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Fatal Doll



<14>



「……どうしたの、琉花ちゃん? ママの傍に来てちょうだい」

 響子の痩せ細った手がゆっくりと上がり、零を手招く。

 その様子を見守っていた芭月は表情を強張らせたが、沈黙を保ったまま、零のために椅子をベッドサイドに置いてくれた。

 病室のドアへ一度視線を向けた零は、思い切って響子が横たわるベッドへと近づいた。

 話しかける言葉は何も思い浮かばなかったが、響子が差し伸べる手を包み込むように、零はそっと両手を重ねた。

 点滴をしているせいなのか、白く細いその手は冷たく、肘の内側には青紫色の内出血が広がっていて痛々しい。

「ごめんなさいね、琉花ちゃん。
 一緒にいてあげられないなんて、ダメなママよね」

 そう言って微笑んだ響子の顔は、血の気が無く青白いが、先ほどまでより優しい表情になっていた。

 戸惑いながら微笑み返した零は、響子が横たわるベッド際の壁に、色あせたウェディングドレスが掛けられていることに気づいた。

 そして、サイドテーブルの上に置かれた写真には、同じドレスをまとって微笑む響子と、幸せそうに笑うタキシード姿の男性が並んで写っている。

 かつて、響子とその亡くなった夫は、男の子が生まれたら「海琉」、女の子だったら「琉花」と名付けようと決めていたという。

 新堂から聞いた話を思い出した瞬間、胸が掻きむしられるような悲しみを感じ、零は込み上がってくる涙を必死で堪えた。

 響子は、何の疑いもなく、零のことを自分の「娘」だと思い込んだ。

 赤の他人である自分を我が子だと思うのなら、どうして鷲塚のことを、ただ一度でも良いから「海琉」だと認められないのだろう。

 それほどまでに、響子が受けたショックは大きかったのか──。

 見ず知らずの男に陵辱され、目の前で夫を殺され、そして望まぬ子供を産み落とした。

 想像もつかない苦しみに打ちのめされ、響子の心は壊れていったのだ。

 それでも精神の奥底で、鷲塚が憎むべき男の血を引いていると確信しているから、彼のことだけは決して受け入れられないのだろう。

 届いてしまっただろうか──響子が「琉花」と呼んだその声が、鷲塚の耳に……。

 鼻の奥がつんとなり、堪えきれなかった涙が目尻から滑り落ちると、響子の指先がそっと零の頬に触れた。

「泣かないでちょうだい、琉花ちゃん。
 ママは必ず元気になって、あなたの傍にいるから」

 少しおろおろしたように、響子のか細い声が零を慰める。

 その途端、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出し、零はうつむいたまま、小さくうなずくことしかできなくなった。

 聞くべき人が、その優しい声に触れることさえ叶わない。

 その無情な現実が、ただただ悲しかった。

 唇を噛みしめて零が嗚咽を堪えていると、目の前に綺麗なハンカチがすっと差し出され、芭月の手が肩の上に置かれた。

「さあ、もう泣かないで。
 響子が心配するし、他にも過保護な心配性があなたにはいるでしょう?」

 芭月の指先にぐっと力が入り、痛いほどの感触に驚いた零は、思わず顔を上げていた。

 見上げると、芭月もまた涙で瞳を潤ませていたが、何かを諭すようにドアの方へと目配せをする。

 はっと我に返った零は、受け取ったハンカチで目元を押さえると、できるだけ明るい微笑みになるよう笑顔を作った。

「──ごめんなさい。もう、大丈夫です。
 薔薇の花、花瓶に生けてきますね」

 心配そうな響子に微笑みかけた零は、芭月が持ってきた薔薇の花束と、丸テーブルに置かれていた花瓶を抱えてドアへと向かった。

 病室の中にも水場はあったが、今はどうしても響子の傍から離れたい。

 外にいる鷲塚の様子がずっと気に掛かっていたし、自分の心もしっかり鎮めておかなければ、また何かの拍子に泣き出してしまいそうだった。

 ところがドアの外に出てみると、鷲塚の姿がどこにも見当たらず、零はきょろきょろと辺りを見回した。

(……まさか、響子さんの声が聞こえて──)

 とっさにそんな事を考えてしまい、零は廊下をうろうろしながら鷲塚の姿を探した。

 エレベーターホールの前まで行ってみたが、やはり鷲塚は見つからず、もう一度響子の病室の方へと戻ってみる。

 その時、隣室である503号室のドアが開き、中から出てきた人物と出くわしてしまった。

 驚いた拍子に、零の腕から花束が落ちた。

「……すみません」

 慌てて零が身を屈めようとすると、それより早く床に腕を伸ばした男が、薔薇の花束を取り上げた。

「こちらこそ申し訳ない。
 ……おや、あなたは確か、零さん?」

 謝罪しながら零に花束を返そうとした男は、少し驚いたように声を上げた。

 聞き覚えのある声だと気づき、零が思わず顔を上げると、目線よりも高い位置に、昨日「カッツェ」で出会った弁護士の顔があった。

 難しい名字だったため、すっかり名前を忘れてしまっているが、零は驚愕しながらも会釈をした。

「昨日は大変失礼しました。足、大丈夫ですか?」

「あ、はい……ご心配おかけしました」

 穏やかな声で問いかけてくる男にそう答えつつも、零が当惑を隠しきれずにいると、彼はその心中を見透かしたように微笑み、ネームプレートに視線を向けた。

「私もお見舞いに来ていたんです。
 翔太君のお母さんが、ここに入院しているんですよ」

「──えっ!? 翔太君のお母さん?」

 思いがけない言葉に愕然とし、零もまたネームプレートを見上げると、そこには「田中弥生(タナカ ヤヨイ)という名前が確かに記載されてあった。

「零さんもお見舞いですか?」

「……はい」

 問われるままにうなずき、零が無意識に響子の病室に視線を走らせると、男はそれに気づいたように顔を向け、何か言いたげな表情を浮かべた。

「あの……ごめんなさい。急いでいるので、失礼します」

 それ以上言葉を交わすのが辛くなり、零は男に会釈をすると、早足でナースステーションに向かった。

 鷲塚の姿を見かけなかったかと問いかけると、看護士の一人がすぐに教えてくれた。

「テラスの方で電話をしておられましたよ」

 迷惑をかけて申し訳ないと思いつつも、薔薇の花束と花瓶を預かっていてほしいと零が頼むと、その看護士は快く引き受けてくれた。

 身軽になった零は、もう一度場所を確認し、テラスの方へ足を向けた。

 どうしようもなく心が急いていたが、さすがに病院の廊下を走るわけにはいかない。

 ガラスの自動ドアを抜けてテラスに出ると、事故防止のためなのか、高く張り巡らされたフェンスの傍に、鷲塚の姿が見えた。

 テラスからは、山を下った先に広がる海が一望できる。

 すでに電話を終えているようだったが、鷲塚は海の方に視線を向けたまま、その場から動かなかった。

 他に誰もいないテラスで、一人立ちつくしている鷲塚の背中がひどく孤独に見え、零は思わず傍に駆け寄っていた。

「──海琉!」

 すぐに振り返った鷲塚の胸に飛び込んでいた零は、両腕を伸ばし、広い背中を抱き締めた。

 その逞しい体躯と温もりを感じた途端、我慢していた涙がせり上がってくる。

「どうした、零?」

 いつもと変わらぬ冷静な声で問われると、安堵とともにさらに悲哀が募った。

「……海琉が……急にいなくなるから……」

「それで探しに来たのか?」

 嗚咽を漏らしながら訴えかける零の言葉を聞いた途端、鷲塚は呆れたように問い返し、くつくつと笑い始めた。

「迷子の子供だな、お前は。
 電話がかかってきたから、場所を変えただけだ。
 さすがに、あの場で組絡みの話はできないからな」

「だ、だけど……海琉のことが、心配で……」

 零が声を詰まらせると、鷲塚はふっと嘆息をもらした。

「──何か言われたのか?」

 零が動揺してしまう原因を察したのか、鷲塚はそう訊ねた。

 とっさに返答できずにいると、鷲塚は零の顔を上げさせ、「何を言われた?」と声音を厳しいものに変えて問い質した。

 鷲塚を見上げた零は、その問いに答えることを躊躇い、セピア色の瞳を揺らした。

「零、何を言われたんだ?」

 辛抱強く、鷲塚は同じ質問を重ねたが、その声音は微かに剣呑な響きを孕んでいる。

 びくりと身をすくませると、零は深い憂いに顔を曇らせた。

「──聞いたら……きっと、海琉が…傷つく」

 零がぽつりと呟くと、鷲塚は訝しげに片眉をつり上げ、ふんと鼻を鳴らした。

「傷つくかどうかは、聞かないことには判らんな。
 むしろ、お前がどうして泣くはめになったのか、そっちの方が気にかかる」

「でも……」

 迷いが消えずなおも躊躇していると、鷲塚は零の背中をいきなりフェンスに押しつけた。

「言え──何を言われた?」

 零の顎を捕らえ直した鷲塚は、長身を屈めて瞳を見すえ、囁きかけるように促した。

 鋼色の双眸を見返すことができなくなり、零は瞼をぎゅっと瞑った。

「……私のことを……『琉花』と……」