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妖精王の光環


<3>



 空我に引っ張られるようにして、凛はエレベーターから連れ出された。

 ところが、案内された部屋に入った途端、凛は思わず眩暈を起こしそうになった。

 クラシカルで上品なインテリアでまとめられた部屋は、映画に出てくる貴族や大富豪が過ごすような華麗なものであり、一庶民でしかない凛には、土足で歩き回ることすら躊躇われるほどだった。

 上品な透かし柄が入ったオフホワイトのリネンに覆われたベッドには、いくつものクッションが置かれ、女の子が泣いて喜びそうな乙女チックな雰囲気が漂っている。

 しかし──どうしてベッドが一つしかないのだろう?

 いたって素朴な疑問を覚え、凛は、荷物を片づけている空我に質問した。

「なあ、空我……どうして、ベッドが一つだけなんだ?」

 ダウンジャケットを脱いで身軽になった空我は、ゆったりとした足取りでベッドに近づくと、じっくり観察するように見下ろした。

「確かに、一つしかないな。
 ──実は、クリスマスシーズンでどこのホテルも満室で、ツインが取れなかったんだ。
 だから、ここのジュニアスイートダブルになったわけなんだが……」

 徐々に引きつれていく凛の顔を見つめ、空我はわざとらしく明るい笑顔を作りながら、人差し指でこめかみを掻いた。

「──……つまり、今夜から、俺はお前と、このベッドで一緒に寝るというわけか?」

 日頃よりワントーン下がった低音で、凛が問い返す。

「そういうことだな。まあ、いいじゃないか──こんなに広いんだから」

 軽くベッドを叩きながら、空我がそう言った瞬間、凛はくるりと踵を返した。

 そのままスーツケースを取り上げ、足早にドアに向かおうとすると、空我が慌てたように先回りしてドアの前に立ちはだかった。

「邪魔だ、どけ」

 冷淡に告げた凛を見下ろし、空我が懇願するように両手を合わせた。

「黙ってて悪かった──でも、この通りだから、機嫌を直してくれ。
 今日の夕食は、おまえの好きな物、何でも奢るから」

「お前じゃあるまいし、食い物で釣られると思ってるのか?
 大体、ホテルが満室だった時点で、どうして俺に相談しないんだよ。
 何でもかんでも、勝手に決めるな、このバカ!」

 語気荒く凛が怒鳴ると、空我は大きくため息をついてガリガリと頭を掻いた。

「俺だって、ついさっき和磨さんから聞いたんだよ。
 ──だけどなあ、お前、そんなに俺と寝るのが嫌なわけ?」

 真剣な顔でそう問い返されると、凛は言葉を詰まらせてしまった。

「そ……それは、気持ち悪いだろ、普通……男同士で?」

 空我は少し考えるように目線を天井に向けると、否定するように首を横に振った。

「俺は気持ち悪くない──少なくとも、お前だったら全然平気」

「──……寝相悪かったらどうするんだよ?」

「凛だったら、殴られても、蹴られてもそんなにダメージ食わないから大丈夫。
 あ、俺の寝相は良いぞ──付き合ってた彼女たちから、クレーム来たことねぇし」

 空我の返答を聞いていると、次第に拘っている事が馬鹿馬鹿しくなり、凛は嘆息をもらして額を押さえた。

「相手が可愛い女の子ならともかく、何を好きこのんで、ゴツい男同士でダブルベッドに寝なきゃいけないんだか……」

「俺はゴツいけど、凛はゴツくないだろ? 
 むしろ、その辺のネエちゃんたちより美人だぜ。
 和磨さんも見惚れてたし──だから、俺がここにいるんじゃねえか」

 太く逞しい両腕を組んで、空我が自分の言葉に納得したように何度もうなずく。

 そんな友人を、凛はギロリと冷たく睨んだ。

「うるさい、黙れ。
 ──いいか、空我。ちょっとでも俺を蹴飛ばしたら、即刻、床に突き落とすからな」

「はいはい、判りましたよ、王子様」

 凛に強く睨まれた空我は、仕方なさそうに肩をすくめ、投げやりな口調で応じる。

 しかしその後で、空我がしたり顔で舌を出していた事など、荷物を片づけ始めた凛が気づくことはなかった。



 ソーホーにある中華街で少し早めの夕食を食べ、その後、凛と空我はロンドン随一の繁華街として有名なピカデリー・サーカスをぶらぶらと歩いていた。

 ネオンサインと猥雑なまでの活気に満ちたピカデリー・サーカスには、日本人と思われる観光客も多く見られる。

 交叉点にはTDKの大きな看板が立ち、その前には「エロスの像」と呼ばれる美しい彫像が翼を広げていた。

 ピカデリー・サーカスの中心で羽ばたくエロス像を見上げていた空我は、凛に「どっちに行く?」と訊ねるように道路を指差した。

 芯まで凍えるような寒風に身体を震わせた凛は、風を遮る壁にするべく、背の高い空我の横に並んだ。

「……寒くて死にそう。カフェかバーに入らないか?」

 父親の仕事柄、ロンドンには何度も来たことがあるという空我は、驚くほど優秀なガイドだった。

 その快適さに、ホテルでの一悶着をすっかり忘れていた凛は、身をすり寄せるようにしてハンサムな友人の顔を仰ぐ。

 青ざめた凛の顔を見下ろした空我は、抱き寄せるように凛の肩に片腕を回すと、明るく笑いながら歩き出した。

「おいおい、しっかりしろよ、凛。
 ストーンヘンジなんて、風を遮る物も何もないような所にあるんだぜ。
 このぐらいでめげてたら、向こうに行った時に凍死するぞ」

「……ちょっと冬のイギリスを甘く見てたかも。
 緯度だって北海道ぐらいだし、気温がマイナスになることは滅多に無いって聞いてたんだけどな」

 旅行前に調べておいた情報を思い出しながら、凛はふうっと白く曇った息を吐いた。

「最低気温は東京と同じぐらいだから、札幌よりはマシだろ。
 それより、せっかくロンドンにいるんだから、パブでビールでも飲んで行こうぜ」

 寒さのあまり、男同士で密着している違和感を忘れていた凛は、空我に肩を抱かれたまま、道路沿いにある一軒のパブに足を踏み入れていた。



 グロブナー・ハウスに戻ったのは、時計の針がちょうど十二時を指した頃だった。

 ビッグベンと名付けられた国会議事堂の時計塔が、凍りついた夜気の中に、澄んだ鐘の音色を響かせている。

 空我によれば、交通渋滞が激しいロンドンでは、車の騒音で鐘の音が掻き消されてしまうため、鐘の音が聞ける場所は案外と限られているらしい。

 しかし、真夜中という時間帯と、ハイド・パークやセント・ジェームズ・パークといった公園が近いせいか、美しい鐘の旋律はしっかりと凛の耳に届いた。

 ホテルの部屋に戻り、豪華で広々としたバスルームでシャワーを浴びていた凛は、洗面台の上部に埋め込まれた壁一面の鏡に、自分の姿が映っている事に気づいた。

 もともと、血管が透けるほどに白い肌をしているせいか、アルコールで火照った身体は淡い薔薇色に染まって見える。

 空我に連れて行かれたパブで、エール、ビター、ギネス、ラガーといった4種類のビールを飲み比べてみようと、二人はそれぞれを一パイントずつ注文した。

 さらにはジンや、リンゴで作られたサイダーという酒も飲んだものだから、もともとあまりアルコールに強くない凛は、見事に酔っ払ってしまったのだ。

 一方の空我は、ラグビー部で鍛えられている上に、元々がうわばみ並みの大酒飲みときている。

 凛が飲みきれなかった分は、全て空我の胃袋に吸収されていったのだが、本人は顔色も変えずにけろっとしていた。

 ビールを飲んだせいで、凍えていた身体は確かに温まったが、今度は身体が熱く火照りすぎて、眠れそうにない。

 小さくため息をついてバスタブから出た凛は、バスタオルで濡れた身体を拭きながら、鏡に映っている自分の顔をじっと見つめた。

──凛と父親を残して出ていった母親そっくりの、誰からも美しいと言われる顔。

 自由奔放な生き方を望んだ凛の母は、妻や母親として生きるよりも、一人の女として生きることを選んだ。

 次々と恋人を取り替え、社会のモラルなど関係無いというように、彼女は自宅に男たちを引っ張り込んでいた。

 サラリーマンをしていた父親は、その事に気づいていなかったが、日中、寝室から漏れ聞こえてくる母親の獣じみた嬌声を、凛は幼い頃からずっと聞いていた。

『もし、凛が喋ったら、お父さんもお母さんも凛も、みんなが不幸になるのよ。
 凛が黙っていれば、みんなが幸せに暮らせるの。
 だから、絶対にこの事をお父さんに言ってはダメよ』

 毎日繰り返し聞かされていた母親の言葉が、やがて、黒い呪縛のように凛の心を苛み始める。

 表情を失い、言葉数も少なくなっていく息子を心配した父親が、実家である白神家の弓道場に凛を通わせ始めたのは、ちょうどその頃からだった。

 しかし母親の淫行は、ついに父親の知れるところとなり、「幸福」な家庭は崩壊する。

 極度の人間不信に陥った父親は、凛を実家に預けたまま、その後行方知れずとなった。

 祖父母は必死で息子の行方を捜索したが、凛の父親はいまだに見つかっていない。

 どこでどう暮らしているのか、生きているのか死んでいるのかさえ判らないのだ。

 幸福の幻想が崩れ去った時、凛は誓った──強くなろうと。

 誰からも愛されなくても、誰も愛せなくても、たった一人で生きていけるように、誰よりも強くなろうと……。

 祖父を師と仰ぎながら弓道に精進する一方で、さらに精神や肉体を鍛えるために、凛は剣道や合気道も学んでいった。

 どれほど鍛えても肉体が逞しくなることは無かったが、華奢にすら見える痩身の内側には、しなやかで強靱な筋肉が秘められている。

──母親のような浅ましい肉欲を捨て、感情よりも理性を重んじ、決して情に流される事なく生きて行く。

 何度もそう自分に言い聞かせているというのに、鏡に映る自分自身には、魔性の美しさと艶めかしさを持っていた母親の面影が色濃く残っている。

 鏡を見るたびに苛立ちは募り、それゆえに、凛は滅多に鏡を見なくなっていた。