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Fatal Doll



<37>



「──ごめんね、零さん。
 ちょっと遠回りしてたら、帰ってくるのが遅くなったんだ」

 屈託のない翔太の声が、その場ではむしろ異様に響いた。

 声も出せずに震えている零を見下ろしていた翔太は、ファントムを拘束したスーツ姿の男たちに向き直ると、ドアの方へと顎をしゃくって見せた。

「連れて行け。いつものように閉じ込めておくんだ」

 男たちは命令に従い、殴られてぐったりしているファントムを、浴室の外へと連れ出した。

 冷ややかに見送る翔太の顔には、「カッツェ」で見せていた気弱な表情は、どこにも見当たらない。

 まるで別人のような厳格さを漂わせていた。

(……いったい、何故──?)

 混乱する頭の隅で、疑問が浮かび上がる。

 しかし不意に、ギリギリと締め付けられるような激しい腹痛に襲われ、真っ青になった零は、床に小さくうずくまった。

「……お、お願い、翔太君──た、助けて……」

 顔見知りの翔太に、これほど惨めな姿を見られるのは、身が灼けるほど恥ずかしく、情けないことだった。

 だが今は、すがりつける唯一の相手なのだ。

 零は、腹部をかばうように身体を丸め、己の異形を必死に隠した。

 視線を零に戻した翔太は、わなわなと唇を震わせるその顔をじっと見つめ、逡巡するように瞳を揺らした。

 そして急に、両膝を突いて零の上半身を抱き寄せ、翔太は押し殺した声で囁いた。

「可哀想だけど、俺の力じゃ、零さんを助けられない。
 君は、ここから出られないんだ」

 はっと目を瞠り、零が愕然と見返すと、翔太は「ごめんね」と小さく呟いた。

「──だけど……君は、本当に綺麗だ。
 俺にも、零さんの身体、ちゃんと見せて欲しいな」

 あたかも誰かに聞かせるように、唐突に声音をがらりと変えた翔太は、零の肩を抱いたまま、固く閉ざされた膝を開かせようとした。

「い、いやっ……触らないで……ッ!」

 翔太を突き飛ばして、その腕の中から逃げた零は、その直後、急に襲ってきた排泄感にぶるぶると身を震わせ、動けなくなった。

「ファントムに浣腸されたんだろう?
 もっとこれを中に入れたら、零さんは俺の言う事を聞いてくれるかな。
 さっきの男たちを呼び戻して、押さえつけていてもらおうか?」

 翔太はくすくすと笑いながら、その場に残されていたガラスの浣腸器を取り上げ、零の前に突き出して見せた。

 その恐ろしい宣告にぎくりとして、零は何度もかぶりを振った。

「──お、お願い……止めて。も、もう……酷いこと、しないで……」

「じゃあ、ちゃんと大人しくして。
 零さんが言う事を聞いてくれないと、俺だって、ファントムより酷いこと、沢山するよ。
 俺は、零さんの敵だ──味方じゃない。
 零さんを、ここまで拉致させたのは、俺なんだからね」

 顔から一切の表情を消した翔太は、厳しい声でそう告げる。

 そして、ズボンのポケットから透明の容器が入ったビニール袋を取り出し、青ざめた零の眼前に翳した。

 濁った水の中に漬けられた、細長い物体──見覚えのある、銀色の指輪。

 それが何か悟った瞬間、零は悲鳴を上げる己の口を思わず両手で覆っていた。

 切り落とされた、人間の指だった。

 鷲塚から贈られた指輪を嵌めたその指は、おそらく、零の身代わりとしてファントムに惨殺された少女の薬指。

 その無惨な姿を見ていられなくなり、零が思わず顔を背けると、翔太は人間味の無い淡々とした声で言った。

「これ……腐らないように、ホルマリン漬けにしてあるんだ。
 だいぶ濁っちゃってるけど、何回か漬け直したら、綺麗になるよ。
 そのうち、鷲塚サンにプレゼントしてやろうと思ってさ」

 まるで、単なる標本を作ったとでも言うような、非情な声音だった。

 その最後の言葉に愕然として、零が表情を凍りつかせると、翔太は酷薄な微笑を浮かべて首を傾げた。

「零さんも、あんまり我が儘ばかり言ってると、殺しちゃうよ。
 何だったら、鷲塚サンに、綺麗な死体をプレゼントしてあげようか?
 ヤクザだったら、死体なんて見慣れてるかもしれないけど、さすがに零さんじゃあ、あの人もショックを受けるかもしれないよね」

「──止めてっ! お願い……言うこと聞くから……酷い事、しないで……」

 翔太の言葉を鋭く遮った零は、両手の拳をきつく握り締めた。

 事情はまだ理解できないが、翔太に救いを求められない事だけははっきりしている。

 翔太が「カッツェ」でアルバイトをしていたことも、親しげに近づいてきたことも、今となっては全てが罠であったのだと感じた。

「じゃあ……ちゃんと俺の言うことを聞いてくれなきゃね。
 そうすれば、そんなに酷い事はしないからさ。
 俺は、零さんの事、大好きだよ──だからホントは、いつだって優しくしたいんだ。
 鷲塚サンから奪ってやりたいと、ずっと思ってたからね」

 翔太は、硬く身を強張らせる零の肩を抱き寄せると、優しい手つきで亜麻色の髪を撫でながら、くすくす笑い出した。

 激しいショックと恐怖に打ちひしがれ、躰が小刻みに震え始めると、零は押し寄せてくる排泄感を堪えきれなくなり、すすり泣くような声で訴えた。

「……も、もう……許して……お願い……。
 大人しくしてるから……せめて、今は……トイレに……」

「──ああ、そうだったね。忘れてたよ」

 くくっと喉を震わせた翔太は、苦痛に顔を歪める零の耳元で囁いた。

「ねえ、零さん。さっきの続きをしようか? 
 遠慮しないで、ここで全部漏らしちゃいなよ。
 俺も……零さんの恥ずかしい姿が見てみたいからさ」

 その瞬間、生きた心地もなくなり、零は悲鳴を上げた。

「──止めてっ……そんなこと…絶対にイヤッ!
 ……助けてッ……ああ、海琉ッ!」

 全身から冷や汗が滲み出し、恥辱と苦痛に身悶えた零は、床を這いずるようにして、翔太から逃れようとした。

 だが、痙攣するように手足が小刻みに震え、思うように躰が動かない。

 タイルに爪を立て、唇を噛みしめて必死に耐えようとする零の姿を、立ち上がった翔太が瞬きもせずに見下ろしていた。

「──アッ、ああっ……イヤッ……見ないで……いやあぁッ!」

 喉を振り絞り、悲痛な叫び声を上げた零は、膨れ上がる衝動にブルブルと震えた。

 脂汗にまみれた躰が一際大きく悶え、ヒクリと喉が震えた瞬間、ついに極限に達する。

 人間としての尊厳を砕かれるような汚辱と、苦痛からの解放──。

 半ば意識を失ったように放心していた零は、おぞましい排泄の中で、涙を溢れさせた。

「……まだ、ゲームは始まったばかりだよ、零さん。これからが本番だ」

 気を失う直前、翔太がいたわるように優しく囁き、力を失った躰を抱き締めてきた。



 未明の羽田空港に降り立った鷲塚は、出迎えに来た高宮と共に、車に乗り込んだ。

 夜明け前の都心に向かって車が走り始めると、しばらく口を閉ざしていた鷲塚は、事務的な声音で問いかけた。

「──状況はどうなっている?」

「掃除は終わっています。足が付きそうなモノは、全て回収させました」

「死体は?」

「若頭がご覧になるのではと思い、同じ場所に置いてあります」

「東山は戻っているのか?」

「ええ。今は本部の方に。現場検証に躍起になっていますよ。
 大したモノは、まだ何も見つかっていないようですが……」

 高宮との淡々とした会話が続いた後、鷲塚は視線を窓外に向けた。

「新堂の意識は戻ったのか?」

「いえ。容態は安定したようですが、意識はまだ戻っていません。
 薫さんが、ずっと傍に付いていてくれています」

 その後、車内にしんと静寂が降りた。

 思索を巡らせていた鷲塚は、ややあってから、冷徹な声で命じた。

「──死体が見たい。まずは、それからだ」

「承知しました」

 集積場に向かうよう指示する高宮の声を聞きながら、鷲塚は瞼を閉ざした。

 胸に深く息を吸い込み、そのまま溜息をつきかけたが、シガレットケースに手を伸ばす。

 普段はほとんど数を減らさない煙草が、残り一本になっていることに気づき、鷲塚は自嘲して唇の片端を薄くつり上げた。

 荒立つ気を鎮めるように紫煙を吐き出し、ゆったりと足を組み変える。

 感情を封じ込んだ双眸で窓の外の景色を眺めていた鷲塚は、車が信号で停まった時、再び高宮に問うた。

「お前はどう考える、高宮? いったい何者が零を拉致したのか。
 殺しの現場で、何を感じた?」

 わずかに後方に首をひねった高宮は、すぐに視線を戻すと、いつも通りの冷静な声音で答えた。

「……プロファイリングとやらの専門的な事は判りませんが、少なくとも素人じゃないのは確かです。
 殺しに躊躇った気配が全くありません。
 あと、複数による犯行でしょう。
 我々の動きも、ヤツらは事前に想定していたように思えます」

 高宮の意見は、鷲塚の推理とも一致する。

 そして、今回の大胆極まりない計画を実行できる組織となると、必然的に数は限られてくるのだった。

「……北聖会──御山が動いた様子は?」

 鷲塚が懸念を口にすると、高宮は淡々と応じた。

「今のところ、目立った動きはありません。
 最新情報というほどではありませんが、せいぜい、御山の愛人がまた変わったというくらいなもんです。
 おかしな動きがあれば、我々の内通者が知らせてくると思いますが……」

「他の組織は?」

「ここのところ、小康状態を保っています。
 静かすぎて、不気味なくらいですが」

 煙草の灰を落とした鷲塚は、双眸を眇めて闇を睨むと、抑えていた嘆息をもらした。

 心の奥底から失望と苛立ちが湧き上がり、精神の均衡を乱そうとしたが、ニコチンの作用で強引にコントロールする。

(……ざまあないな)

 己自身を揶揄した鷲塚は、深い懊悩を断ち切るように、煙草を灰皿に押しつけた。

「──着いたら、起こせ。少し寝る」

「了解しました」

 鷲塚は瞼を閉ざし、束の間の休息に身を投じた。