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Fatal Doll



<30>



 ファントムと呼ばれた男は、零から奪い取った指輪を、しばらく掌で放り投げるようにして弄んでいた。

 その後、拘束された少女に近づき、椅子に縛られた左手の薬指に指輪をはめた。

「……指のサイズまでは合わないか」

 節ばった関節に阻まれ、指輪が根元まで通らない。

 それを見てやや不快げに呟いたファントムは、ナイフを逆手に持ち替えながら、少女の目線に顔を近づけた。

「欲を出すと、大事なものを失うことになる……よく判っただろう?」

 憐れむような声音の中に、残酷な嘲りが不吉に響く。

 次の瞬間、限界まで双眸を見開いた少女が、口を塞いだガムテープの下で、獣のような絶叫を迸らせた。

 ファントムが無造作にナイフを振り下ろすたびに、少女の手から鮮血が吹き出し、両足がバタバタと宙を蹴る。

 そのあまりにも凄惨な光景を見ることができず、零は顔を背けてきつく目を閉ざし、今にも失神しそうになりながら震え続けていた。

「──捨てないように気をつけろ。大事なプレゼントだ」

 床に落ちた少女の薬指を拾い上げ、ファントムはそれを仲間に渡しながら淡々と告げた。

 指を切断された激痛とショックで、少女は縛られたまま痙攣を繰り返し、苦悶の悲鳴を放ち続けている。

 指が失われた付け根からは血がぼとぼとと流れ落ち、床には真っ赤な飛沫(しぶき)が辺り一面に広がっていた。

 そして、鼻につく異臭。

 失禁した少女を冷ややかに睨んだファントムは、ウエストに挟んでいた拳銃を利き手に構えると、情け容赦なく引き金を引いた。

 一発ではなく、激しい憎悪をぶつけるように何発も──。

 断末魔の悲鳴は一瞬にして途絶え、鈍くこもった銃声の中に掻き消されていった。

 凄絶な殺戮にさらされて生きた心地もせず、半ば気を失いかけていた零の傍に、血の臭いを纏ったファントムが戻ってきた。

 べっとりと返り血が付着したナイフのグリップで、ファントムは零の顎を上向かせると、くつくつと笑いながら囁きかけた。

「逆らえば、ああなる。判っただろう?」

 抵抗する気力を全て失っていた零は、声を押し殺してすすり泣きながら、弱々しくうなずくことしかできなかった。

 人間の生命が、これほど無惨に、呆気なく奪われる──虐殺を目の当たりにし、零の精神は狂乱の瀬戸際まで追い詰められていた。

 ファントムは満足したように両目を細めると、手袋に付着した返り血を、零の頬にべったりとなすりつけた。

 そして、無抵抗な零の身体を折り曲げると、空のスーツケースの中へ押し込む。

 窮屈で、息苦しい。だが、どうすることもできず、零は絶望の中で涙を流した。

 またどこかに運ばれる。朦朧とした頭の中に、その確信だけが過ぎった。

(……ねえ、海琉──……今朝は……あんなに幸せだったのにね……)

 こんな形で、鷲塚と引き離されることになるとは想像もできなかった。

 いつも通りの、穏やかで優しい時間──その大切なひとときが、今はもう遠い過去のように感じられた。

 スーツケースが閉められ、目の前が急に暗くなると、張りつめていた糸がプツンと切れ、そのまま悪夢に吸い込まれるように零は意識を失った。




「取り急ぎ、ご報告しなければならない事が──」

 緊張した面持ちで社長室に入ってきた社員が、足早に東山のデスクに歩み寄り、ノート型パソコンを置いた。

 取引先との電話を遮られた東山は、眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、見覚えのある若い社員を一瞥した。

 首からぶら下がったIDカードには、「永井大輔(ながい だいすけ)」という名前。

 茅ヶ崎出身の暴走族上がり──警察無線盗聴マニアにして、軍隊オタク。

 もとは荒神会の構成員だったが、その後足を洗い、現在は東林総合警備株式会社の正社員になっている。

 素早く記憶を手繰り、異色の経歴を思い出した東山は、皮肉げな微笑を浮かべた。

「何事かな、永井君? 大至急と言うからには、さぞ興味深い話なんだろうね」

 揶揄を込めた口調で東山が訊ねると、永井は顔を強張らせたままうなずいた。

「──30分ほど前から、新堂さんの携帯がGPSで確認できなくなりました。
 何度か電話してみましたが、繋がりません。
 鳴川零さんの携帯は位置確認できますが、やはり電話が繋がらなくて……」

 それを聞いた途端、東山は表情を一変させ、モニターに映し出されている地図と点滅する二つのポイントを鋭く見つめた。

「新堂のBMWと、零ちゃんの携帯は同じ場所にある。
 新堂の携帯だけが消えたとなると──考えられる理由は?」

「……バッテリー切れ、もしくは故障。
 二人の無事が確認できれば問題無いのですが、今だに連絡が取れません。
 実は先ほど、若頭にも連絡を取ったのですが、こちらも不通となっているので、社長のご指示を仰ぎに参りました。
 ただの故障なら、騒ぐ必要もないんですが……」

 そう言って、瞳に困惑の表情を浮かべた永井に、東山は冷厳な眼差しを向けた。

「だが──ただの故障じゃなければ、タイムロスが命取りになる。
 すでに30分経過しているとなれば……」

 画面に視線を戻した東山は、眼鏡の奥で双眸を眇め、北上を続ける点滅を見つめた。

「必要な連絡は私がするから、君は、近くを巡回している者に指示を出して、このポイントに急行させろ。
 ただし、知らせて良いのは、荒神会のメンバーだけだ。
 何も知らない社員には、この件は一切秘密にするように。
 まず、鳴川零の安否を最優先で確認しろ。
 新堂の携帯が消えた場所も、早急に特定しておけ」

 東山が矢継ぎ早に指示を下すと、永井は背筋を伸ばして「了解しました」と答え、慌ただしく踵を返した。

 充電中だった携帯電話を取り上げた東山は、手ぶらで出て行こうとする永井の背中に、とっさに呼びかけていた。

「永井君──このパソコンは、自分のデスクに持って帰りなさい」


 その後、留守を任されている高宮に電話を入れた東山は、本社地下に隠されている荒神会総本部事務所まで出向いた。

「……社長のお前が、わざわざ駆けずり回るほどのことか?」

 あからさまに怪訝な視線を向けてくる高宮に、東山は肩をすくめながら答えた。

「零ちゃんの安全管理を、会長から任されているのでね。
 無事ならいいが、二人と連絡が取れないのが引っかかる。
 我が社の威信もかかっているし、万が一にも、何かあっては困るんだ」

 総本部事務所のモニターに、端末を操作して東京近郊の道路地図を開いた東山は、GPS追跡用発信機からの信号を呼び出し、現在までの状況を説明した。

「30分前──すでに40分が経過しているが、新堂君の携帯から信号が途絶えた。
 その後、車はここから北上を続けていて、零ちゃんの携帯は車内から発信している。
 この車を運転しているのが新堂君なら問題は無いが、万が一そうでない場合は、拉致という可能性が出てくる。
 うちの社員を先に向かわせてはいるが、荒神会絡みということもあって、誰でも良いというわけにはいかない。
 その分、接触するまでには時間がかかる」

 高宮はわずかに眉根を寄せると、確認のため、自分の携帯電話から新堂と零に電話を入れた。

 ところが東山の言葉通り、どちらも「おかけになった電話は……」と、決まりきったオペレーションを返してくるだけだった。

「──若頭に連絡は?」

「間の悪いことに、こっちも不通だ。
 移動の最中かもしれないが……。
 とりあえず、確認が取れてから、改めて連絡する」

 腕時計を見下ろした高宮は、わずかに頭を振り、嘆息をもらした。

「この時間は、おそらく取引が始まっている頃だろう。
 あの人は雑音を嫌う──取引中は携帯の電源を切っているかもしれんな。
 いざとなったら、秘書のシンプソンに俺から電話を入れよう。
 もっとも俺としては、今夜の取引が終わるまで、若頭の気を散らせたくはないが」

「そんなに大事な取引なのか? 零ちゃんよりも?」

「……荒神会にとってはな」

 素っ気なく応じた高宮を一瞥した東山は、唇に皮肉げな微笑を刻み、丁寧な言葉使いに改めて告げた。

「我が社にとっては、大事なお客様ですからね。
 零ちゃんの安全を第一に考えようと思っていますよ。
 だいたい、零ちゃんの身に何かあったら、会長だって、仕事どころじゃなくなるでしょう?」

「──だから、困るんだ」

 じろりと東山を睨み返し、高宮は諦観した眼差しをモニターに注いだ。

「まあ、そのために若頭補佐がいるんですから、せいぜい頑張ってください」

 くくっと喉を鳴らして嫌味っぽく笑った東山は、再びキーボードに指を走らせた。

「私が心配するのには、他にも理由があります。
 不審な点がもう一つある──新堂君の車の動きです」

 東山はモニター上の地図に、記録に残っているBMWの軌道を重ね合わせた。

「荒神本家を出た車は、『聖母の館』に立ち寄り、そこから移動している。
 ただ、都心に戻るのに、何故わざわざ遠回りするルートを選んでいるのか?
 そして、信号が消失する直前、同じポイントで車がいささか不自然な動きをしています」

 東山は、その地点の地図を最大限まで拡大し、BMWが辿った軌跡を大きく浮かび上がらせた。

「ここで一度停車してから、奇妙な横滑り、そしてバック、前進、またバック……。
 確かにここは細い山道ですが、何度も切り返しが必要なほど進入困難なカーブがあるわけでもない。
 さらに、これ以降の動きはスムーズで、急にスピードが上がっている。
 まだ詳しい分析はしていませんが、何か問題が生じたとするなら、場所はおそらくここでしょう。
 何者かに襲撃され、逃亡中──という推測もできる」

「逃げている最中なら、すぐに新堂が連絡してくるだろう。
 携帯が壊れたとしても、零さんも持っているんだから連絡手段はある」

 冷静に反論をしながらも、高宮は険しい表情でデスクから立ち上がり、部屋の外に控えている組員に命令した。

「急いで『聖母の館』に通じる山道を調べてこい。
 異常を発見したら、何でもいい、すぐに報告しろ」