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Fatal Doll



<21>



「……私のことを……『琉花』と……」

 零がそう告げると、鷲塚は突然、喉奥でくつくつと笑い出した。

 怖くて瞼を開くことができずにいた零は、その笑い声を聞いて愕然と目を瞠り、顔を伏せるようにして笑っている鷲塚を見つめ返した。

「……どうして……何が……おかしいの?」

 屋上のフェンスに押さえこまれたまま、震える声でそう問い返すと、鷲塚は笑いを封じ、不意に片手を伸ばして零の顎を捕らえた。

「皮肉だとは思わないか、零?
 初対面で、彼女もお前に惹かれたんだぞ。
 どれほど俺を厭おうと、好みは似るらしい。
 ──血は争えないものだな」

 揶揄するようにそう言い、再びくくっと喉を鳴らした鷲塚の双眸は、恐ろしいほど冷たく研ぎ澄まされていて、零は目を逸らすことができなくなった。

 鋼色の瞳は、悲しみを宿すどころか、響子に対する情を切り捨ててしまったかのように揺らがない。

 その冷徹な眼差しが不安を呼び起こし、零の背筋に冷たい戦慄が走った。

「……悲しくないの、海琉?
 響子さんは、海琉のことを忘れて、私のことを娘だと思ってるんだよ?」

 胸が締め付けられるように苦しくなり、再び涙が溢れ出してくる。

 それを見た鷲塚は眉根を寄せ、零の顎を押さえていた手を、そのまま濡れた頬へと滑らせた。

「何故、今さら俺が傷ついたり、悲しまなければならないんだ?
 狂った女の妄想に付き合わされているのは、お前の方だぞ。
『琉花』という名前が彼女の口から飛び出したのは、おそらく初めてだろうがな」

 本気で訝しんでいるような鷲塚の声に、胸が潰れるほどの悲哀と憐憫を感じ、零は両腕を差し伸べた。

「……悲しいよ……あんな風に…忘れられてしまうのは──。
 海琉が悲しくなくても、私が……」

 激しくしゃくり上げながら逞しい肩にすがりつくと、鷲塚は困惑したように溜息をもらし、顔を傾けて零の唇を塞いだ。

「もう泣くな、零」

 あやすようなキスの後、嘆息混じりに囁いた鷲塚を、零は赤くなった目で見上げ、くすんと鼻をすすり上げた。

 泣くなと言われても、大粒の涙が止めどなく流れ落ちてゆく。

 ぐしゃぐしゃになった顔を手の甲でこすり、零は涙を怺えようとうつむいていたが、もろく崩れた感情を抑えることができなかった。

 すると鷲塚は唇に微かな苦笑を閃かせ、幾度となく肩を震わせている零を、腕の中に抱き寄せた。

「お前を娘だと思って死ねたら、その方が彼女にとっては幸せだろう。
 妄想に逃げ込んだ彼女の記憶を、今さら掘り起こす必要はない。
 あとわずかな命だ──彼女を憐れだと思うなら、そのまま逝かせてやればいい」

「それで……海琉は……いいの?」

 すすり泣きながらそう問うた零を、鷲塚は胸に抱き留めたまま、落ち着いた静かな声音で呟いた。

「前にも言ったはずだ。
 俺は、お前が傍にいればそれでいいと──」



 鷲塚とのやり取りを思い出しながら、いつの間にかうたた寝をしていた零は、身体が大きく外側に傾くのを感じて目を覚ました。

 窓の外を見ると、車は「聖母の家」へと続く曲がりくねった山道を上っている。

「ああ、すみません。起こしちゃいましたね。
 ──でも、もうすぐ着きますよ」

 ちらりと零を一瞥した新堂が、穏やかな声でそう告げる。

「すみません、居眠りしちゃって……」

 一人で運転させていたことを申し訳なく思い、零が慌てて謝ると、新堂はステアリングに手をかけたまま器用に肩をすくめた。

「疲れているんだから、仕方ないですよ。
 少しでも休んでもらえれば、俺は嬉しいですけどね」

 それから間もなく、新堂が運転するBMWは坂道を上りきり、「聖母の家」の駐車場に乗り入れた。

 車から降りた零は、一度大きく背伸びをして強張っていた腰を伸ばし、明るい陽射しの中に立つ病棟を振り返った。

「俺、この中に入るのは初めてなんですよ」

 遠くに広がる水平線を眺めていた新堂は、どことなく緊張した面持ちでそう言い、周囲を確認するように首を巡らせた。

「中も綺麗ですよ──まるでホテルみたいな雰囲気です」

 そう言って小さく微笑んだ零は、芭月に案内された道筋をたどりながら、鷲塚響子が待つ病室へと向かった。

 面会者の名前を記した後、吹き抜けのロビーに入ると、新堂が驚いたように声を上げた。

「……確かに、ホテルみたいですね。
 ここの事を知らないと、リゾートホテルと間違いそうだ」

 同意してうなずいた零は、ふと、花壇の中に置かれた大理石の聖母子像に目を向けた。

 心惹かれて近づいてみると、彫像の足許に多くの花束が供えられている。

 このホスピスに入院している人が捧げたものなのか、あるいはここで亡くなった人の遺族だろうか──。

 そして、幼いキリストを抱く聖母マリアの彫像の台座には、天使祝詞が刻まれていた。

 
    めでたし、聖寵満ち満てるマリア
    主 御身と共にまします
    御身は女の内にて祝せられ
    ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う
    天主の御母聖マリア
    罪人なる我らのために
    今も臨終の時も祈りたまえ アーメン


「……今も…臨終の時も祈りたまえ……アーメン」

 いつの間にか小声で読み上げていた零が、ほっと溜息をつくと、隣に立った新堂が不思議そうな面持ちで首をひねった。

「──何ですか?」

「お祈りの言葉です。有名な『アベ マリア』って曲があるでしょう?
 あれの歌詞は、この天使祝詞なんですよ」

「……はあ、なるほど」

 あまり理解できていないのか、新堂は怪訝そうな表情を浮かべた。

 その時、少し離れた場所を歩いていた人物が、二人に気づいたように足を止めた。

 零と新堂が再びロビーを歩き始めると、立ち止まって二人の様子をうかがっていたその人物は、躊躇いがちに片手を挙げて声を掛けてきた。

「──やっぱり、零さんだ。新堂さんも」

 ジュースやお茶のペットボトルが入ったレジ袋を片手に提げ、翔太はやや戸惑ったような笑顔を浮かべながら、足早に歩み寄ってきた。

 ところが新堂は、あからさまに不審の表情を浮かべ、近づいてきた翔太を睨みつけた。

「どうしてお前がここにいるんだよ?」

「……ど、どうしてって……俺の母さん……ここに入院してるから……」

 新堂の眼差しに怯んだように口ごもり、翔太は暗い表情で視線を床に落とした。

 その途端、新堂は自分の失言に気づいて舌打ちし、自嘲するように宙を仰いだ。

「──き、昨日ね……ここで偶然に会ったんだよ。
 翔太君の知り合いの弁護士さん……ほら、『カッツェ』で会った……」

 とりなすように慌てて口を挟んだ零は、驚愕して顔を上げた翔太と、そっぽ向いた新堂の顔を交互に見つめた。

「もしかして……功刀さん?」

「そう、そのクヌギさん──彼から翔太君のお母さんの事聞いて、すごく驚いた」

 しんと静まったロビーで話し続けることを憚ったのか、零と新堂を近くの中庭へと導いた翔太は、動揺したように瞳を揺らした。

「お見舞いに行くっていうのは聞いたけど、まさか、ここだったなんて……」

「カッツェ」に手土産のコーヒーを買いに行った時は、入院した勲のことしか考えていなかったのだが、その経緯を説明するとややこしくなりそうだったので、零は黙ってうなずいた。

 すると隣に立っていた新堂が、憮然とした顔つきで翔太を見下ろした。

「お前、大学やらバイトやらで忙しいんだろ?
 その上、都内から離れたこんな遠くまで見舞いに来てんのか?」

 そのひどく無遠慮な質問に、翔太は大きな目を見開いて新堂を見上げると、悲しげな表情で深い溜息をついた。

「仕方ないんだ──ここに……母さんを入院させたのは、親父だから。
 俺は、もっと近くの方がいいって言ったのに、ここの方が設備が良いからって……」

 落ち込んでしまった翔太を見て、零はたしなめるように新堂のスーツを引っ張った。

 ところが新堂は、硬い表情のまま翔太を見下ろしており、零に対する時の愛想の良さは影をひそめている。

 それでもその瞳は、翔太の事を心配しているようにも見えた。

「……だけど、ここに入院してるって事は、零さんがお見舞いに来てる人も、あんまり良くないんでしょ?」

 遠慮がちにそう訊ねてきた翔太の顔を見返し、零はうなずいた。

「隣の部屋だった……翔太君のお母さんと。
 だから、功刀さんにもばったり出会ったんだけどね」

「母さんの隣って……確か、鷲塚響子さん?
 あれ、鷲塚って、もしかして──」

 その名前に気づいたように、翔太がはっと目を瞠る。

 そして気遣うような表情で、零の顔を見つめたが、それ以上は言葉を継がなかった。