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Fatal Doll



<13>



 鷲塚響子──鷲塚海琉をこの世に生み落とした人であり、荒神勲の姪でもある。

 この女性に関して、零が知っていることはあまり無かった。

 息子であるはずの鷲塚は、実母のことを決して語ろうとはしない。

 零が最初にその名を聞いたのも新堂からであり、響子の話題を口にするのは、荒神会の中でもタブーになっているようだった。

 ところが後日、鷲塚の養父である勲から、零は彼女の近況を知らされることとなった。

 それによれば、精神を病んだ響子は癌に冒され、余命幾ばくもないとのことだった。

 そして今、芭月の口から響子の名が飛び出し、零は驚愕のあまり呆然としてしまった。

 どうして芭月が、響子に会えと言い出したのか──。

 一方、鷲塚は顔色一つ変えず、まるで他人事のように冷ややかな声で訊ねた。

「死に損ないの狂人に、零を会わせてどうしようと?
 彼女はずっと夢の中で生きている。
 死ぬまで幸せな夢を見ていた方が、本人にとっては幸せでしょう」

「仮にもお前は、響子の腹を借りて生まれてきたんです。
 死に目に立ち合うくらいの義理はあるでしょう」

 これに関しては一歩も譲らないと覚悟を決めているのか、芭月の顔は恐ろしいほど真剣だった。

 ところが鷲塚は、冷酷な嘲笑を浮かべて芭月を見返し、揶揄するように首を傾げた。

「俺の顔を見れば、彼女は間違いなく発作を起こす。
 死期を早めて、最初で最後の親孝行をしてやれとでも?」

 鋭い皮肉に彩られた鷲塚の言葉を聞き、芭月は苦しげに顔を歪めた。

「お前が会えないことは判っています。
 けれど、だからこそ、零さんに会ってほしいと言っているんです」

 すると鷲塚は鼻で笑い、冷たく獰猛な眼差しを芭月に向けた。

「最初からこれが目的で、俺たちを呼び寄せたわけか。
 親父の入院を出しに使い、わざわざ零を嵌めて──随分、手の込んだ真似をする」

「こうでもしなければ、お前は来なかったでしょう。
 これに関しては、私の独断です。
 あの人には知らせれば、きっと反対したでしょうから」

 感情を押し殺した声でそう告げた芭月は、緊迫した状況を為す術もなく見守っている零に向き直り、急に座布団を外して正座をした。

 そのまま指先を畳の上でそろえ、深々と頭を下げる。

「お願いします、零さん。
 どうか、響子に会ってやってください。
 このままでは、あの子が何のために生きているのか判らない。
 私は、それが憐れでならないのです」

 その姿を見た鷲塚は、無言のまま急に立ち上がり、呆然としている零の腕を引っ張り上げようとした。

「──帰るぞ」

「……え? で、でも……」

 狼狽える零の腕をつかんだまま、鷲塚は芭月を冷ややかに見下ろした。

「本家から迎えを寄越します。そちらの車でお帰りを」

 鷲塚に腕を取られ、中途半端に腰を上げていた零は、ずっと頭を下げたままでいる芭月の姿に胸を突かれた。

 そして不意に気づく。

 畳の上にぽたり、ぽたりと落ちる大粒の涙に──。

 芭月にとって、響子は義理の姪に当たる。

 普通に考えれば、そこまで情をかけるほど近しい存在ではないはずだった。

 だが、実の母親に会うことができない鷲塚の代わりに、芭月は、響子の様子をつぶさに見届けてきたのかもしれない。

 芭月の姿が、不意に自分を育ててくれた美弥子と重なり、零はぎゅっと瞼を閉ざした。

 零を生みながら、鳴川家の前に放置していった人は、果たして今も生きているのか。

 会えることなら会ってみたいと思っていたが、急に不安に襲われた。

 生き別れになったその人は、自分の事を優しく迎え入れてくれると想像していたが、憎まれている可能性もあったのだ……鷲塚のように──。

「……海琉……私も、響子さんに会っておきたい……」

 強引に部屋から連れ出そうとする鷲塚の手を振り切り、零は震える声でそう訴えた。

 険しく双眸を眇めた鷲塚の顔が怖くて、見返すことができない。

 それでも踏み留まったのは、芭月の痛切な言葉以上に、鷲塚の事をもっとよく知りたいと感じたからだった。

 そして多分、零自身が覚悟を決めるため。

 心の中に根深く宿る「捨て子」というわだかまりと決別するためには、自分自身がそれをどこかで捨て去らなければならないと直感していた。

 そうでなければ迷いを残したまま、前に踏み出すことができない。

「お願い……私を、お母さんに会わせて……」

 必死の思いで顔を上げ、零は鷲塚の瞳を見返した。

 鷲塚はきつく眉根を寄せて睨んだが、小刻みに震えながらも零が瞳を逸らさないでいると、懊悩するようにその瞼を閉ざした。

「──好きにしろ」

 嘆息混じりの低い声音には、複雑な色が滲んでいる。

 決して鷲塚の望みではなかったのだろうが、それでも突き放さなかったのは、零の生い立ちを知っていたからなのかもしれない。

 ひんやりと胸に漂う悲しみを感じながら、零は小さく泣き笑いを浮かべ、「ありがとう」と告げた。




 その後、零と芭月を乗せた鷲塚の車は、高速道路を下りると、車通りの少ない山道を一時間ほど上がって、海を見下ろす「聖母の家」へと到着した。

 そのホスピスは、薫が勤める聖マリア病院の分院であり、主にターミナルケアと精神医療を行っているとのことだった。

 付近に住宅はほとんど見当たらず、緑豊かな山の中に、まるで地中海のヴィラ(別荘)のような明るい建物が並んでいる。

 入院病棟の窓は全て海側に面しており、関係者が自由に散策できる広大な庭からも、青々と輝く海を見晴らすことができた。

「……綺麗な所ですね」

 駐車場に降り立った零は、重苦しい沈黙を破ってそう口にしていた。

 大きな薔薇の花束を抱えた芭月は、物憂げに微笑んでうなずいて見せると、先を促すように歩き始めた。

 建物の中は、そこが病院であることを忘れるような、美しく瀟洒な内装となっていた。

 吹き抜けになったロビーには、円形の花壇の中に白大理石の聖母子像が置かれ、そこから螺旋を描くように浅い水路が巡らされている。

 天井は高く開放的で、さらさらと流れる水音が静かな空間に優しく響いていた。

 広々とした廊下には、海側に面して大きなガラス窓と花壇が設置されており、抽象的な花柄が織られた美しい壁紙と紺色の絨毯で統一されている。

 そして、優雅なモーツァルトのBGMが、会話の邪魔にならない程度の音で流されているのだった。

 至る所に作られた花壇や海を眺めながら歩いていた零は、それでも車椅子に乗った人を目の当たりにするたびに、ここが病院なのだと強く意識した。

 どれほど美しく飾っても、消すことのできない悲しみと、死の気配がここには漂っている。

 そう感じた途端、背筋に冷たいものが走り、ざわりと鳥肌が立った。

 思わず鷲塚の腕にしがみつくと、それまで氷の彫像のように硬い表情だった男の顔に、ふっと呆れたような表情が浮かぶ。

「──行くなら行け。俺はここまでだ」

 505号室、鷲塚響子と記されたドアに近づくと、鷲塚は身を隠すようにして壁際に立ち、弱気になっている零に淡々と促した。

 離れることを心細く思いながらも、零は小さく頷き、先に部屋に入った芭月の後を追った。

「……芭月姉さん……いらっしゃい」

 零がそっとドアの中に足を踏み入れると、レースのカーテンで陽射しを遮った薄暗い部屋の中から、細く掠れた女性の声が響いてきた。

 部屋の壁には、まるで自分の家であるかのように絵画や写真が飾られており、ソファや書き物をするデスクまでが置かれている。

 もうずっと長い間、この部屋で過ごしてきたのだろうと思うと、急に目頭が熱くなった。

 芭月の話によれば、彼女のことを、響子は自分の姉だと思い込んでいるらしい。

 そして叔父である勲の事は、その時々によって、自分の兄であったり、夫になったりするようだった。

 この部屋を訪れる者は限られていたが、響子がしっかりと把握できている人はほとんどおらず、誰もが狂気の夢──妄想の中に生きる登場人物となる。

 けれど鷲塚海琉のことだけは拒否をし続け、響子は決して認めようとはしない。

 一目でも見ようものなら、「悪魔」と罵り、ひどい発作を起こすそうだった。

「今日はね、もう一人連れがいるのよ」

 苦しげに咳き込んだ響子をいたわりながら、芭月が穏やかな声で優しく話しかける。

「……まあ……誰かしら」

 弱々しいながらも、興味を引かれたように響子が呟いた。

 重く澱んだ空気の中で、いつの間にか顔を曇らせていた零は、必死で笑顔を作ろうと自分自身に言い聞かせた。

 やがて「入ってちょうだい」と芭月の声が響き、零は一つ深呼吸をして、ベッドの前に広がる空間に足を踏み出した。

「……こんにちは」

 大きな声を出して驚かさないよう気を遣いながら、零が躊躇いがちに挨拶をすると、電動でベッドの背を起こして座ったその人は、落ちくぼんだ両目を大きく見開いた。

 病魔のせいなのか、響子の顔や身体は痩せ細り、肌の色艶も悪くなっていたが、かつての美貌の名残が残っている。

 そして何より、黒く長い睫毛に縁取られた目元が、鷲塚とよく似ていることに気づき、零は思わず息を止めていた。

 響子は瞬きもせずに零をじっと見つめ、しばらく何も言わなかった。

 気を悪くさせただろうかと心配になり、零が芭月の顔をちらりと見やった時、生気の失せた響子の顔に、驚くほど明るい笑顔が生まれた。

「まあ、琉花(るか)ちゃん。よく来てくれたわね。待っていたのよ」

 どこかで聞いた事のあるその名前──。

 心の中に激しい動揺が広がるのを感じながら、零は愕然と立ちつくし、微笑みを浮かべる響子を見返していた。