らみ、慌てたように凛の背中を支えて上半身を起こさせた。

「若殿も何度かいらっしゃったのですよ。
 もちろん、アルヴァール様や、エルダイン様も……」

 手際良くクッションを整えて、居心地のよい背もたれを作り出したレウィーナは、寝乱れた長い黒髪を梳かそうとしてブラシを取り上げた。

 お姫様のような扱いに戸惑い、まして心臓の鼓動がおかしくなるような美女に世話を焼かれることにも慣れていない凛は、彼女の白い繊手が身体に触れた途端、慌てて身を引いてしまっていた。

 困惑したようなレウィーナの眼差しに、猛烈な罪悪感を感じ、凛は曖昧に微笑んだ。

「あ、あの……自分で梳かすから、大丈夫です。
 それより、エルダインもここにいるんですか?」

「はい、あなた様がお目覚めになるのを、ずっと待っていらっしゃいます。
 お目覚めになり次第、我が君も、エルダイン様も……若殿も、お会いしたいと」

「じゃあ、すぐに会います」

 自分の身に起こった出来事を、早く妖精王やエルダインから説明してもらいたいと思い、凛はベッドから下りようとした。

 ところが、一瞬、ヒアシンス色の瞳を瞠ったレウィーナが、慌てたように首を横に振り、凛をベッドに押し留めた。

「いけません、ディーナ様。
 まずは湯浴みをされて、お着替えをなさってくださいませ。
 そのようなお姿で王にお会いになられては、わたくしが叱られてしまいます」

 決然とした眼差しで凛を見つめ、にっこりと笑ったレウィーナの美しい笑顔は、何故か凛の心に一抹の不安を呼び起こした。



 そこから先の出来事は、凛にとってはまさに悪夢としか言いようがなかった。

 湯気を立てる美しい大浴場に案内された時は、やっとまともな風呂に入れると思い、気分が昂揚した。

 ところが、凛が着ていたネグリジェのような寝間着を、レウィーナが脱がせようとした時、凛の頭は一瞬真っ白になった。

 なんとか丁重にお断りをし、一人で湯船に浸かった凛は、どっと疲労が押し寄せてくるのを感じたが、次の瞬間、完全に思考がフリーズした。

 なんとレウィーナが、優雅なロングドレスを太股のところまでたくし上げながら、裸足で凛に近づいてくる。

「レ…レ……レウィーナさん!?」

「せめて、御髪だけでも洗わせてくださいな。
 でなければ、わたくしは、何のためにここにいるのか、判らなくなってしまいます」

 哀婉を帯びたヒアシンスの瞳で見つめられ、今にも泣き出しそうな声で懇願されると、凛は身動きもできずに顔を引きつらせるしかなかった。

 男ならば、この展開は喜ぶべきなのだろう。

 しかし、今の凛は、本来の姿からはほど遠い姿に変身しており、さらに肉体的な女性関係とは縁遠かったということもあって、どう反応して良いのか判らなかった。

 顔を真っ赤にして、口を金魚のようにぱくぱくと開閉しながら動けないでいると、レウィーナは全く気にした様子もなく、凛の傍らに跪いた。

「気を楽にして、向こう側をむいていてくださいね」

 全身を硬直させたまま、レウィーナのなされるがままになっていた凛は、繊細な指先が頭皮を優しくマッサージし始めると、さすがに観念して力を抜いた。

(やっぱり、アルレインが恥知らずってわけじゃなかったんだな……)

 エルフ族というのは、日本人とは違う羞恥心を持っているのだろうと思い、凛は内心で盛大なため息をついた。

 しかし、諦めてみると、他人に頭を洗ってもらう気持ちよさに、眠気が襲ってくる。

 信じられないほど長く伸びた黒髪を、どう扱って良いのか判らなかっただけに、手間が省けたことは不幸中の幸いと言えるのかもしれなかった。

(空我だったら、きっと羨ましがるんだろうな)

 瞼を閉ざしていると、男らしく整った空我の顔が思い出され、凛はくすりと微笑んだ。

 髪を洗い終えたレウィーナは、今度は身体を洗うと言い出したが、それに関してはきっぱりと断った。

 ただでさえ痩せていて見栄えのしなかった体格であったのに、ますます細く華奢になってしまった自分の身体を、妙齢の美女に見られたくはない。

 レウィーナが置いていってくれたバスタオルのような大判の布を、変わり果てた自分の身体に巻き付けて風呂場から出た凛は、着替えとして置かれたドレスを見た途端、貧血を起こしたように目の前が真っ暗になるのを感じた。

 それは、レウィーナが着ているドレスよりも、さらに凝った刺繍や装飾が施されたドレスであった。

 しかし着替えの手伝いを断ったために、その場にレウィーナの姿はなく、別の物を持ってきて欲しいと頼むこともできない。

(……エルフっていうのはきっと、あんまり男女を区別しない種族なんだろうな)

 ギリシャ神話の世界でも、男神も女神も似たような格好していたと自分をなぐさめつつ、凛は芸術的なまでに美しい衣裳を身に纏った。

「まあ、とてもお綺麗ですわ。よくお似合いです」

 凛の姿を見て、自分の事のように喜んだレウィーナは、さらに上から腰帯や飾り帯をと着付けていく。

 首飾りや腕輪といった装飾品で飾り立てられ、長い黒髪を複雑な形に結い上げられる頃になると、凛はぐったりと疲れ果ててしまった。