Rosariel.com
Fatal Doll



<33>



 頬に吹き付けてくる冷たい風、そして濃厚な緑の匂い。

 ざわざわと騒ぎ立てる木々の葉ずれに気づいた時、それまで知覚されなかった激痛が全身を貫いた。

 苦痛に呻きながら瞼を開いても、視界はどこまでも暗闇に閉ざされている。

 瞬きをした途端、割れるような頭痛と眩暈に襲われ、流れ落ちてくる液体に刺激された眼球が痛みに疼いた。

「……ち…ッくしょ……痛てぇ……よ」

 鼓動とともに激痛が波打ち、吐き気がこみ上げてくる。

 新堂は苦しげに顔を歪めながら、手探りで周辺を確認した。

 掌に触れるゴツゴツとした岩肌、そしてちょうど身体を支えているざらりとした木の幹。

 足許に存在するはずの地面は感じられず、片足の爪先は宙に浮いている。

 激しい頭痛と眩暈に邪魔をされて思考がまとまらず、新堂はそのままの体勢で、しばらく身動きできなかった。

「……零さんは──」

 一番最初に思い出したのは零の顔、そして意識が途切れる前に聞いた銃声と悲鳴。

 その途端、新堂の心臓が大きく拍動し、フラッシュバックのように記憶が蘇ってきた。

 激痛を遙かに上回る悔恨が、氷の欠片となって血流を凍りつかせる。

 新堂はぎりっと奥歯を噛みしめると、激痛に痺れ、指先の感覚が失われている右手で、胸ポケットに入っているはずの携帯電話を探した。

 だが、苦痛をこらえながら取り出した携帯電話は、破損してしまったのか、どのボタンを押してもライトが点灯しない。

 出血でぬめる指先で探ると、ちょうど中央部に銃弾が食い込んでいた。

 どうやら、携帯電話のおかげで命拾いしたようだったが、この状況で通信不能となると、幸運を素直に喜ぶ気にもなれない。

 被弾し、どの程度の傷を負っているのか判らなかったが、数カ所から出血しているのは間違い無い。

 猛烈な眩暈と、凍りつくほどの寒気、そして気を抜けば喚いてしまいそうな激烈な痛みに絶え間なく襲われ、新堂は絶体絶命に追い込まれている自分自身を悟った。

「俺が……零さんを……助けないと……」

 だが、それでも気力を奮い起こしたのは、零を救出しなければならないという、ただその一念からだった。

 息を吸い込むたびに、胸の奥がギリギリと痛み、血液混じりの咳が喉に溢れ出す。

 ここで死ぬわけにはいかない。

 鷲塚から託されていた零をおめおめと奪われ、守りきれなかった──そんな負け犬のまま終わるわけにはいかない。

 必ず零を奪い返し、鷲塚の腕の中へと返す。

 それだけが、生き長らえた自分に残されている、ただ一つの使命。

 新堂が強い決意を心に刻み込んだ時、頭上で車が止まる音が響き、崖の下に向かって光の筋が何本も交錯し始めた。

「──新堂さん! 生きてたら、返事してください!」

 荒神会の若衆らしき男の怒鳴り声が谷間に響き渡ると、新堂は口許に苦笑を浮かべた。

「……バカやろ……こっちは……死にかけてんだよ」

 皮肉を呟いた新堂は、苦痛に顔を歪めながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 激痛に耐えながら何度か咳払いをし、口の中に溜まった血を吐き出す。

 このチャンスを逃すわけにはいかない。

 どうにかして、自分がここにいることを、彼らに知らせなければ──。

 ぐらぐらと視界が回転しはじめ、目の焦点が定まらなくなってゆく。

 懐中電灯らしき細い光線だけを見定めた新堂は、手の中の携帯電話を握りしめた。

 腕が千切れてもいい、肺が破れてもいい……零を助けることができるなら、ここで死んでも構わない。

 儚いスポットライトの中へ渾身の力をこめて携帯電話を差し伸べた新堂は、光を反射させながら、「ここだーッ!」と大声で叫んだ。




 その部屋のドアを開けた途端、血とアンモニアが入り混ざった凄まじい臭気が、中から押し寄せてきた。

 指紋を残さないように手袋をはめた東山が眉をひそめると、中を確認しに行った荒神会の組員が、青ざめた顔をして飛び出してくる。

 外に出た途端、彼は地面に膝をつき、激しく嘔吐を繰り返した。

 修羅場慣れした極道でさえ、目を背けたくなるような凄惨な死体があるのか──。

 そう覚悟しながら対面した死体は、確かに背筋が凍りつくほど無惨なものであり、東山もまた無意識に口許を覆っていた。

 おそらく至近距離で撃たれたのだろう。

 両眼と鼻は衝撃で跡形も無く、唇も破裂したように千切れて、元の顔立ちをまったく留めていない。

 血液や肉片が椅子の周囲に飛び散り、亜麻色の髪は真っ赤な斑模様に染まっている。

 そして、拷問を受けたのか、肘掛けに縛られた左手の指が小指から中指まで切断され、中指だけが皮一枚で繋がったままぶら下がっていた。

「酷い死体だ……うちの社員が腰を抜かしたのも、納得ですね」

 吐き気をこらえ、辛うじてそう呟いた東山は、こんな時でさえ眉ひとつ動かさない鉄面皮の高宮を一瞥した。

「さて──これが零ちゃんなのかどうか、どうやって確認しましょうか?
 死体の発見者が言うには、ちょうどこの椅子の下に、この携帯が落ちていたそうです」

 先に受け取っていた携帯電話を、東山は身を屈めて元の場所に戻した。

「俺にはよく判らんが、そういうのはお前の方が専門だろう。
 指紋照合なり、DNA鑑定なり、やればいいんじゃないのか?」

 情感のこもらない事務的な声で高宮が聞き返すと、中腰の姿勢で床と携帯電話を凝視していた東山は、軽く頭を横に振った。

「簡単に言ってくれますが、そういうのは時間がかかりすぎる。
 私は、この場で判断したいんですよ」

 そう応じた東山は、もう一度携帯電話を取り上げ、裏側にひっくり返した。

「……やはり、この携帯はちょっと奇妙ですね。
 これだけ激しく血が飛んでいる中で、何故これだけが汚れていないのか。
 物の上に血が散乱すれば、床の上に、その物体の形が残るはずです。
 つまり、後から置かれたと考える方が、つじつまが合う」

 独白のように呟いて立ち上がった東山は、無惨な死体に向き直った。

 むごたらしい死体に少しずつ神経が慣れてくると、東山は眼鏡の奥で双眸を細めた。

 両腕を組んでじっくりと死体を観察し、記憶に残っている零の身体的特徴と照らし合わせてゆく。 

 形の崩れた顔の輪郭に視線を向けた東山は、唐突に上体を屈めて片手を伸ばし、辛うじてぶら下がっている耳朶の血を指先でぬぐい取った。

「──これ、ピアスの穴です。零ちゃんは、耳にピアス、していませんでしたよね?」

 ほぼ別人だと確信しながら、東山が笑みを浮かべてそう問いかけると、高宮は訝しげに首をひねった。

「さあ、どうだったか。よく覚えているな、そんな事」

「そういう些細な事が重要なんですよ。
 まあ、あなたのように鈍感な人は、薫さんがヘアスタイルを変えたって、わからないでしょうけれどね」

 揶揄するように笑った東山を、高宮は冷ややかに睨み付けた。

「どうして、そこで薫さんの名前が出てくる?
 それより、これが零さんじゃないというのは、間違いないんだろうな?」

「まあ、手っ取り早く確認する方法もありますが……。
 私としては、死体を冒涜するような真似を、あまりやりたくはないんですけれどね。
 ──ナイフ、持ってますか?」

 高宮がサバイバルナイフを渡すと、東山はそれを片手に持って死体に手をかけ、血に染まった上着を用心深く切り裂いた。

 白蝋のように血の気の無い肌が剥き出しになると、東山は躊躇なく衣服の胸元を左右に広げてみせた。

 胸骨がくっきりと浮いた胸元には、小さいながらも、明らかに丸い乳房がある。

「ほら……ご覧の通り、この人は完全に女性です。
 どれほど体つきが似た人間を探そうと、零ちゃんのような両性具有者を見つけることは不可能に近い。
 あるいは犯人が、零ちゃんが女性だと思い込んでいるのか。
 どちらにせよ、この死体はフェイクー──我々の目を欺くためのトラップですよ」

 安堵の溜息をついた東山は、そこで始めて眉間に皺を寄せた高宮を振り返り、淡々とした口調で告げた。

「何者かが、ここからさらに零ちゃんを連れ去った。
 おそらくGPSの存在を疑った上で、零ちゃんの携帯や、新堂君の車をここに残していったのでしょう。
 そうすれば、私たちは必然的にここにおびき寄せられる。
 そして、この死体を発見した私たちが混乱しているうちに、犯人はより遠くへと逃げるわけです」

 サバイバルナイフを高宮に突き返しながら、東山はさらに厳しい声で言った。

「もし私が警察の人間なら、すぐに非常線を張ります。
 そうでもしなければ、逃げ去る犯人を捕らえることなどできないでしょうからね」

 思うように動けないもどかしさと、苛立ちを感じていた東山に、高宮は抑揚の無い冷徹な声で命令した。

「今は犯人を追いかけている時間は無い。
 それより、これを見た奴らの口止めを徹底しろ。
 こんなモノが表に出たら、四課じゃなく、捜査一課が乗り出してくる。
 若頭も言っていただろう……完全に処分しろと。
 これを残したままでは、俺たちはますます身動きが取れなくなるぞ」

 その言葉を聞いた東山は、諦めたように深い嘆息をもらした。

「言われなくても、判っていますよ。
 それより、片付ける前に、死体や周辺の写真を撮らせてもらいます。
 少しでも手がかりになりそうなモノを集めておかなければ。
 三十分ほどもらいますが、よろしいですか?」

「──十五分で終わらせろ。
 俺は先に、新堂の車を回収させる」

 そう言って踵を返そうとした高宮を、東山は慌てて呼び止めた。

「ちょっと待ってください。
 犯人のタイヤ痕が残っているはずですから、そっちの記録も残しておかなければ。
 うちの社員がいいと言うまで、無闇に歩き回らないで下さいね」

「どうせ盗難車だろうから、調べても時間の無駄だ」

 高宮が素っ気なく応じると、東山は己の意見を強く主張した。

「それでも、何が引っかかるか判りません。
 ただでさえ情報が少ない。
 残されている手がかりは、大事に扱うべきです。
 あなたは、零ちゃんを取り戻したくはないんですか?」

 それを聞いた高宮は広い肩をすくめ、混乱して浮き足立っている男たちに、「掃除の準備をしろ」と指示を飛ばした。

 そして、それから三十分ほど経った時、高宮の携帯電話が鳴った。

 椅子に縛られた死体を回収させていた高宮は、その報告を受けると、少し離れた場所で電話をしている東山に声をかけた。

「──新堂が見つかったようだ。とりあえず、生きているらしい」