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Fatal Doll



<20>



 その後、別の和室で着物の採寸が行われる間、零の意識は白昼夢の中にいるように虚ろになっていた。

 芭月の言葉が、激しい衝撃となって残り、ずっと足許が揺れているような感じさえする。

 鷲塚との結婚──女性であったなら、また別の期待や憧れを抱くのかもしれないが、零が感じていたのは途方も無い不安と恐怖だった。

 半陰陽として生まれ、男として育った自分が、女として嫁ぐ。

 戸籍上の性別を訂正すれば問題は無いと、以前、薫が説明してくれた事がある。

 だが、今までの人生が間違いだったと言われているような違和感があり、零の心に戸惑いが生じた。

 真那と話している時も、時々、同じような感覚が湧き上がることがある。

 積極的に「女性」になりたかった真那とは違い、零は、「女性」でも「男性」でもなく、あるがままの自分として認められたかっただけなのだ。

 だから、鷲塚との関係においても、今の自分をそのまま愛してもらえるなら、それで十分だと思っていた。

 それ以上の事など、何も望んでいない。

 鷲塚の傍にいたい──ただ、それだけだったはずなのに、零の思いとは異なる現実が迫ってくる。

 だが、我が子同然に鷲塚を育てた芭月にしてみれば、「女性」と結婚して欲しいと望むのは当然の事なのだろう。

「背が高くていらっしゃるので、お袖は長めに仕立てられた方がよろしいでしょう。
 この方のように身幅が細いと、バランスが悪くなりますから」

「海琉の時も手足が長すぎて大変だったけど、零さんもなかなかだわ」

 呉服屋と親しげに話している芭月の横顔を見つめ、零は小さく溜息をついた。

 いつまでも隠しておける事ではない。

 零の身体の事は、いずれ芭月の耳にも届くだろう。

 呉服屋の言葉に相づちを打っていた芭月は、零の視線に気づいたように顔を上げると、優しい表情で微笑んだ。

「零さん──お昼ご飯、鰻を頼んであるから、食べていってちょうだいね。
 新堂の分も用意させたから、今日はゆっくりしていって」



 着物の採寸を終え、零が離れの和室に戻ると、傍に付き添っていた新堂が呼び出され、出前で届けられた昼食を運んできた。

「いやはや……スッポンの次は、鰻ときましたか。
 しかし姐さん、露骨に差をつけたなあ」

 座卓の上には、零のために注文された「特上」の鰻重が、そして新堂用に「並」の鰻重が置かれる。

 精神的に疲れてしまい、座布団の上に座り込んでいた零は、甲斐甲斐しく茶を淹れてくれる新堂に、自分の前に置かれたお重を指差して言った。

「……こんなに沢山食べられないから、私のと取り替えませんか?」

「ダメですよ、零さん。姐さんにバレたら、俺がどやされますから」

 目の前で片手を振って見せる新堂を見返し、零はふうっと溜息をついた。

「何だか……食欲が無くて。
 残しちゃったら、余計に心配をかけてしまうでしょう?」

 零の言葉を聞き、それもそうかと首を捻った新堂は、しかしすぐに首を横に振った。

「やっぱり、箸だけはつけてください。
 食べきれなかったら、残りは俺が片付けますから」

 新堂は、表情を暗く曇らせたままうつむいている零を見つめ、慰めるように言った。

「……まあ、食欲無くなるのも判りますけどね。
 いきなりあんな事を言われたら、誰だって驚きますよ。
 でも、あんまり深刻に考えずに、後は若頭に任せちゃってください。
 姐さんだって、若頭の意見には逆らえないんですから」

 零は小さくうなずくと、心配そうに見つめてくる新堂に笑いかけた。

「新堂さんがいてくれて、本当に良かったです。
 私一人だったら、あのまま押し切られちゃって、どうなっていたか……」

「姐さんは、お淑やかそうに見えて、気性が激しいんですよ。
 まあ、そうでなきゃ、極道の妻なんかやってられませんけどねえ」

 それを聞き、零は深い溜息をついた。

「私は……あんな風には一生なれないと思います。
 だから、海琉のお嫁さんにもなれないかも……。
 海琉が結婚するなら、もっとしっかりしている人の方がいいのかもしれません」

 湯飲みを口に運んでいた新堂は、その言葉を聞き、危うくむせそうになった。

「──れ、零さん?
 まさか、若頭との結婚が、ホントに嫌だとか言い出すんじゃないでしょうね?
 もしかして、姐さんにいろいろ言われて、落ち込んじゃってます?」

 零の顔をのぞき込むようにして、新堂が訝しげにそう問うてくる。

 零は慌てて首を横に振ると、心の中にわだかまる思いをぽつぽつと口にした。

「……そうじゃなくて──海琉が背負うものを考えると、私じゃなくて……もっと彼を支えてあげられるような人の方が相応しいんじゃないかって思ったんです。
 私は何もできないし……仮に結婚できても、子供だって生んであげられない。
 だったら、他の人と結婚して、ちゃんとした家庭を作った方が良いのかも──」

 すると新堂は考え込むように座卓に頬杖を突き、右手に持っていた箸を指揮棒のように上下に振り始めた。

「零さんの気持ちも判らなくはないですけど、若頭はどう思うんでしょうね?
 あの人が傍にいて欲しいと思っているのは、零さんなわけでしょう?
 別に、世間一般的な家庭を築きたいとか、子供が欲しいとか、そんな事、若頭は考えてないんじゃないかと思うんですよ。
 ついでに、姐さんみたいに我の強い人とは、絶対に気が合いませんから。
 今回の件だって、若頭に知れたら、間違いなく大喧嘩になるでしょうし……。
 薫さんが言ってましたよ──あの二人は、常時冷戦中だって」

 視線だけで宙を仰いでいた新堂は、しょんぼりとうつむいている零を見返すと、少し意地の悪い声音で問いかけた。

「仮に、若頭が他の女性と結婚したら、零さんはどうするんです?
 黙って、そのまま身を引いちゃうんですか?」

 はっと息を呑んだ零は、胸の苦しさを堪えるように、眉間に深い皺を刻んだ。

「……それは……海琉がそれで幸せになるなら……」

「──えーと。バカですか、零さん?
 できもしない事は言わない方がいいですよ。
 相手の事をどんなに思いやっても、間違ったり、すれ違ったりする事はあるんです。
 だから、欲しいものは欲しいと、時には主張しておかないと、後悔することになりますよ」

 新堂の言葉が深く胸に突き刺さり、零は双眸を閉ざした。

 彼の言う通りなのだ──鷲塚と離れることなど、できるはずはない。

 鷲塚が他の女性と結ばれることなど、想像するだけで苦しくなるのに、そんな事を口に出してしまうのは、やはり自分に自信が無いからで……。

 閉ざしていた瞼から、ぽたりと涙が落ちると、それを見た新堂が慌てたように言った。

「す、すみません、零さん──泣かせるつもりはなかったんですけど。
 でも、よく考えてみてくださいね。
 そもそも、若頭が他の誰かと結婚するとか言い出すと思いますか?
 周りに騒がれるのが嫌で、薫さんと婚約しちゃうような人ですよ?」

「……ごめんなさい。新堂さんのせいじゃないんです。
 私も……自分がバカだなあって……そう思って……」

 手の甲で涙をぬぐった零は、自嘲的に笑いながらそう呟くと、憂いを振り払いように大きく息を吐き出した。

「突然だったから、やっぱり動揺してるんだと思います。
 一人で決められることじゃないから、海琉と話さなきゃダメですね。
 帰ったら、ちゃんと聞いてみようと思います。
 それより、冷めちゃいますから、これ、いただいちゃいましょう」

 新堂に話したことで、少し気分が楽になっていた零は、鰻重の蓋を開けた。

 湯気と共に鰻独特の香りがふわりと漂い、急に食欲が刺激される。

「──美味しそう。そう言えば、鰻食べるの、久しぶりかも」

 零の顔に笑いが戻ったのを確認した新堂は、満足げにうなずき、明るい口調でさらりと話題を変えた。

「せっかく鎌倉まで来てますから、どこか行きたい所があったら寄りますよ。
 ちょいちょい、美味しいスイーツの店とかあるみたいですし」

 それを聞いた零は、ふと箸を止めて考え込み、思い切って新堂に告げた。

「そしたら……響子さんのいる病院に寄ってほしいんです。
『明日もまた来るから』って約束したから、響子さん、きっと待っていると思うんです」

「──響子さんって……あの…鷲塚、響子さんですか!?」

 鰻の蒲焼きに箸を入れていた新堂は、その名前を聞いて驚愕したようだった。



 ちょうど午後2時に荒神家の屋敷を出た零は、新堂の車に乗って、響子が入院しているホスピス「聖母の家」へと向かった。

 車内で、響子から「琉花ちゃん」と呼ばれたことを告げると、それを聞いた新堂は驚き、すぐに怪訝そうな表情を浮かべた。

「しかし、どうして零さんが『琉花ちゃん』になるんでしょうね。
 噂によれば、子供返りしてる風だって話だったんですよ。
 それが急に『琉花ちゃん』で、『ママ』でしょう?
 自分に子供がいるって、何となくは判ってるんですかねえ」

「それは……判りませんけど……」

 シートにもたれた零は、徐々に木々が増え、山並みが間近に迫ってくる風景に視線を向け、ほっと溜息をついた。

「──その『琉花ちゃん』の話、若頭は知っているんですか?」

 躊躇いがちな声で新堂が問うと、零は小さくうなずいて見せた。

「で……若頭は…何て?」

 やはり心配なのか、新堂の声が低く沈む。

 零はその時の様子を思い出すように両目を閉ざし、ややあってから呟いた。

「海琉は……笑ってました。
 それで、『血は争えないものだな』って──」