Rosariel.com
妖精王の光環


<8>



 儚く震える美しい声が、神聖な空間に響き渡り、途絶える。

 まるで息絶えたかのように気を失った黒髪の美神の内から、バルディーズはゆっくりと己自身を引き抜いた。

 柔らかく包み込まれるような優しい胎内に、いつまでも浸っていたいという未練はあったが、これは儀式でしかないのだと彼は理性で切り捨てた。

 神代の時に異国から運ばれてきたという聖黒石の祭壇から、バルディーズが床に降り立つと、王室付きの魔道師ダージルが傍らへ進み寄ってきた。

「バルディーズ様──どうぞ、こちらにお着替えください」

 目深に頭巾をかぶったまま深く頭を下げたダージルは、銀の盆に載せられた眼帯と衣裳を、王の前へと差し出した。

 人を死に至らしめる邪眼を隠すべく、バルディーズは白銀で作られた眼帯を取り上げる。

 禍々しい赤光を放っていたバルディーズの左眼が、魔封じの眼帯で覆われると、ようやくダージルは顔を上げた。

 この日のために用意されていた真新しい装束を、国王が淡々と身に着け始めると、灰衣の魔道師は恭しく手伝い始めた。

 毛ざわりの良い白貂の毛皮で縁取られた漆黒のマントを、王の背後からダージルが着せ掛けようとした時、バルディーズはゆっくりと首を横に振った。

 ダージルは怪訝そうに、一瞬眉根を寄せる。

 魔道師からマントを受け取ったバルディーズは、乱れた白絹の敷布の上にぐったりと横たわっている麗人に近づいた。

「ダージル──儀式の証を」

 バルディーズの背丈に合わせて作られたマントは丈長いため、壊れそうなほどに華奢で小柄な黒髪の麗人は、マントにすっぽりと覆い隠されてしまう。

 細くたおやかな白い裸体をマントで包み、両腕で抱き上げたバルディーズは、敷布の上に飛び散った真っ赤な血に視線を止めた。

 それは紛れもない処女の血──男を受け入れたことの無い純潔の秘花を、バルディーズの楔が容赦なく引き裂き、奥宮へと突き進んだ証だった。

 肉を裂かれる激痛に歪んだ美貌、可憐な唇から放たれた苦痛の悲鳴──。

 感情の揺らぎそのままに色彩を変える紫水晶の瞳は、身を貫く残酷な衝撃と激痛によってか、血が溶け込んだような赤紫に変化していた。

 芳醇な葡萄酒を思わせるその色に、バルディーズの欲望はますます猛り、彼は哀れな生贄を押さえ込んでさらに深く交わった。

 理性の歯止めが利かないほど甘美な快楽に囚われ、魂の奥からうねり出るような獣欲に身を委ねたバルディーズは、神秘の存在を汚し、蹂躙した。

 初めての交合にしては激しすぎる行為に耐えきれなくなったのか、美しい闇の化身はいつしか気を失ってしまう。

 純白の布に染みこんだ破瓜の血が、卑しい人間に犯された屈辱と苦痛を、必死で訴えているようにも見えた。

 聖黒石の祭壇から敷布を取り去ったダージルは、それを丁寧に畳んで捧げ持つ。

 腕の中で眠る優美な存在を再び祭壇に横たえた後、バルディーズは改めてつくづくとその美貌を眺めた。

 バルディーズが統治するイルダール王国にも、エルフと呼ばれる妖精族が住まう幻惑の森にも、その向こうに広がるギルナリス王国にも、これほど美しい者は存在しないに違いない。

 腰まで伸びた緩やかに波打つ長い髪は、夜の闇を凝縮したかのように黒く、星の輝きを放つようにつやつやと輝いている。

 両手に治まってしまうほど小さな顔は、しっとりと吸い付くような白く透き通った肌を持ち、完璧に配置された繊細な目鼻立ちをしていた。

 涙の絡まった長い睫毛の下には、神秘そのものを宿す紫水晶の瞳が輝いている。

 ほっそりとした肢体は、淡雪のように柔らかく、柳のようにしなやかで、全てを受け止める強さをも感じさせた。

 闇の神族は両性具有なのだと知らされていなければ、その神秘の肉体を汚すことなどできなかったかもしれない。

 完全には熟していない童女のような薄い胸と、幼い陽根、そして欲望を知らぬ可憐な花芯──穢れを知らぬ純潔の肉体は、牡の嗜虐心を昂ぶらせるほど艶やかだった。

 魅入られたように、長い黒髪を繰り返し撫でていたバルディーズは、背後から名前を呼ばれて振り向いた。

「バルディーズ陛下──御印を、どうぞ民の前に」

 その言葉にうなずいたバルディーズは、祭壇から静かに離れると、魔道師を従えながら奥宮の外へ向かった。

 複雑で緻密な紋様が四方に描かれた扉を抜けると、白い列柱に囲まれた大広間を見下ろす壇上に出る。

 階下には、高位の神官や魔道師、そしてイルダール王国に忠誠を誓う廷臣や騎士たちがずらりと整列していた。

「闇の神イズリューンの加護がもたらされた──これが、その証だ」

 ダージルが捧げ持っていた白布をつかみ取ったバルディーズは、純潔の血痕を示すように、天に向かって高々と腕を突き上げた。

 その瞬間、居並ぶ廷臣たちの間から、大きな歓呼の声が上がった。

 呪われた国王に、栄光と守護を与えたまえ──。

 言葉として聞こえてくるわけではなかったが、彼らの心中にある痛切な願いが、大きな波動となって神殿の中に響き渡る。

 バルディーズは微かに唇を歪めると、皮肉げな微笑を湛え、手に持っていた白絹をダージルに投げ渡した。

 己が交わったのが、本当に闇の神イズリューンなのかどうかは判らない。

 ただ、神に呪われた国王に不安を抱く臣下を安心させ、虎視眈々とイルダールの領土を狙っているギルナリス王国を牽制するためには、たとえ何者であろうと<イズリューン>であってもらわねばならなかった。

 もっとも、魔道師たちの召喚に応じるように、神の聖輪に出現した人物は、闇の神自身ではないにしても、それに近い眷属であるのだろう。

 夜を封じた漆黒の髪を持つ者は、近隣の王国や妖精族の森にも存在しない。

 夜の化身のような姿形だけでも、手に入れた価値があるというものだった。

 そんな事をつらつらと考えながら、バルディーズは冷たい微笑を浮かべた。

「ダージル──あの者を、私の妃に迎える。
 婚礼のよき期日を占い、諸国にも伝達するよう神官長に伝えよ」

 神殿の奥宮に再び戻りながら、バルディーズは傍に侍る魔道師に告げた。

「御意……しかしながら陛下、ご婚約者のレディラ様には何と?」

 貴族の中で最も大きな権力を持つダルノーム大公の娘を思いだし、ダージルは躊躇いながら問い返した。

 バルディーズは表情の無い隻眼で、頭一つ分は背の低い魔道師を見下ろし、ひどく冷淡な声音で言った。

「イズリューンの神力が手に入れば、地上の権威などは必要無かろう?」

「……されど、かの方が紛うことなき神であることが判明するまでは、ご婚儀の件は、もうしばらく先に延ばされた方が安全ではないかと」

「魔道師長は、あの者が神族ではないと疑っているようだな」

 心中の懸念を鋭く切り返され、ダージルは困惑したように嘆息した。

「恐れながら、陛下……召喚の呪文の最中に邪魔が入りました。
 聖なる輪の中に現れたのが、闇の神であるか否かは、しばらく時間をかけて調査するしかないと思われます。
 召喚の呪文が闇の神界に届いたかどうかは、わたくしにも判りかねますゆえ」

「──何とも気弱な事だ」

 冷ややかに嘲笑したバルディーズは、その時、聖黒石の祭壇が眩い白光に包み込まれていることに気づいた。

 天井の無い吹き抜けの奥宮は、装飾された列柱でぐるりと円形に取り囲まれていたが、その中央から光の柱が夜空を突き抜けるように伸びている。

 その光の中で動く二人の人物を認めた瞬間、ダージルが愕然としたように叫んだ。

「……しまった、妖精王の手の者か!?」

 慌てたようにダージルは呪文を唱え、杖の先から魔力を放つ。

 常人の目には見えぬ力の奔流は、バルディーズの紺碧の隻眼には、螺旋を描く黒い蛇のように映った。

「愚かな真似はやめよ、ダージル。
 おまえの力では、まだまだ儂には敵わんわい」

 光輝の中から、突如としておかしそうに笑う老人の声が響いた。

 その瞬間、見えざる壁に阻まれたように、ダージルの黒い蛇は千々に分裂し、あっという間に消滅してしまう。

 鋭く舌打ちした魔道師が、さらなる攻撃を仕掛けようとした時、バルディーズは片手を上げてそれを制し、光の柱にゆったりと近づいた。

「老師エルダイン──闇の神殿は貴公のいる場所ではなかろう?
 契りを交わした我が花嫁には、貴公といえど近づいてほしくはないのだがな」

 敵意も無く、殺意も無い冷静な声でバルディーズが話しかけると、目を射るような白光が徐々に弱まり、その中から顎髭を刈り込んだ老人が現れた。

 彼の髪や髭は真っ白だったが、顔つきは若々しく、体格もがっしりとしていた。

「お久しぶりですな、バルディーズ殿。
 この者と契りを交わしたということじゃが、この者はイズリューンなどではなく、ただの人間じゃ。
 この者から力を求めるのは、諦めなさるがよい」

 まるで貧しい農夫が着るような丈の短いチュニックと薄汚れたズボン、そして皮革で作られた長靴をはいた老人は、道化師のように大げさな一礼をした後でそう言った。

 バルディーズは隻眼をすがめ、老人を鋭く睨んだ。

「それは、どういう意味だ?」

 すると老人は軽く両肩をすくめ、自分の背後に立っている人物に視線を向けた。

 すらりと背の高いその男は、金色に染まった木の葉のような長い髪と、深い翡翠色の瞳を持つエルフであり、誰もが見惚れるほど優美な面立ちをしていた。