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妖精王の光環


<2>



 シートベルトサインが点灯し、着陸体勢に入ったという機内アナウンスが流れた。

 小さな窓に貼り付くようにして、どんよりとした雲の合間に見える風景を見下ろしていた凛は、興奮を隠しきれない声で、隣の席で居眠りをしていた空我に話しかけていた。

「──見ろよ、空我。ロンドンに着いたぞ」

 音楽を聴きながら瞼を閉ざしていた空我は、薄目を開けて、無邪気に喜んでいる凛を見返した。

「ああ……落っこちずに、無事に着いて良かったな」

「そうじゃなくてさ──ほら、見ろよ。ビッグベンが見えてきた!」

 どうやら友人と感動を分かち合えないと察した凛は、それでも気分を害する事なく、子供のようにはしゃいでいた。

 そんな凛に流し目を送った空我は、広い胸郭に深く息を吸い込み、周囲の人が驚くほど大きなため息をついた。

「元気だな、お前。俺は一睡もできなかったっつーのに」

「え? だって、お前だって寝てたんじゃないのか?」

 意外な言葉を聞いて、凛は大人しくシートに身を沈めた。

「何度も眠ろうとしたけど──お前が思いっきり寄りかかってくるから、寝るに寝られなかったんだよ。
 一人で気持ちよさそうに、くーくー眠りやがって……」

 そう言われてみると、いつもは涼やかな空我の目許に、うっすらとくまが出来ている。

「それは悪かったけど、重かったなら、俺を起こせば良かっただろ?」

 責められるのは心外だというように言い返すと、空我は胡乱な眼差しを凛に向け、諦めたように嘆息した。

「重かったとか……そういう理由じゃないんだけどな」

 空我が呟いた直後、飛行機はヒースロー空港の滑走路に進入し、二人の会話はそこで中断した。




 イギリスの玄関口であるヒースロー空港に降り立った凛と空我は、無事に入国審査を終え、成田で預けておいたスーツケースを受け取った。

「さてと──叔父貴が迎えに来てるはずなんだけどな……」

 機内でげっそりとやつれていたのが嘘のように、地上に降りた空我の動作は生き生きとしていた。

 物珍しげに周囲をきょろきょろと見回している凛の腕をつかんだまま、空我は到着ロビーの人混みをぐるりと見渡す。

 背の高い空我は、長身の外国人が多い雑踏の中でも埋もれる事なく、堂々としていた。

「いいなあ、お前──背が高くて……」

 日本では人並みだと思っていたが、いざ外国に来てみると、自分の背がいきなり縮んだかのような錯覚を覚える。

 思わず呟いた凛を見下ろし、空我は少し驚いたように双眸を瞠った。

「何言ってんだ、お前はお前だろ?
 それより、人が多いからはぐれるなよ。
 クリスマス休暇で、普段以上に混み合ってるからな」

 その時、ツアー客らしい団体の向こうから、空我の名前を呼ぶ男が近づいてきた。

「空我! 悪い、遅くなった!」

 銀色の眼鏡をかけ、理知的な顔立ちをした彼は、体格こそ細身であるものの、驚くほど空我に似ていた。

「──和磨(カズマ)さん!」

 応じるように手を挙げた空我は、凛の腕を引っ張って自分の方に引き寄せる。

 思わずよろけそうになった凛は、軽く友人を睨んだ後で、空我の叔父だという三十代後半ぐらいの男を見つめた。

 彼は凛ににこりと笑いかけると、紳士的に握手を求めてきた。

「初めまして。空我の叔父の、仙崎和磨です。
 空我がいつもお世話になっているようですね──どうもありがとう」

「こちらこそ、初めまして──白神凛です。
 今回の旅行で、いろいろとお手数をお掛けしたようで、申し訳ありませんでした。
 感謝しなければいけないのは、僕の方です──本当にありがとうございました」

 和磨の手を握った凛は、そう挨拶をして、礼儀正しく頭を下げた。

 背筋がぴんと伸びた、綺麗なお辞儀を見た和磨は、おやと言うように目を瞠ると、形の良い唇に淡い微笑を浮かべた。

「ひょっとして、何か武道をやっているの?
 今時の若い子にしては珍しいくらい、きちんとした挨拶ができるものね」

 ずっと握られたままの手に困惑しながらも、凛は明るい笑顔で応じた。

「はい。実家が弓道の道場を開いているので、ずっと弓を引いています。
 あとは剣道と……合気道を少し」

「それは凄い──こんなに綺麗なお嬢さんなのに、武芸に秀でて強いんだ。
 絶滅寸前の大和撫子って感じだね」

 和磨の言葉を聞いた瞬間、凛は思わず違和感を覚えて眉根を寄せた。

(……お嬢さん? 大和撫子?)

 その時、凛の手を離さない和磨に痺れを切らし、空我が強引にその手を引き離した。

「和磨さん! 何を勘違いしてるか知らないけど、こう見えても、凛は生粋の男だぜ。
 それに、凛は俺の大事な……ヤツなんだから、絶対に手ぇ出すなよ!」

 一瞬、口ごもった空我を見返し、和磨は「ふ〜ん」と呟いて謎めいた微笑を浮かべた。

「判った──大事な甥っ子の大切なお友達だから、諦めるよ。
 さて、疲れただろうから、まずはホテルに移動しよう。
 車を待たせてあるから、僕に付いてきて」




 ヒースロー空港から約一時間をかけて、車はロンドン市内の中心部へと到着した。

 和磨が迎えに寄こした車は、運転手付きのロールスロイスで、ダウンジャケットとブルージーンズというカジュアルなスタイルをしていた凛は少々気後れしてしまった。

 空我も似たような格好だったが、特に気にした様子も無く、和磨と仲良く話している。

 ところが、メイフェアにあるホテルに到着した時、凛はさすがに硬直してしまった。

 ホテルの名前は「グロブナーハウス」──ロンドンでも有名な五つ星ホテルである。

「今日はゆっくり休んで、もし良ければ、明日の夜は一緒に食事をしよう」

 フロントでチェックインを済ませた和磨が、ルームキーを空我に渡しながらそう告げた。

「まあ、予定が合えば連絡するよ。
 凛がすぐにストーンヘンジに行きたければ、そうするし……」

「ストーンヘンジねえ──何も無い所だよ、遺跡以外は。
 それよりはロンドンで遊んでいた方が面白いと思うけど」

 怜悧な眼差しを凛に向け、和磨はにこりと笑った。

「旅行の目的が、ストーンヘンジを見ることだったので。
 ──でも、時間はあるから、ロンドン観光も絶対にしますよ」

 曖昧な微笑みを浮かべて和磨を見返した凛は、ふと困惑したように首を傾げた。

「あの……まさか、こんなに良いホテルに泊まることになるとは思わなかったから、ジャケットとかネクタイとか持ってきてないんです。
 ちゃんとしたレストランとかだと、まずいと思うんですが──」

 すると和磨は空我に揶揄するような視線を向け、苦笑しながら肩をすくめた。

「どうやら、君は何も聞いてなかったらしいな。
 驚かせてしまってすまなかったね──お詫びに、ちょっと早いけどクリスマスプレゼントを贈るよ。
 だから、ジャケットとかの事は、気にしないで 」

「和磨さん、それはいいって──俺が……」

 空我が慌てたように口を挟むと、和磨はにやりと笑って、甥の逞しい肩を軽く叩いた。

「頑張れよ、空我──なかなか手強そうだからな。
 では、お二人さん、どうぞ楽しいロンドンライフをお過ごしください」

 意味深な言葉を残し、和磨は手を振りながら立ち去っていった。

 その後ろ姿を見送っていた凛は、じろりと空我を睨み上げた。

「空我──これは一体、何の冗談なんだ?
 俺は一言も、五つ星ホテルに泊まりたいなんて、言わなかったよな?」

 気まずそうに、豪華な天井に視線を彷徨わせていた空我は、なだめすかすように凛の背中を叩いた。

「まあ、気にするなって──叔父貴が勝手に誤解して予約したんだから、ホテル代に関してはノープロブレムだ。
 せっかくの五つ星なんだから、楽しもうぜ」

「俺は……何だか、逆に居心地が悪くて、気が滅入ってきた」

 社長令息の空我とは違い、先祖代々続く弓道場を営んでいる凛の実家は、いたって質素堅実だった。

 家屋も純和風の平屋であるため、豪華なヴィクトリア調インテリアの中では、気が全く落ち着かない。

 場違いという言葉がぴったりであり、このホテルはどう考えても分不相応に思えた。