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Fatal Doll



<25>



「──遅くなってごめんね」

 泣いて赤く充血した目のまま零が謝ると、翔太は慰めの言葉を探すかのように瞳を揺らし、躊躇いがちに微笑み返した。

「大丈夫だよ。今から出れば丁度良いくらいだし……」

 率先してエレベーターに向かいながら、翔太は小声でそう答えた。

「翔太君のお母さん、一人になって大丈夫?」

 響子の容態が心配で、なかなか傍を離れられなかった零は、隣室に入院している翔太の母の事も気になった。

 翔太がいない間に、万が一急変したらと思うと、気が気ではない。

 何度も病室の方を振り返っている零に、翔太は力づけるように明るく笑いかけると、平静な面持ちでエレベーターを待っている新堂に視線を移した。

「さっき、兄さんが迎えに来てくれたから平気だよ。
 すぐに戻るって言ってあるし、兄さんだって、母さんと話したい事があるはずだからさ。
 俺がいない方が、気兼ねなく話せるでしょ?
 泣きたくなる時だってあるはずだし……」

「そっか……そうだよね」

 翔太の言葉に同意し、零が深い溜息をつくと、新堂がやや驚いたような声で訊ねた。

「──お前、兄貴いるのか?」

「うん……年が離れてるんだけどね。
 俺が物心ついた時には、兄さん、家を出ちゃってたから、一緒に暮らした記憶も無いんだけどさ」

 下降するエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した翔太は、ふっと寂しさが溶け込んだ微笑を浮かべた。

 その途端、エレベーター内に暗鬱とした沈黙が流れてしまい、それに気づいた翔太は、慌てた素振りで腕時計を確認した。

「間に合うとは思うけど、ちょっと急がなきゃ。
 明日も晴れるみたいだから、きっと綺麗に見えるはずだよ」

 すると新堂は、その袖口からのぞくダイバーウォッチを目敏く見定め、おもむろに翔太の腕を掴んだ。

「──ハリー・ウィンストンじゃねえか。
 お前、学生だろ? 何でこんな高い時計してるんだよ?」

 愕然として新堂が訊ねると、翔太は狼狽したように手を引き戻しながら、おどおどとした口調で答えた。

「……よ、よく知らないんだけど、大学の入学祝いに、親父からもらったんだ。
 デザインが好きだから、普通に使ってたんだけどさ」

「──お前の家、相当な金持ちだな。
 俺の時計より高いんじゃねえのか、それ?
 ただの学生の時計に負けるって……かなりショックかも」

 エレベーターの壁に片手を突き、本気で落ち込んでいるのか項垂れてしまった新堂を見つめ、零は不思議そうに首を傾げた。

「私もよく判らないけど……その時計、そんなに高いんですか?」

 きょとんとしている零を見返した新堂は、わずかに引きつった苦笑を浮かべた。

「高いですよ──プロパーで買えば、500万くらいしますからね。
 ていうか、お前! 学生なら学生らしく、安いヤツにしとけ!」

 ぎろりと新堂に睨まれると、翔太は慌てふためいたように胸の前で両手を振った。

「ホントに知らなかったんだってば。
 時計に興味があるわけでもないし……。
 貰い物の値段なんか、あんまり気にしないじゃん」

「少しは気にしろ! 時計は男のたしなみってもんだろうが」

 必死で弁解しようとする翔太に、新堂が居丈高に持論を展開する。

 その場に垂れ込めていた重苦しい空気が吹き飛んでゆくのを感じながら、零はくすくすと笑った。

「でも……私も腕時計はしないからなあ。
 最近、ほとんど携帯しか見てないかも」

 あえて翔太を擁護するつもりは無かったのだが、自分の習慣を振り返ってみると、時計にこだわりが無いのは同じようなものである。

 零がぽそりと呟くと、多数決での不利に気づいた新堂がぎょっとして目を剥いた。

「──わ、わか……鷲塚サンだって、良い時計、結構持ってますよ。
 もしかして、零さん、全然気づいて無かったんですか?」

「うーん。あんまりよく見てないかも。
 海琉のは、高いんだろうなあとは思ってたけど、気にしたこと無かったし」

 ショックを受けて唖然としている新堂を見返し、「あはは」とごまかすように零が笑うと、翔太がさらに追い打ちをかけるように言った。

「俺も普段は携帯派なんだけど……試験の時とかって、携帯使えないでしょ?
 病院の中もさ、携帯を使うのって躊躇っちゃうし。
 わざわざ自分で買うのもなあって思ってたから、これ使ってたんだけど」

「あ、そっか。学生はテストあるもんね」

 エレベーターを降りた後も、零と翔太は同い年の気安さからか、緊張感の無い話を続けていた。

 二人の後に付いて歩きながら、そのどことなくゆるい会話を聞いていた新堂は、思わず拍子抜けしてしまい、「やれやれ」と苦笑した。

 その後、新堂のBMWが駐めてある駐車場に出ると、翔太はそこから芝生の広場へと続く小道に入り、緩やかな下り坂が続く庭を歩き始めた。

 すでに空は薄暗くなっており、西の空はブルーからラベンダー、ピンクへと移ろうグラデーションに染まっている。

 軽やかな足取りで二人を案内していた翔太は、笑いながら振り返り、行く手を指差した。

「──この先の階段を降りると、海が見えるテラスに出るんだ。
 車椅子も降りられるようにスロープもあるけど、階段の方が近道だよ」

「結構、下るな。上る方が大変じゃないか?
 零さん、大丈夫ですか?」

 来た道を一度振り返った新堂は、体調を気遣うように零に訊ねた。

「このくらいなら平気ですよ。身体使わないと、鈍っちゃいますしね。良い運動かも」

 笑顔を見せた零を見返し、新堂は「無理はしないで下さいね」と過保護に念を押した。



 ちょうど山の木々が途切れた場所から、西の空を茜色に染め上げる夕陽と、きらきらと照り映えて輝く水平線が眺望できた。

「──本当だ。凄く綺麗だね」

 言葉では語り尽くせぬほど美しい夕焼けを見つめ、零は思わず感嘆の声を上げた。

 胸の中に沈殿していた悲しみが、夕暮れがもたらす晴れやかな感動の中に溶け出し、少しだけ心が軽くなったような気がした。

「こんな場所に来ると、誰だって気分が落ち込んじゃうからさ。
 俺も、自分の気持ちを持て余してブラブラしてたら、ここを発見したんだ。
 ここで夕焼けを眺めてたら、また明日も頑張ろうって……そう思えて」

 翔太もまた、押し潰されそうな悲しみを、ここに立つことによって和らげていたのだろう。

 そんな想いを感じ取り、零はうなずいて見せた。

「知らなかったら、絶対に見逃してたよ。教えてくれてありがとう」

「喜んでもらえたなら嬉しいよ。
 でも、こんなに綺麗に見られるなんて、零さんたち、運が良いんだよ。
 前に功刀さんと一緒に来た時は、空が曇ってたから、全然見られなくてさ」

 転落防止の手すりに軽く腰掛けた翔太は、夕暮れを眺めながら苦笑を浮かべた。

 ところが、その名前を聞いた新堂が片眉をつり上げ、訝しげに訊ねた。

「──お前と、あのクヌギって弁護士、どういう関係なんだ?
 お前が零さんに火傷させた時も、あの弁護士がいろいろ世話を焼いてたが……」

 その途端、翔太の瞳に憂いが宿り、年相応の無邪気な顔からふっと微笑みが消えた。

 表情を暗く翳らせた翔太は、手すりの向こう側から急激に落ち込んでいる山の斜面をじっと凝視したまま、重い口を開いた。

「功刀さんは……随分前から、俺の面倒を見てくれてるんだ。
 まだ高校に行ってた頃、俺、かなり荒れてた時期があってさ。
 ケンカして、かなりヤバかった時、助けてくれたのが功刀さんだったってわけ。
 母さんの事も心配して、時々、お見舞いにも来てくれるんだけどね」

「ヤバかったって、お前、何をやらかしたんだ?」

 思いもよらぬ翔太の告白に、零はただ呆然と立ちつくしていたが、新堂はわずかに声を低くし、不審げにそう問うた。

 すると翔太は、そんな新堂を見返し、深く思い悩むように眉根を寄せた。

「──ごめん。これ以上は話せないや。
 ただ、それをきっかけに、俺はちゃんと高校に行くようになったし、勉強もし始めたんだ。
 あの時は、母さんにも、随分心配かけちゃったしさ……。
 バカやってる場合じゃないって……そう思って」

 曖昧に言葉を濁した翔太を見下ろし、新堂は軽く肩をすくめた。

「若い頃は、誰でもバカやりたくなるもんだろ。
 俺だって、お前に説教できるような人間でもないがな。
 親に言えない事は、山ほどあるし」

 新堂の言葉を聞いた翔太は、うつむいて自嘲的な微笑を浮かべると、黄昏ゆく西の空に遠い目を向けた。

「どんなに頑張っても、いつも比べられて……それが嫌で、自暴自棄になってたんだ。
 親父に認められたくて、それまでは成績もずっとトップだったんだけど、ダメ出しばっかりされてさ。
 結局、親父にとって、俺は重要な人間じゃないんだって思ったら、何もかもメチャクチャにしたくなって──」

 心の裡をさらけ出すように、翔太がぽつぽつと語ると、それを聞いていた新堂は、大した事ではないと言うようにフンと鼻を鳴らした。

「親父に比べられるって、出来の良い兄貴のことか?
 それじゃ、まるっきり反抗期のガキだろうが。
 甘ったれるのもいい加減にしろ。
 だいたい、庶民には手の届かないような高級時計を、重要じゃない人間に買い与えるバカがどこにいる?
 それだけ、お前に対する期待が大きかったんじゃないのか?」

 新堂の厳しく痛烈な批判を、翔太は大きく目を瞠って聞いていたが、不意に泣き笑いするように顔をくしゃりとを歪めた。

「……そうかもしれない。
 だけど、あの人と比べられるのは、本当に辛いんだ。
 いつか必ず越えてやるって、今はそう思ってるんだけどね。
 できれば、早く家を出て、自立したいしさ。
 母さんの事があるから……今すぐってわけにはいかないけど」

「だから、金持ちのボンボンのくせに、『カッツェ』でバイトしてんのか、お前?」

 語気を和らげて新堂が聞き返すと、翔太はこくりとうなずいた。