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Fatal Doll



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 雨が降り始めた。

 古びたビルが入り組む下町の雑踏は、突然の雨に包まれ、道行く人々の足音が慌ただしく乱れる。

 幹線道路からわずかに引っ込んだ三叉路に面したその病院は、十年以上も前に廃業していたが、解体もされず、当時のままの状態で残されていた。

 元は白く塗装されていたはずのビルは、年月を重ねて排ガスに塗れ、灰色の斑模様に汚れている。

 雨に濡れると、ますます陰惨で不気味な雰囲気が漂っていた。

 だが、とうに医者はいなくなったはずの建物には、いまだに「患者」が訪れている。

 常連の患者の間では、そこは「大水病院」と呼ばれていた。

 うらさびれた「大水病院」の待合室には、一様にダークスーツを着た男たちが、険しい表情で待機していた。

 病気、あるいは外傷で来院したとは思えぬ凶暴な雰囲気が、待合室に満ち溢れている。

 建物の北側にある、時間外出入り口のドアが開いた途端、ホールに強い緊張が走り抜けた。

 待合室で仁王立ちになっていた男たちが、一斉に頭を下げて出迎える。

 ドアを抜けた鷲塚は、しゃちほこばって一礼する舎弟連中には目もくれず、新堂が入院する病室へと向かった。

 静まり返った薄暗い廊下を進み、電灯の切れた階段を上がる。

 非常口に最も近い、裏通りに面した二階の角部屋。

 窓の外に見えるのは、コンクリートで塗り固められた無表情なビルの外壁。

 狙撃の心配は無く、退路は確保されている。

 緊急入院した新堂の安全を確保するため、「大水病院」の院長は、それなりに気を遣っているようだった。

 ドスで刺された、あるいは銃撃さたれた極道の受け入れは、毎日ではなくとも、この病院では日常的にある事なのだ。

 特に、鷲塚が運営面の援助をし始めてからは、荒神会のかかりつけ病院と化している。

 だが、荒神会の中で「お水の爺さん」と呼ばれている大水治朗は、正式な医師免許を持たないもぐりの医者だった。

 もっとも、だからこそ、表沙汰にできない緊急事態にも対処できる。

 高齢ではあるが、「医者」としての腕は良いため、ヤクザ者や訳ありの患者が、絶えず大水病院に訪れるのだった。

 酸素吸入マスクを付けてベッドに横たわる新堂の傍らで、バイタルサインを確認していた前嶋薫は、鷲塚を見るとほっとしたような表情を浮かべた。

「海琉──良かったわ。早く戻ってきてくれて」

 鷲塚は軽くうなずいて見せると、背後に付き従う男たちに視線を向け、「外に出ていろ」と片手を振った。

「新堂の状態は?」

 薫と二人きりになったところで訊ねる。

「自発呼吸はできてるし、バイタルも安定してる。
 弾抜きした時は、どうなるかと思ったけどね。
 とりあえず、致命的な銃創は無かった。
 悪運が強いのね、新堂君」

 安堵の微笑を浮かべて新堂を見つめた薫は、すぐに表情を引き締めた。

「ただ、崖から落ちた時にできた頭の傷が、今は一番心配。
 ここ、CTもMRIも無いから、脳出血が完全に把握しきれないのよ。
 結局、野戦病院みたいなもんよね。対症療法しかできないわ」

 白衣姿の薫は溜息をつくと、不意に両腕を組んで斜に構え、批判的な眼差しを鷲塚に向けた。

「……で、どういう事なのか、説明してくれる?
 真夜中に突然呼び出されたと思ったら、新堂君が死にかけてるじゃない。
 こっちは、お水の爺ちゃんと緊急オペよ。
 抗争してるなんて話、ここんとこ、全然聞かなかったのに」

 薫の問いかけに、鷲塚は返事をしなかった。 

 口を閉ざしたまま新堂の枕元に回り込み、血色の悪いその顔を見下ろす。

 すると、薫が焦れたような声を上げた。

「ちょっと、海琉。何とか言いなさいよ。
 高宮に聞いても、ちっとも喋らない。
 あいつも、ずっとだんまりなんだから……」

 鷲塚が冷ややかな視線を向けると、薫は気圧されたように後退り、口を噤んだ。

 見開かれた瞳に怯えが浮かぶのを見とり、鷲塚は嘆息をひとつもらすと、手短に話した。

「零が、拉致された」

 薫は目をしばたたかせると、すぐに事情を察して、はっと息を呑んだ。

「──零ちゃんが……また?」

 微かに唇の片端をつり上げた鷲塚は、すぐに表情を消し去り、新堂の顔を見下ろした。

 意識を失っているその顔は、眠っているようにしか見えない。

 鷲塚の冷厳な表情がわずかに歪み、眉間に深い皺が刻まれた。

 双瞳の奥で稲妻が閃いた次の瞬間、鷲塚は無防備な喉元を強くつかみ、鋭く恫喝した。

「──起きろ、新堂。お前も、零を捜せ」

 突然の凶行を目の当たりにして、薫が飛び上がり、悲鳴のような声を上げた。

「何やってんのよ、海琉!
 頭打ってるんだから、動かさないで!
 今は、絶対安静なのよ!!」

 飛びつくようにして鷲塚の手を引きはがし、薫は部屋のドアを指差した。

「あたしには患者を守る義務がある。
 バカやるんだったら、ここから出て行きなさい!」

 厳格な声で薫はそう告げると、ベッドから離れた鷲塚をきつく睨みつけた。

「あたしにできることは、命を助けることだけよ。
 あたしだって零ちゃんを捜しに行きたいけど、きっと何もできない。
 でも、新堂君は……必ず助けてみせる」

「当然だ。新堂は、零を拉致した犯人の唯一の目撃者。死なれては困る」

 感情の消失した双眸で薫を見返した鷲塚は、ドアに向かおうとした。

 その時、逡巡するように瞳を揺らした薫が、慌てて鷲塚を呼び止めた。

「待って、海琉。こんな時に伝えるべきなのか判らないけど……」

 歩を止めた鷲塚は、沈痛な表情を浮かべる薫を振り返った。

「……響子さんが、危篤なの。さっき、お母さんから連絡があったわ」

 薫の言葉は、鷲塚の意識を素通りしてゆく。

 気に留める必要さえなかった。

「彼女は最期に『琉花』と巡り逢った。幸せな夢が見られただろう」

 冷淡な声で応じると、眉をひそめた薫は、やりきれないと言うように額を押さえた。

 芭月からの電話で、零を「娘」だと思い込んだ響子の話を聞かされていたのだろう。

 しかし言葉にしては何も言わず、薫はゆっくりと頭を振って、深い溜息をもらした。

「──そうね……そうかもしれないわ」

 ふとベッドに視線を戻した鷲塚は、力無く投げ出された新堂の手が、小刻みに震え出していることに気づいた。

「薫──新堂が痙攣しているぞ」

 鷲塚がそう促すと、物思いに耽っていた薫は我に返り、はっとベッドに目を向けた。

 一人の女から、すぐに医者の顔になって心電図を確認し、慌ただしく動き出す。

「お前が言ったんだ。必ず助けろ」

 患者を助けるのは医者の仕事──ここで、自分にできることは何も無い。

 そう判断し、鷲塚は病室を後にした。



 再び時間外出入り口から、「大水病院」の表に出た鷲塚は、待ち合わせたように滑り込んでくる車に乗り込もうとした。

 その時、裏通りにちょうど走り込んできた車から、東林総合警備株式会社の社長、東山慶司が飛び出し、鷲塚に声をかけた。

「会長──私も同乗させていただいて、よろしいですか?」

 ふだん、人を食ったような笑みを張り付けている東山にしては珍しく、刺すように強い双眸を向けてくる。

 鷲塚は顎をしゃくり、「乗れ」と促した。

「何か判ったのか?」

「現場から採取されたタイヤ痕から、メーカーの特定ができました。
 新堂君のBMWが最初に異常を見せた地点でも、同じタイヤ痕が見つかっています。
 車種を限定したので、付近の防犯カメラをチェックさせています」

 手にしていたノートパソコンを開いた東山は、車の後部モニターに画像を繋げた。

 鷲塚は、保管されていた死体を確認した後、殺害現場で撮影された写真を全てチェックしていた。

 今見ているものもほとんど記憶に残っていたが、夜明けに撮影されたとおぼしき写真が、新たに加わっている。

「逃亡ルートを割り出し、犯人がどこへ向かったかだけでも、絞り込めたらラッキーなのですが……」

 張りつめた空気の中で言葉を継いだ東山は、沈黙してモニターを凝視する鷲塚を、ちらりと一瞥した。

「──高速のカメラに侵入できないか?」

「オービスですか? あれは、40キロオーバーでなければ撮影されませんからね。
 Nシステムなら、何とかなるでしょう。
 会長は、犯人が高速を使ったと考えますか?」

「現場近くに潜伏しているとは考え難い。
 俺たちが追っていることを、敵は承知しているだろう。
 追われるプレッシャーも感じているだろうからな」

「では、殺害現場の最寄りにある料金所を、重点的にチェックさせましょう」

 オンラインで指示を出す東山に、鷲塚は淡々とした声で告げた。

「お前のプロファイリング通りなら、犯人は、『仕事』の出来映えを確認したがるはずだ。
 だとすれば、敵は都内に戻る可能性が高い。
 たとえ零の監禁場所は別だとしても、敵の主力は、必ず俺たちの近くにいる」

「──ほう。断言できますか」

 眼鏡の奥の双眸が細められ、東山が挑発するように問いかけた。

 その怜悧な顔を一瞥し、鷲塚は薄く唇をつり上げた。

「少なくとも主犯は、自分の計画に一定の自信を持っていただろう。
 だが、成功の確信が持てなくなった。
 事前の計画が、パーフェクトにいかなかったからだ。
 殺すはずだった新堂の生死が、ヤツらには判らなくなっている」

 鷲塚は、醒めた声で分析を続けた。

 当初の計画が完遂されなかったからこそ、犯人は、鷲塚の──あるいは荒神会の反応を、余計に知りたがる。

 しかしメディアが刑事事件として取り上げない以上、犯人は自分たちの手で、その反応を見極めるしかない。

 確認したいというその心理の裏には、確信が持てない恐怖が存在する。

 そんな不安定な状態で、情報が一切入らない場所に逃亡するとは考えにくい。

 自分の頭脳にプライドを持つ者ならば、成功の確証を得るため、むしろ積極的に近づいてくる可能性がある。

「──人質というのは、時に、厄介で足手まといな存在だ。
 だが敵は、初めから零を狙い、死体を偽装してまで拉致をした。
 どんな思惑かは判らんが、ヤツらが零を利用しようとしているのは間違いない」

 鷲塚は東山に、殺害現場の写真を最初から映し出すように指示を出した。

 流血を見慣れていない人間ならば、目を背けたくなるような凄惨な光景。

 苛酷な現実を映し出した写真を、肘を突いた鷲塚は冷厳な双眸で見すえた。