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Fatal Doll



<11>



 一瞬、挨拶を返すのも忘れて、零は芭月という名の女性に見惚れてしまった。

 静けさの漂う雅なたたずまい──娘の薫が鮮やかな赤い薔薇なら、この女性は、雪の中で秘めやかに咲く寒牡丹のよう。

 ところが、強い意思の宿った瞳で見つめられると、緊張からか上がってしまい、シミュレーションしていた自己紹介の言葉が頭から吹き飛んでしまった。

「──こいつが零です。どうせ薫から散々聞かされているでしょう?」

 部屋の奥に行けと促すように零の背中を押した鷲塚が、珍しく丁寧な言葉遣いで芭月に話しかけた。

 おそらくそれは、目上の者に対する礼儀なのだろう。

 海に面した窓が広がる、ホテルのように豪華な病室をぎくしゃくした足取りで歩きながら、零はますます硬くなってしまった。

「聞いてると言ったって、大した事ではありませんよ。
 こうして実際に会ってみなければ、何も判らないでしょう。
 まさかお前が、こんな若い子を連れてくるとは思わなかったけれど」

 鷲塚にそう言葉を返した芭月は、観察するような視線を零に向けてくる。

 顔は笑っているが、芭月の瞳は冴々と冷えていた。

 敵意を感じるわけではないが、親しみがこもっているわけでもない。

 ちゃんと挨拶しなければと気だけは焦るのに、口の中がからからになって声が出せず、零はごくりと唾を飲み下した。

「あ、あの……はじめまして。
 な、鳴川零と申します。
 えっと……かい……わ、鷲塚さんには、お世話になっております」

 何度も詰まりながらようやく挨拶をしたものの、あまりにもみっともなくて、自分自身が情けなくなった。

 失敗したという思いが巡り、零がお辞儀をしたまま頭を上げられないでいると、ベッドからその様子を見ていた勲が笑い出した。

「零さん、そんなに硬くならなくてもいいから。
 わざわざ、こんな所まで来てもらってすまなかったね」

 病院の寝間着ではない、白地に紺色の模様が入った浴衣を身につけた勲は、相変わらず渋くて格好良く、思っていたよりも随分元気そうに見えた。

「あ、いえ……私の方こそ、お見舞いが遅くなってすみませんでした」

 慌ててもう一度お辞儀をした零は、ひんやりとした微笑を浮かべている芭月に、持ってきた手土産を差し出した。

「あの、これ……お口に合うかどうか判りませんが、どうぞ召し上がってください」

「まあ……どうもありがとう、零さん。
 あなた、零さんからお土産をいただきましたよ」

 受け取った紙袋を、芭月が勲のベッドまで持って行くのを見計らい、零は思わず不安げな瞳で鷲塚を見上げた。

 いろいろ失敗しているような気もするが、これ以上どうすれば良いのか判らない。

 すると鷲塚は、横目でちらりと零を見下ろし、ぽんと軽く背中を叩いた。

 言葉は無くとも、「よく頑張った」と言われているように感じ、胸の中に安堵が広がる。

 ほっとため息をついた時、鷲塚が淡々とした声で言った。

「──では、今日のところはこれで失礼します」

 ベッドの横に置かれた椅子に座って包みを開いていた芭月は、それを聞いて驚いたように顔を上げ、双眸をすがめて鷲塚を睨んだ。

「まだ着たばかりじゃないの、海琉。
 零さんとも全然お話ができていないし」

「あなたが零を見たいと言うから、こうして連れてきただけです。
 長居をするとは言っていません」

 急速に険悪化する空気を感じ取り、零は何が起こったのか判らず、おどおどと鷲塚と芭月の顔を見比べた。

「プライベートでお見舞いに来てほしいと、私は頼んだんですよ。
 お前はいつだって他人行儀だし、家にも寄りつかない」

 業を煮やしたように語気を強め、立ち上がった芭月は鷲塚に詰め寄った。

 ところが鷲塚は、非情ですらある鋼の瞳で芭月を見下ろし、冷ややかな声で突き放した。

「あなたには薫がいるでしょう。
 この道に入った時から、あの家は『本家』であって、俺の家ではない。
 気安く立ち寄れる場所ではないんですよ、姐さん」

 情の感じられない言葉を聞いた芭月は、困惑したように顔を翳らせた。

 二人のやり取りを傍で聞いていた零は、さすがに居心地が悪くなり、窓の外に広がる海へ視線を飛ばした。

 おそらく鷲塚は、極道になった時、それまでの家族の縁を心の中で絶ち切ってしまったのだろう。

 だからこそ情に囚われず、冷酷にすらなれるのか──。

 零がこっそりと嘆息をもらした時、黙っていた勲が厳しい声で一喝した。

「止めんか、二人とも──零さんが困っているだろう」

 その途端、気まずそうに零をちらりと一瞥した芭月は、物憂げな表情で首を横に振ると、サイドテーブルに置いてあったコーヒーを手に取った。

「おもたせで失礼だけれど、せっかくだから零さんから頂いたコーヒーを淹れましょうか。
 是非召し上がっていってね、零さん」

 にこりと微笑んだ芭月にそう言われ、とっさに零は何も考えずにうなずいていた。

「……あ、はい。ありがとうございます」

 そう答えた瞬間、苛立ったような瞳を鷲塚から向けられ、零ははっと我に返った。

 そもそも鷲塚は、零のためを思って、早くこの場を切り上げようとしていたのだろう。

 それなのに当の自分が、芭月の言葉に乗せられて、留まることを選んでしまった。

 今さら後悔しても後の祭りで、芭月は微かに勝ち誇ったような瞳を鷲塚に投げかけ、上機嫌で備え付けのキッチンに向かっている。

「──バカが」

「……ごめんなさい」

 叱りつけるような鷲塚の呟きに、しょげ返った零は小声で謝った。

 すると、その様子を見ていたのか、勲が零に手招きをする。

 思わず鷲塚を見上げると、「行ってこい」というように顎をしゃくったため、零は勲の傍におずおずと歩み寄った。

「薫が時々甘いものは買ってくるが、たまに食べると美味いもんだなあ。
 ほら、零さんも食べなさい」

 そう言って差し出されたのは、零が持ってきた「カッツェ」のクッキーだった。

 断るのも悪いと思い、「いただきます」と一つ摘んで口に入れると、ほど良い甘さがじんわりと広がる。

 丹波の顔を思い出してほっとした途端、いつの間にか限界に達していたのか、空腹を訴えて胃袋がグウと大きな音を立てた。

「──す、すみません!」

 恥ずかしさのあまり、かっと顔が熱くなり、零は勲を見ることができなくなった。

 案の定、勲は弾かれたように笑い出し、ちらりと見やれば、鷲塚は呆れ果てたと言わんばかりに天を仰いでいる。

「鷲塚──お前は零さんに何も食べさせていないの?
 可哀想に、こんなに痩せちゃって……」

 コーヒーメーカーをセットして戻ってきた芭月が、皮肉げな眼差しで鷲塚を見やり、さらに当てつけのように零の肩に触れた。

「あ、いえ……いつもは、ちゃんと食べてるんです。
 今日は朝から食欲が無かったから……」

 何故か責められている鷲塚を弁護しようと、零が慌ててそう言うと、芭月は穏やかな微笑を浮かべながら首を傾げた。

「どんな時でもしっかり食べておかなければ、この世界じゃ生きていけないのよ。
 いつ何時、コトが起こるか判らないんだから」

 やはり顔は笑っているが、芭月の目は決して笑っていない。

 先ほどまでの冷たさは感じられなかったが、獲物を見定めたような強い光を放っている。

 圧倒され、思わず背筋が仰け反り気味になった零を、芭月はほとんど瞬きもせずにじっと見つめ、急ににっこりと微笑んだ。

「じゃあ、コーヒーを飲んだら、ご飯を食べに行きましょうか。
 零さんは何がお好き?
 この辺りだったら、やっぱりお魚が美味しいのよ──ねえ、あなた?」

 芭月が同意を求めると、勲はまだ笑いが治まらないのか、にやにやしながらうなずく。

「──えっ? え、えっと……」

 さすがに同じ間違いを繰り返すことはできず、零は困惑しながら鷲塚に救いを求めた。

「残念ながら、そんな時間はありません」

 芭月の近くに置いておくとまずいと判断したのか、鷲塚は慇懃無礼に断りながら、零の腕を自分の方へと引っ張った

 ところが芭月は、そうはさせじと、むきになって反対側の腕を引き戻そうとする。

「あら、ダメよ。時間が無いのなら、お前一人でお帰り。
 零さんは、私が責任もってお預かりするから。
 だいたい、自分のイロを飢えさせるなんて、情けないにも程があります。
 見なさい、この子の身体──洗濯板みたいにペラペラじゃないの」

 鷲塚に見せつけるように、零の薄い胸と背中を両手で挟み込んだ芭月は、声を高めてそう叱責した。

 これほど無造作に胸を触られたことはかつて一度もなく、呆気に取られて、零は芭月の手を見下ろした。

「……ペラペラ」

 言いようのないショックを受け、零が呆然と呟くと、堪えきれずに勲が吹き出した。

「──は、芭月……そりゃあ、セクハラってもんだろう」

「あら。ごめんなさいね、零さん」

 ぱっと手を離した芭月は、「ほほほ」と上品な笑い声を立て、良い香りを放ち始めたコーヒーメーカーの方に駆け寄っていった。