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Fatal Doll



<19>



 朝食を終えた零は、新堂の案内で、芭月の待つ部屋へと向かった。

 屋敷の中は相変わらず静かだったが、時々どこかで人の足音が響く。

 ところが、足音の主が姿を見せることはなく、物陰から零の様子をうかがっているような気配だけが感じ取れた。

 人が出払っているわけではない。

 ふと視線を感じて振り返った途端、慌てたように首を引っ込める者の姿を、一度だけ確認することができた。

 そうするうちに、まるで家中の目が、息をひそめ、秘かに零を観察しているような錯覚にさえ陥ってくる。

 新堂も同じように感じたのか、口許に苦笑を浮かべ、小声で囁きかけてきた。

「注目されているみたいですよ。
 俺も今朝、到着早々、質問攻めに遭いましたから」

「……あんまり見ないでほしいんですけどね……恥ずかしいから──」

 正直なところ、芭月と顔を合わせるのさえ気恥ずかしいのだ。

 だが、これほどまでに注目されてしまうと、昨夜の情交が筒抜けになっていたのではないかと考えてしまい、羞恥のあまり消え入りたくなってくる。

 応接室に通されると、新堂は芭月を呼びに部屋から出て行き、零は一人残された。

 昨日今日と、日頃慣れていない和室で過ごす時間が長かったため、ソファに座れるのはありがたい。

 ほっと溜息をつき、緊張を解いた零は、ゆったりとしたソファに寄りかかった。

 窓の外に視線を向けると、勲が丹精している薔薇が見えた。

 鷲塚響子が愛したという薔薇は、ちょうど咲き頃を迎えているのか、いくつもの大輪の花をつけ、色鮮やかな花弁を広げていた。

『……明日もまた来てちょうだいね、琉花ちゃん』

 そう言って、儚げな微笑みを浮かべた響子の顔を思い出し、零は瞼を閉ざした。

(待っているのだろうか…あの人は──海琉ではなく……私を……)

 昨日、芭月とともに病室を出ようとしていた零に、「待っているわ」と告げた響子は、何の疑いもなく自分の娘だと思い込んでいるようだった。

 零にとっては、それがひどく切ない。

 たとえ鷲塚自身が気に留めていなくても──。

 深い嘆息をもらし、両手で顔を覆った時、近づいてきた足音が部屋の外で止まった。

「おはよう、零さん。昨晩はよく眠れたかしら?」

 新堂を従えて部屋に入ってきた芭月は、居住まいを正して立ち上がった零に、にこやかな微笑みを向けて声をかけた。

「──お、おはようございます。
 は、はい……お陰様で、ぐっすり眠れました。
 朝食が遅くなってしまって、申し訳ありませんでした」

 零は一瞬口ごもりつつも、テーブルを挟んで向かい合った芭月に頭を下げた。

「そんな事気にしないでちょうだい、零さん。
 疲れているんだから仕方がないわ。
 それに、『ゆっくり眠らせてやってくれ』って、海琉からも頼まれていたの」

 零にソファを勧めた芭月は、上品な笑い声を立てながらそう言った。

 しかし零を見つめるその瞳は、何もかもを見透かしているようで、ひどく居心地が悪い。

 その時、ドアの外に出ていた新堂がトレーを持って現れ、芭月と零の前にコーヒーカップを置いた。

 床に片膝を突いたまま、慣れた所作でコーヒーを注ぐ新堂を見て、思わずほっとする。

 ところが安堵したのも束の間、芭月が新堂に向かって言った。

「後は私がやりますから、下がっていいわ」

 独特の緊張感を放つ芭月と二人きりになるのはプレッシャーだったが、かと言って、零も新堂も、この屋敷の女主人に逆らえるはずもない。

 零が内心で溜息をついた時、新堂が芭月を見返して淡々と告げた。

「姐さん、申し訳ありません。
 零さんの傍から離れるなとの命令なので、この場に残らせて下さい」

 芭月はすっと双眸を眇め、床に額がつかんばかりに深く頭を下げた新堂を冷たく睨んでいたが、すぐに諦めたのか、軽くうなずいて見せた。

「いいでしょう──お前はここに残りなさい」

「ありがとうございます」

 新堂はさらに頭を低くすると、立ち上がって、零が座るソファの横に控えた。

 ぎくしゃくした空気の中、芭月は平然とした顔でコーヒーカップを口に運んでいる。

 零もまた、それに合わせるようにコーヒーを飲んでいたが、緊張のせいか、ほとんど味も香りも感じることはできなかった。

「それでね、零さん──早いうちに、あなたのご両親にご挨拶をしておきたいのよ。
 すぐにとは言わないけれど、結納の事もあるから、できるだけ早い方がいいわ。
 だからその前に、あなたのご両親に、二人で挨拶に行ってきてほしいの」

 芭月に突然話しかけられ、面食らった零は、危うくコーヒーカップを落としそうになった。

「私の両親に……挨拶……ですか?
 え…と……結納って?」

 コーヒーカップを用心深くテーブルに戻し、零が恐る恐る聞き返すと、芭月は微笑みながら優雅に首を傾げた。

「鷲塚との結婚の事ですよ。
 お互い、そのつもりはあるんでしょう?
 私が見た限りでは、珍しく海琉の方が熱を上げているようだし……。
 そうとなれば、あなたをお嫁に貰うのは、できるだけ早い方がいいわ。
 式はともかく、婚約だけでもいいから……」

 芭月の言葉が、まるで理解できない外国語のようにも聞こえ、零は呆然としていた。

「あ、姐さん……そういう事は、若頭がいる所で……」

 さすがの新堂も呆気に取られたのか、慌てた様子で口を挟むと、言い終えないうちに、芭月に鋭く睨みつけられた。

「お黙り、新堂──ここにいてもいいとは言ったけど、口出しをしていいとまでは言っていませんよ」

 厳しい表情でぴしゃりと叱責した芭月は、驚愕のあまり言葉も出ない零に対して、柔和な微笑みを向けてきた。

「せっかくだから、振袖も一緒に仕立てようかと考えたのよ。
 零さんは着物を持っていないって言ってたけど、結納の席では着ていただきたいし。
 でも、ご両親の承諾を得ないと、こればかりは筋が通らないでしょう?」

「あ、あの……結婚って……私と……海琉の事ですか……?」

 芭月の言葉を遮るようにして聞き返した零は、混乱のあまり、何度も瞬きを繰り返した。

「そうですよ──あなたなら、鷲塚も結婚を承諾するでしょう。
 薫との一件では、散々振り回されたけど、今度ばかりはきっちりやってもらわなければ。
 仮にも荒神会の若頭……そろそろ身を固めても良い頃だわ」

 固い決意を秘めた目を細め、うっすらと微笑を刻んだ芭月を呆然と見つめ、零は言葉を詰まらせながら必死で反論した。

「……ま、待って下さい──わ、私……結婚なんて、考えたことないんです」

 その途端、芭月の顔からすっと微笑が消えた。

「鷲塚との結婚が嫌だということかしら?」

「ち、違います……そうじゃないんです……私は──」

 急激に心臓の鼓動が速くなり、零は額に冷や汗が滲むのを感じた。

 鷲塚がいない所で、まさかこんな話題が出てくるとは思いもよらず、心の動揺を隠すことができない。

「私は……海琉と…結婚……できないんです……」

 息が詰まりそうになりながら、零は切れ切れに言葉を吐き出した。

 すると芭月はさらに訝しげな表情になり、冷たい光を宿す瞳で零をじっと見つめた。

「それは、どういう事なの?」

「……それは──」

 さらなる追及を受け、零は息を喘がせた。

 眩暈がする──意識がしっかりと保てなくなりそうで、零はぶるぶると震える両手をきつく握りしめた。

 そんな異変を察したのか、新堂がさっと両手を伸ばして零の肩を支え、意を決したように毅然と言い放った。

「姐さん。どうか、この件は若頭がいる場所でお願いします。
 零さんはまだ、我々に関わって日が浅い。
 一人で決めることなど不可能です。
 ましてや若頭との結婚という重大事──まずは若頭の真意を確かめなければ、話が始まりません」

 それを聞いた芭月は、煩わしげな顔つきで新堂を睨みつけると、ソファにもたれて長々と嘆息した。

「鷲塚に聞いても答えないから、零さんに聞いてみたんですよ。
 病院で会った時は、こんなに華奢でか弱そうな子が大丈夫なのかと思ったけど、海琉は本気で惚れているようだし……。
 人並みの幸せは望めないにしても、幸せになってもらいたいという親心ですよ。
 それに、響子も零さんのことを気に入ったようだから──」

 芭月は視線を庭の薔薇へと向けると、もう一度溜息をついた。

「ごめんなさいね、零さん──私も焦っているようだわ。
 結婚については、鷲塚と二人でよく話し合ってちょうだい。
 あなたが何を迷っているのかは判らないけど、あなたの心が決まれば、海琉はきっと嫌とは言わないでしょう」

 そう語る芭月に、零は気力を振り絞り、青ざめた顔のまま必死で微笑みを返した。

「──ありがとうございます。
 お気持ちは、本当に嬉しいんです。
 ただ……私の方に問題があるので……今は何もお答えできません。
 どんなに好きでも、結婚となれば……事情が変わってきますから──」

 そう言った途端、急に全身に震えが走り、眦から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 慌てて指先で涙を拭うと、それを見た芭月が、怪訝そうに眉をひそめる。

 芭月は口を開きかけたが、すぐに思いとどまったように溜息をつき、壁にかかった時計の針を見つめた。

「まあ、いいでしょう──それより、そろそろ呉服屋さんが来る頃だわ。
 とにかく今日は、採寸だけでもしてもらいましょう。
 そのくらいは、構わないわよね?」

 芭月の問いに、零は背筋を伸ばして「はい」とうなずくと、心配そうな新堂を見上げて小さくうなずいて見せた。