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Fatal Doll



<18>



 ぐっすりと眠っていた零は、そっと肩を揺すられる感覚に気づき、ぼんやりとしたまま瞼を開いた。

 明るく差し込んでくる陽射しに背を向けるようにして、鷲塚が膝を突き、零の顔をのぞき込んでいる。

 影になっていてはっきり見えないが、鷲塚はすでにスーツに着替えているようだった。

 鷲塚は、まだ意識を夢の中に残している零の頬を撫でると、さらに身を屈めて囁いた。

「零──俺は先に出る。
 お前は急いで戻る必要はない。
 新堂と一緒にゆっくり帰ってこい」

「う…ん。海琉は……仕事? 気をつけてね」

 寝惚けたまま、零が小声で答えると、鷲塚はふっと淡い笑みを浮かべた。

「今夜は帰れないかもしれないから、先に寝ていろ」

 応じるようにゆっくりと瞬きをすると、唇にキスが降りてくる。

 眠りに誘われるほど優しい口づけに、思わず吐息がこぼれると、鷲塚はもう一度指先で零の頬を撫でて立ち上がった。

 光に透けて白く輝く障子が、その長身をくっきりと浮かび上がらせる。

 障子を開けて出て行こうとする鷲塚の背に、零は微睡みながら呼びかけた。

「──海琉……いってらっしゃい」

 静かに障子が閉められ、鷲塚の足音が遠のいてゆく。

 その響きを耳で追っていた零は、そのまま気を失うように、眠りの底へと沈んでいった。



 次に目覚めた時、零は、自分があまり見覚えの無い和室に寝ていたことに気づいた。

 障子の向こうから光が差し込み、部屋の中はすっかり明るくなっている。

 はっと上体を起こし、きょろきょろと周りを回した零は、自分がちゃんと浴衣を着ていることに驚きつつも、激しく狼狽えた。

(──そう言えば、海琉は先に出るって……)

 夢だったのではないかと思うような一瞬であったが、確かに鷲塚はそう言っていたと思い出し、零は慌てて布団から抜け出た。

 鷲塚が出て行ってから、どのくらい時間が経ったのだろう。

 ここは荒神家の屋敷で、そうであるにも関わらず熟睡してしまった自分が恨めしく、零は真っ先に布団を畳み始めた。

 ところがその途中、シーツがさほど乱れていない事に気づき、顔から血の気が引いた。

(ま、まさか……海琉が替えてくれた……?)

 ここは鷲塚の「実家」であるのだから、どこに何があるのかは把握しているだろうし、家人が寝静まった真夜中なら、彼が自分でやるという可能性も考えられなくもないが──。

(でも……それはきっと……無いなあ……)

 半ば確信めいた思いが胸を過ぎり、零は畳の上にへたり込みそうになった。

 と、その時、障子の向こう側で、新堂の声が爽やかに響いた。

「零さん、お目覚めですか?
 おはようございます、新堂です」

 ぎょっとした零は、慌てふためいて浴衣の乱れを直し、着替えを探した。

「は、はい、おはようございます──ちょっと待ってくださいね。
 すぐに着替えますから!」

「零さんの着替えは、続きの部屋に置いてあるんで、そちらへどうぞ。
 あ、布団はそのままにしておいて下さい。
 俺が片付けちゃいますんで」

 それが当然だというような新堂の声音であったが、零はますます狼狽してしまった。

「……そ、そういうわけには……」

 普段の寝室を見られるよりも恥ずかしく思え、零が顔を赤らめて口ごもると、察しの良い新堂はすぐに言い直した。

「じゃあ、俺は朝食を用意してきますから、ゆっくり着替えていてください。
 その部屋、奥に内風呂も付いてるんですが、自由に使っていいそうですよ」

 新堂が廊下を歩いて母屋へ戻っていくと、零はほっと安堵の溜息をついた。

 そして、心の中で新堂に感謝をする。

 鷲塚が傍にいない以上、この屋敷の中で頼りになるのは新堂しかいなかった。

 シーツや枕カバーを外し、布団を畳んだ零は、とりあえず押し入れの空きスペースにそれらをいれておいた。

 襖を開けて続きの和室に行くと、見覚えのあるスーツケースが運び込まれている。

「何が起こるか判らないから、二、三日分の着替えを常時詰めておけ」

 以前、鷲塚にそう言われて、零が用意しておいたスーツケースだった。

 畳の上に座り込み、スーツケースを開けた零は、その中身を見て小さく溜息をついた。

 あまり深く考えずに着替えを入れたものだから、普段着ているような衣類しかない。

 その後、昨夜は気づかなかったバスルームに入り、熱めのシャワーを浴びていた零は、不意に動きを止め、苦しげに眉根を寄せた。

 腰の奥に埋もれていた情欲の残り火が、肉体の目覚めとともにぞろりと蠢く。

 昨夜、いつ果てるともしれない快楽の中で、どれだけ淫らな声を上げたことだろう。

 この広い屋敷の中で、誰かがそれを聞いてしまったら──。

 そう考えるだけで、このまま消えてしまいたいと激しい羞恥に襲われたが、身体は鷲塚の愛撫を思い出したようにびくりと震えた。

 浴室の壁に手をついて身体を支えた零は、淫らな余韻を振り払うように、頭の中でこれからの予定を何度も確認した。

 ぐずぐずしている暇は無い。

 新堂は待っているだろうし、芭月にも挨拶をしに行かねばならないのだから。

 着替えを終えた零が部屋に戻ると、ほどなくして、新堂が朝食の膳を運んできた。

「あの……先にご挨拶をしないと──こちらの……薫さんの、お母さんに……」

 芭月のことをどう呼ぼうかと迷い、零が言いよどむと、新堂は特に気に留めた風も無くうなずいて見せた。

「ああ、それは後で大丈夫ですよ。
『食事が終わったら、零さんを呼んできて』と、姐さんから言いつかってますから」

 そう言って、戸惑っている零を座卓の前に座らせた新堂は、慣れた手つきで煎茶を淹れ始めた。

「冷めないうちに食べちゃってください。
 スッポンの雑炊らしいですよ──朝から豪勢ですよね。
 俺は、そんな美味いもの、ここで食べさせてもらったこと無いですけど」

 零の緊張を解そうとしているのか、新堂が明るく笑いながらそう言った。

 それを聞いた途端、零は愕然として、湯気を立てている土鍋を見つめた。

「私……昨日も食べたんです……スッポン」

 満足げな芭月の顔を思い出し、零がぽつりと呟くと、何も聞かされていないのか、新堂は驚いたように目を瞠った。

「──え? そうなんですか? もしかして姐さん、今、スッポンがマイブーム?」

「多分……私があまりにも貧弱だから、心配したんじゃないかと……」

 どうして朝からスッポンが出てくるのか、聞きたいのは零の方だったが、何となくその話題には触れない方が良いような予感がした。

 しかし新堂は、それを聞いて納得したのか、笑いながら湯飲み茶碗に茶を注いだ。

「ちょっと取っつきにくい雰囲気ですけど、姐さんはかなり世話焼きなんですよ。
 ここじゃあ、零さんみたいな人、いないですからね。
 なので、わざわざスッポンを用意したってことは、気に入られたって事じゃないですか?」

「……それなら良いんですけど」

 身体の事や、昨夜の事がぐるぐると頭の中を巡り、どうしてもネガティブな方へ思考が向かってしまう。

 思わず嘆息をもらした零は、新堂の手に火傷の痕が残っていることに気づき、さらに表情を曇らせた。

「新堂さん──本当に……ごめんなさい……海琉が、酷い事を……」

 涙ぐんだ零に気づいた新堂は、慌てふためいたように両手を背後に回し、火傷の痕を隠した。

「ホントに、もう気にしないでくだいさい、零さん。
 俺たちにとっては日常茶飯事ですから!
 こんなもんで泣かれたら、零さんの前に出られなくなりますよ。
 それより、スッポン、食べちゃってください。
 零さんが食べてくれないと、今度は姐さんに叱られますから」

 うつむいて座り込んだまま、食事に手をつけようとしない零に、新堂は励ますような声音でそう言った。

 そして、何かを思い出したかのように、ふと首を傾げる。

「……そう言えば、前にもありましたね、こういうの」

 それを聞き、零はうなずきながら、泣き笑いを浮かべた。

「ええ……海琉と出会ってすぐくらいの頃に。
 新堂さんがいなかったら、私、ここにはいないかもしれません。
 いつも、いつも……新堂さんには本当に感謝してます」

 零が深く頭を下げると、新堂は「そんなことないですよ」と狼狽えたように言いながら、微かに顔を赤らめた。

 今思い出してみても、鷲塚との出会いは、最悪の形で始まったと言える。

 本来ならば理解し得なかった二人が歩み寄れたのは、新堂の存在があったからなのかもしれない。

 そうでなければ零の心は、恐怖に耐えきれず、とっくに壊れてしまっていただろう。

 鷲塚を生み落とし、狂気に囚われた、響子と同じように──。

「琉花ちゃん」と呼びかけてきた響子の笑顔が脳裡を過ぎり、ぞくりと身を震わせた零は、別れ際に交わした約束を思い出し、ふっと溜息をついた。