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Fatal Doll



<2>



 その男が座ったのは、零がまだカッツェで働いていた頃、初めて来店した鷲塚を案内した時と同じ席だった。

 翔太は緊張した面持ちで、その男と言葉を交わし、注文を受けている。

 二人は知り合いなのだろうが、その様子が何となく気にかかる。

 まるでいつかの自分を見ているような気分に陥り、黙りこんで眺めていると、真那が瞳をきらめかせながらくすくす笑った。

「あの二人、どういう関係だろ? 親子には見えないよね」

「……そうだね」

 詮索することにほんの少し後ろめたさを感じながら、零は小声で相槌を打った。

 翔太が、零や真那と同じ二十歳くらいだとするなら、その男は三十代後半に見えた。

 何かスポーツか格闘技でもやっているのか、胸幅の広いがっしりとした体格で、日本人にしては長身だった。

「独身だったら、翔太クンに紹介してもらおうかな〜。
 弁護士センセイっていうのも、美味しいよねえ」

 うきうきしながらそう言った真那は、ぼんやりしている零の前で片手を振った。

「お〜い、零ちゃん。聞いてる〜?」

「……あ、ごめん。何だっけ?」

 我に返った零が聞き返すと、真那は盛大なため息をついて、ぐったりしたように椅子に寄りかかった。

「──いいよ、もう。
 それよりさ、今度、うちのお店で着物祭りやるんだけど、零ちゃん、来れない?」

 テーブルの横を通り過ぎる翔太を目で追いかけながら、真那がそう訊ねた。

「……着物祭り?」

「その日は、みんなで着物を着て、盛り上がろうって企画なの。
 あたしはねえ、花魁みたいにしようと思って……」

 頭の中でいろいろイメージを膨らませているのか、真那の瞳が宙をさまよった。

 ところが、零が口を開く前に、話を聞いていたらしい新堂が呆れたように言った。

「零さんが、今さらオカマバーに行けるわけないだろうが」

「どうしてよ〜。たまに遊びに来るぐらいいいじゃない」

 不満そうに唇を尖らす真那に、スツールから身を乗り出すようにして新堂が断言した。

「──絶対に無理。だいたい、カマばっかりの店に、俺が行けるわけねえだろ」

「そんな理由? あたし、新堂さんじゃなくて、零ちゃん誘ってるのよ〜」

 どこから見ても、ゴスロリ系ファッションが似合う可愛い女の子の真那だったが、実際はいわゆるニューハーフ──つまり、元男子。

 真那本人は、心身共に女になったと公言しているが、新堂はいまだ抵抗があるらしく、事あるごとに「オカマ」だと悪口を言っていた。

 もっとも、そうやって確認していなければ、時々忘れそうで怖い……というのが、新堂の本音であるらしいのだが。

 真那と新堂が通路を挟んでいがみ合っていると、銀のトレーにコーヒーカップを載せた翔太が戻ってきた。

「真那、新堂さん、邪魔になってるよ」

 通路が塞がれて困惑している翔太に気づき、零は慌てて二人を諫めた。

「──ああ、悪い」

 急いで新堂が身を引くと、真那も小首を傾げて「ごめんね」と翔太に謝る。

 翔太は二人に会釈をすると、「ありがとうございます」と零に頭を下げ、にこりと笑った。

(……何だろう、この感じ)

 先ほどと同じように、微かに糸で引っ張られているような、不思議な感覚が起こる。

 快くもなく、かといって不快なわけでもないが、目に見えない糸で細く繋がっているような感じだった。

 訝しむように、零が首を傾げた時だった。

 横を通ろうとした翔太が突然よろめき、体勢を崩した。

「危ない、零さん!」

 新堂の声が響き、零ははっとした。

「──熱っ!」

 足に熱いコーヒーが降りかかるのを感じ、零は反射的に立ち上がっていた。

 床に落ちたカップがカシャンと砕け散り、真那が愕然とした声を上げる。

「零ちゃん、大丈夫? 早く冷やさなきゃ!」

「零さん、とりあえず、これで冷やしてください!」

 とっさに、ガラスコップの中に残っていた氷をおしぼりの上にひっくり返し、新堂が慌ただしく零の足許に跪く。

 デニム地にコーヒーの茶色いシミが広がっていくのを、呆然と見つめていた零は、ひりつく痛みと、氷の冷たさを感じて、思わず眉をひそめていた。

 店内が騒然となり、厨房に引っ込んでいたマスターの丹波が、騒ぎに気づいて飛び出してくる。

 自分がしでかした大失敗にショックを受けていた翔太は、我に返ったように「すみません」と頭を下げ続けていた。

「零ちゃん、大丈夫かい? 冷やすから、こっちに来て」

 零の傍に歩み寄ってきた丹波は、手を引くようにして店内の小部屋──スタッフルーム兼事務所──に連れて行き、新しいバスタオルを手渡した。

「着替えがないから、ジーンズを脱いで、とりあえずこれを腰に巻いて。
 僕は氷を取ってくるけど、一人で大丈夫?
 真那ちゃんか、新堂さん、呼ぼうか?」

 冷静でてきぱきとした丹波の声を聞くうちに、零は落ち着きを取り戻してうなずいた。

「大丈夫です。最初は熱かったけど、今はそうでもないし。
 それより、翔太君、見てきてあげてください。
 多分、動揺しちゃってるから……」

 自分はやったことはないが、もし彼と同じようにお客さんに熱いコーヒーをかけてしまったらと思うと、考えただけで身がすくんだ。

 零の言葉を聞いて、丹波は深々と頭を下げた。

「零ちゃん、本当に申し訳ない。
 翔太には、後でちゃんと謝らせるから、少し待っていてくれるかな?
 まだ時間は大丈夫?」

「平気です。じゃあ、ちょっとこの部屋お借りしますね」

 ドアを閉めて丹波が出て行くと、零は濡れたジーンズを脱ぎ、足を見下ろした。

 コーヒーがかかった太腿のちょうど真ん中辺りが、薄紅色に染まっている。

 バスタオルを腰に巻いて椅子に座った零は、その後丹波が持ってきてくれた氷を足に載せながら、ほっとため息をついた。

「……ついてないなあ」

 火傷などしてしまったら、鷲塚に何を言われるか判らない。

 だから、できればこのまま大事にせず、何事も無かったように帰りたい。

 そんな事を考えていると、遠慮がちにドアがノックされ、外から新堂の声が響いてきた。

「──零さん。新堂です。ホントに大丈夫ですか?
 すぐ、病院に行った方がいいかもしれませんよ」

「だ、大丈夫ですよ! 心配しないでください。
 そんなに熱くなかったし……ちょっとびっくりしただけだから」

 深刻そうな新堂の声を聞いて驚き、零はできるだけ明るい声で答えた。

 零のボディーガードをしている新堂は、未然に防げなかったことで落ち込んでいるのかもしれない。

 零はぱっと立ち上がり、ドアを開けて新堂を中に招き入れた。

「……新堂さん、あの……この事、できれば、海琉には内緒に。
 マスターと翔太君に、迷惑かかっちゃうかもしれないから」

 目のやり場に困ったように天井を見上げていた新堂は、それを聞いて零を見下ろし、驚愕の声を上げた。

「それは無理ですって、零さん。
 あの小僧には落とし前つけさせなきゃならないし、俺だってそうなんですから」

「……そういうのが嫌だから、お願いしてるんです」

 零は落胆のため息をついて椅子に戻り、太腿の上に氷を載せた。

「私はこの店が好きだから、来づらくなるのは嫌だし。
 翔太君だってわざとじゃないんだから、許してあげなきゃ。
 新堂さんも、海琉にお仕置きされるの、嫌でしょう?」

「……お仕置きって……そりゃまあ、嫌ですけど……自分の不始末ですから」

 困惑したように新堂は苦笑したが、火傷の様子を見るために零がタオルの端をめくり上げると、慌てた様子で後ろを向いた。

「と、とにかく、クリーニング代くらいは、あの小僧に請求しますからね!」

 上ずった新堂の言葉を聞き、零は首を傾げた。

「コーヒー染みくらい、洗濯したら取れると思いますけど。
 ジーンズだから、そんなに気を使わなくてもいいし」

「……お人好しにも程がありますよ、零さん」

 新堂は呆れたようにそう呟き、天井を仰いで嘆息をもらした。