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Fatal Doll



<1>



 彼は「ファントム」と呼ばれていた。

 本当の名は別にあったはずだが、そんなものはもう覚えていなかった。

 心の中に刻印されているのは、果てしない妄執と憎悪。

 脳裡に焼きつけたのは、彼を破滅させた憎むべき敵の姿と、求めてやまない大切な人の面影。

 絶望と怨念、そして孤独──。

 狂気の闇がじわじわと心を侵蝕し、やがて彼の全てとなった。




 サラリーマンやOLが慌ただしく行き交う大通りから、細い路地裏に入ったところに、アットホームなたたずまいの喫茶店があった。

 軒先にぶら下がるアンティーク風の看板には、コーヒーカップを手にしたオシャレな黒猫と「KATZE(カッツェ)」という店の名前が刻まれている。

 ガラスの窓越しに手を振っている親友に、鳴川零は笑顔で手を振り返した。

 真那と会うのは本当に久しぶりだった。

 メールや電話で連絡は取り合っていたが、ここ三ヶ月くらい、お互いに顔を見ていなかったかもしれない。

「……相変わらず、恥ずかしい格好ですねえ」

 零の傍らにぴったりとはりつき、周囲を警戒していた新堂が、呆れたような声で呟いた。

「そうですか? 似合ってるから、いいかなあと思うんですけど」

 零はそう言って笑うと、豊かなコーヒーの香りが漂ってくる喫茶店のドアを開けた。

「零ちゃ〜ん、お久しぶり〜。ついでに、新堂さんも〜」

 レースとフリルがふんだんに使われた黒いワンピース姿の真那が、椅子から立ち上がってはしゃぎ声を上げた。

「心配してたのよ〜。何だか忙しそうだったし」

 人目もはばからず零に抱きついた真那は、独特の間延びしたしゃべり方で訴えた。

 その大げさな抱擁を目撃し、近くのテーブルにいた他の客が、何事かというように訝しげな目を向けてくる。

 新堂はゴホンと咳払いをすると、カウンター席を指差した。

「零さん。俺は、そっちにいますから……」

「すみません……ありがとうございます」

 真那にがっしりとしがみつかれていた零は、首をひねって新堂を振り返り、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。

「それにしても、ため息ばっかりついてた真那ちゃんが、急に元気になったなあ」

 メニューを持ってテーブルに近づいてきたマスターの丹波が、笑いながらそう言った。

「だって、最近、つまらないんだもん。零ちゃんには全然会わせてもらえなかったし……」

 唇を尖らせた真那は、じろりと新堂を睨み付けた。

 それを見た新堂は、さも心外だと言うように片眉をつり上げると、そのまま無視を決め込んでメニューに視線を落とした。

 以前、この「カッツェ」で働いていた零は、変わらない穏やかな雰囲気にほっとしながら、丹波からメニューを受け取った。

 忙しいランチタイムが終わり、店内は空いている。

 数人の女性と、休憩中のサラリーマンらしき人がいるだけだから、このまま混み合わなければ、真那とゆっくりお喋りができるだろう。

 そう思いながら、零はいつも通りのカフェオレと、甘さ控えめなチーズスフレを注文した。

 真那はコーヒーのおかわりと、濃厚なガトーショコラ。

 カウンターに座っていた新堂も、オリジナルブレンドとチーズスフレを頼んでいた。

 三人分の注文を取った丹波は、「そうそう」と呟き、にこにこしながら零に話しかけた。

「久しぶりだから、零ちゃんにはまだ紹介してなかったよね。
 ちょっと前に、新しいアルバイトを雇ったんだ。
 多分、零ちゃんや、真那ちゃんと同じくらいの年だと思うよ」

「それがね、結構、イケメンなのよ〜」

 丹波がアルバイトを呼びに厨房に入っていくと、それを横目で見ていた真那が、唇をにんまりとつり上げて笑った。

 それを聞いていた新堂は、むっとした顔で足を組み、カウンターテーブルに頬杖をつく。

 しばらくすると、二人分のコーヒーとケーキを持った青年が現れた。

「はじめまして。『カッツェ』でバイトすることになった、田中翔太っていいます。
 零さんの噂は、マスターからよく聞いてました。
 俺、負けないように頑張るんで、よろしくお願いします」

 人懐っこい笑顔で自己紹介した青年は、零の前でぺこりと頭を下げた。

 すっきりとした細面で、二重瞼の大きな瞳を持った青年は、黙っていると女の子のようにも見えた。

「カワイイでしょ〜。田中君、大学生なんだって」

 真那が大きく首を傾げて同意を求めると、「カワイイ」と言われた青年は、気を悪くした風もなくにっこりと笑った。

 無邪気で、魅力的な笑顔だった。

 あまりにも天真爛漫で、人を惹きつける不思議な力がある。

 一瞬、理由もなくドキリとしてしまった零に、彼は親しげに話しかけてきた。

「お二人とも、よければ俺のこと、翔太って呼んでください。
 田中って名字、ヤなんですよね。どこにでもいそうでしょ?」

「あたしの周りにはいないけどな〜」

 真那が笑うと、翔太は首を傾げて「珍しくはないよね」と呟き、OL風の女性に呼ばれて注文を取りに行った。

「中性的なとこが、ちょっと零ちゃんに似た感じじゃなーい?
 マスターの好みなのかもねえ、ああいう雰囲気」

「たまたまじゃないかな」

 返答に困って零が苦笑すると、ガトーショコラを口に運ぼうとしていた真那が、意地悪な笑顔で新堂の背中を見つめた。

「まあ……男くさいイケメンじゃないから、新堂さんもちょっと安心したかも?」

 声をひそめて囁いた真那は、大きめに切ったガトーショコラをぱくりと頬張った。

「それにしても、よく鷲塚サンが出てくるの許してくれたねえ。
 何だか判らないけど、忙しかったんでしょ?」

「う…ん、まあね。
 私はいつもと変わらないんだけど、海琉がちょっと……。
 大した事はないんだけど、お父さんが入院しちゃってさ。
 しばらく療養しなきゃいけないらしくて、それでバタバタしてたんだよね」

 零がほっと嘆息をもらすと、真那はきょとんとした顔で、長い付け睫毛に縁取られた両目をパシパシと瞬かせた。

「あれ……あたしが思ってたより、もしかして深刻だった?」

 零は慌てて微笑み、安心させるように頭を振って見せた。

「そんな事はないよ──過労だって聞いてるし。
 ただ、その療養先が都内じゃないから、往復するのが結構大変みたい」

「薫先生の病院じゃないの?」

 驚いたように聞き返す真那に、零は首を傾げて見せた。

「いろいろ問題があるらしいんだよね。
 それに、お父さんが都内は嫌だって言ったみたいで。
 海が見える方がいいとか、何とか……」

 真那にどこまで話そうかと考えながら、零はちらりと新堂に視線を向けた。

 あまり大っぴらにはできない事情なだけに、詳しく話すのが躊躇われた。

 それを暗に察したのか、真那はさり気なく「大変だったね」とねぎらい、湯気を立てるコーヒーカップを持ち上げた。

 その時、カランとドアのベルが鳴り、スーツ姿の男が入って来た。

 ふと視線を上げた零の目に、「いらっしゃいませ」と明るく挨拶する翔太の笑顔が飛び込んでくる。

 一方、カウンター席に座っていた新堂もすばやく振り返り、緊張した面持ちでその男を観察していた。

「──ク、クヌギ……さん。どうして、ここに?」

 翔太は、驚愕した顔でその男の名前を呼んだ。

「仕事で近くまで来たから。君がバイトを始めたって聞いていたしね」

 男が穏やかな口調で答えると、翔太はぎくしゃくとうなずいた。

 そして、すぐに自分たちに注がれている好奇の視線に気づき、慌てた様子でその男を奥の席へと案内し始める。

「わお、超イケメン!」

 うっとりとした眼差しでその男を見つめていた真那は、彼がテーブルの横を通り過ぎていくと、大きく目を見開いた。

「零ちゃん、零ちゃん! あの人、弁護士だよ!」

 胸元を示すように指で押さえながら、真那が興奮したように囁きかけてくる。

 よく判らずに零が首を傾げると、真那は「弁護士バッジ!」と小声で教えてくれた。