Rosariel.com
Fatal Doll



<39>



 その時、閉ざされていたドアが、耳障りなきしみを上げながら開いた。

 びくりと身をすくませ、零は縮こまるように膝を引き寄せた。

「おはよう、零さん。よく眠れた?」

 食事を持って現れた翔太が、明るい声で挨拶をしてくる。

 その声だけを聞いていると、「カッツェ」で出会った頃と何も変わらない。

 だが、彼の背後には荒っぽい雰囲気の男が、無表情で控えていた。

 大きく目を見開いたまま、青ざめている零を見下ろし、翔太はにこりと微笑んだ。

「そんなに怯えないでよ、零さん。
 俺の言うことをちゃんと聞いてくれたら、酷い目には遭わせないから」

 厳つい体格の男が、小さなテーブルと椅子を一脚、密室の中に運び入れる。

 テーブルがセッティングされると、翔太は手にしていたトレーをその上に置いた。

「零さんのご飯は、基本的に俺が運ぶけど、留守の時は誰かが持ってくるから安心して。 
 別に餓死させようなんて、思ってないからね」

 男が無言で出て行き、扉が閉まるのを確認してから、翔太はベッドの端に腰を下ろした。

 小さく身を縮めている零に笑いかけ、血の気の引いた頬に触れようと手を伸ばす。

 それを見た途端、零は膝頭に顔を伏せ、震えながら小さく頭を振った。

 手を引っ込め、怯えきっている零をしばらく見つめていた翔太は、嘆息をもらした。

「──まあ、仕方ないとは思うけど。
 でも、ちゃんと食べないと、体力持たないよ。
 もし零さんが死んじゃったら、その時点でゲームは俺の勝ちだ。
 鷲塚サンは、二度と君を取り戻すことができない」

 はっと顔を上げ、零は翔太を見返した。

「零さんが協力してくれないと、鷲塚サンは、君を取り戻すチャンスすら与えられない事になるんだ。
 ゲームは始まったばかりだって言っただろう?
 俺はこれから、鷲塚サンに挑戦状を叩きつけるつもりだからね」

 翔太は薄暗い天井を見つめ、「ゲーム」の行方を思い巡らすようにくすくすと笑った。

「……いったい、海琉に、何を──?」

 相変わらず躰は震えていたが、零は少し冷静さを取り戻し、掠れた声で問いかけた。

 ベッドに両手を突いていた翔太は、零の方に顔をひねり、足をぶらぶらさせた。

「誘拐に成功したから、鷲塚サンから、身代金を取ってやろうと思ってさ。
 あの人、金持ってるじゃん?」

 まったく悪気がなさそうな翔太の顔を、零は呆然と見つめた。

「──海琉が身代金を払ったら……私を、帰してくれるの?」

 一縷の希望に、零はすがりついた。

 その問いには答えず、翔太は微笑を浮かべたまま、視線を天井の角に向けた。

 ベッドの対角線上に、半球形をしたプラスチックが天井に埋め込まれている。

 翔太はそれを指差した。

「ほら、あれ……零さんを見張ってるカメラなんだ。
 熱感知式になってるから、いつも君の行動を映し出せる。
 ここにいる間は、必ず監視されているんだ。
 だから、逃げようなんて思わない方がいいよ。
 ここには、ああいうカメラが、至る所にあるからさ」

 促されるようにカメラを見上げた零は、その存在を知らされた途端、剥き出しになった便座を愕然と見つめた。

「……まさか……全部……?」

 それ以上言葉にならず、声を喘がせた零の顔を、翔太は双眸を細めて見つめた。

「──そう、全部見てる。
 君の躰も、俺が綺麗に洗ってあげたんだ。
 だからもう、隠すことなんて何もないよ」

 激しい恥辱と嫌悪に躰を震わせた零は、肩を抱くようにして、蒼白の顔を伏せた。

 人としての最低限のプライドまで剥ぎ取られ、動物のように扱われるのだろうか。

 そう考えただけで、抵抗しようとする気力が削ぎ取られてゆく。

 気が狂ってしまいそうだった。

(──だけど……私は、海琉を守らなきゃ……)

 鷲塚と、共に生きると覚悟していた。

 だが、その苛酷な運命を、甘く考えていたのかもしれない。

 ずっと鷲塚に守られていたからこそ、いつも笑っていられたのだ。

 その時、ふいに、芭月の言葉が脳裡に蘇った。

『どんな時でもしっかり食べておかなければ、この世界じゃ生きていけないのよ。
 いつ何時、コトが起こるか判らないんだから』

 気の強い芭月に、ぴしゃりと頬を叩かれたような気がした。

 深く息を吸い込み、「しっかりしろ」と自分自身に言い聞かせる。

 パニックに陥り、落ち込んでばかりいたら、鷲塚の足を引っ張るだけなのだ。

 少なくとも翔太は、あの不気味なファントムよりは話が通じる。

 そして、彼の方が、ファントムより立場が上であるように見えた。

 冷静さを忘れずに対応してゆけば、いつか鷲塚のもとへ帰れるかもしれない。

 心身ともに疲れ果てていたが、零はゆっくりと両足を伸ばした。

「……食事を」

 零が呟くと、翔太は驚いたように首を傾げた。

「……食事をするから……点滴、外してくれるかな」

 肘に繋がったチューブに視線を送ると、それに気づいた翔太が笑顔で立ち上がった。

 慣れた手つきで、翔太は点滴を外してゆく。

 その顔を見つめていた零は、ぽつりと訊ねた。

「ねえ、翔太君。お母さんが入院してたっていうのも……嘘だったの?」

 その途端、翔太の顔が凍りついたように強張った。

「それだけは……嘘じゃない。
 母さんが入院してるのは本当の事。
 ホントはね、こんな時に、こんな事……したくなかったんだけど」

 沈鬱な表情を浮かべた翔太の顔は、年相応で、ひどく心細そうに見える。

 だが、どこからが嘘で、どこまでが真実なのか、確かめる術はないのだ。

 翔太の謀略で虜囚になったのだから、同情することは許されない。

 零は、冷たく感じる腕をさすりながら、唇を噛んでうなだれた。

 ベッドから降りると、翔太が零のために椅子を引いた。

 テーブルに並んでいたのは、あたかも病院食のような白粥と、ウサギの形に切られたリンゴだけだった。

「ストレスで胃腸に負担がかかってるから、朝はこれだけで我慢して。
 ちゃんと食べられるようになったら、もっとしっかりしたご飯持ってくるよ」

 意識的なのか、明るい声で翔太が告げる。

 無言でうなずいて見せた零は、ふと部屋の中に視線を巡らせた。

「──今は……朝なの?」

「ちょうど10時になったとこ」

 腕時計を見下ろし、翔太が答える。

 シャツの袖口からのぞくハリー・ウィンストン。

 翔太の時計を見て、新堂がうらやましがっていた──。

 その新堂は……零を守ろうとして、銃で撃たれた。

「……新堂さんは!?」

 思い出し、零は悲鳴のような声を上げた。

 突然の声に驚いたのか、翔太が一歩後退り、視線を宙に泳がせる。

「──さあ。どうなったか、俺にもよく判らないんだ。
 死体が見つからなかったって報告受けてるけどね。
 思った以上に向こうの動きが速くて、俺たちも探せなかった」

 車通りの少ない山道だけに、長時間その場に留まっていれば怪しまれる。

 計画に狂いが生じたが、仕方なく退散させたのだと、翔太は淡々と説明した。

 椅子に座って話を聞いていた零は、膝を覆う寝間着を握り締めた。

「翔太君は……新堂さんを、殺そうとしてたの?」

 笑顔で、仲良くおしゃべりを交わした人に、殺意を向けられるものなのか。

 信じられない思いで、零はそう訊ねた。

「新堂さんは、いつも零さんの傍にいて邪魔だったからね。
『カッツェ』で試してみたけど、結構、隙が多かったから、こっちとしては助かったけど」

「……試す?」

 零が眉をひそめると、翔太は肩をすくめた。

「俺、零さんにコーヒー、ぶっかけちゃったでしょ?
 あの時、新堂さんがどういう反応見せるのか、確認しておきたかったんだ」

 立ちくらみがしたというのは、嘘だったのか。

 翔太の行動の裏に、恐るべき真意が隠されていたのだと知り、零は青ざめた。

「まあ、でも……新堂さんのそういうトコ、俺は好きだったんだけどね。
 なんか、憎めないっていう感じ?
 俺もそうだけど、あの人は、人に対して甘いところがあるよ。
 きっと、鷲塚サンだったら、誰に対しても容赦しないんだろうけど」

 零から視線をそらし、寂しげな顔で苦笑した翔太は、一度瞼を閉ざした。

 再び目を開けた時、翔太は鋭い眼差しで空を睨んだ。

「──だけど、俺は絶対に負けられない。
 俺にも、守らなきゃいけないものがあるから」

 決然とした顔でそう言い、翔太はもう一度時計を見下ろした。

「じゃあ、俺は『カッツェ』のバイトに行ってくるよ。
 帰ってくるまでは何もないから、零さんはゆっくり休んでて」

 零がはっと目を瞠ると、翔太はドアの所で振り返り、悪戯っぽく片手を振った。

「もし、鷲塚サンが『カッツェ』に来たら、様子を教えてあげる。
 といっても、今はそんな余裕、無いだろうけどさ」

 バタンとドアが閉まる。

 一人残された零は、ややあってから、のろのろとスプーンに手を伸ばした。

「……ご飯……食べなきゃ……」

 生き伸びるために、食べなければならない。

 今できる事は、それしかない。

 だが、吐き気を堪えながら口に運ぼうとした途端、ぶるぶると震えだした手からスプーンがこぼれ落ちた。

「──海琉……新堂さん……」

 必死で涙を抑えようとしても、大粒の雫が頬を伝い落ちてゆく。

 これからどうなってしまうのか、どれほどの犠牲が払われるのか、不安の恐ろしさで胸が締め付けられた。

 それでも、生きなければならない。

 たとえ、どれだけ辱められようとも、生きてさえいれば、いつか鷲塚の傍に帰れる。

 そう、信じていなければ……。

 奥歯を食いしばり、手の甲で流れ落ちる涙をぬぐった零は、床に落ちたスプーンを拾い上げた。

 獣のように這いつくばることになっても構わない。

 生き抜くためなら、何でもしよう。

 零は、何度も自分に言い聞かせた。