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Fatal Doll



<43>



 都内に戻る車中にかかってきた高宮の電話は、吉報と凶報を同時にもたらした。

 電話口で響く高宮の重低音には、珍しく躊躇が混ざり込んでいる。

『新堂が意識を取り戻しました。短時間であれば、話すことも可能です』

 それが朗報。その後に悪い知らせが続く。

『……田中翔太に逃げられました。新宿駅の構内でまかれたそうです』

 説明によれば、翔太は帰宅ラッシュに紛れ込み、忽然と姿を消したらしい。

 紛れもない失態ではあったが、これで翔太が、零の拉致に深く関わっていることがはっきりしたとも言える。

「家には戻ってないのか?」

『はい。確認させたところ、二ヶ月ほど前に引っ越していったという情報が、隣の住人から得られました。
 どうやら家賃だけが振り込まれていたようです』

「──家賃? 持ち家じゃないのか?」

『いえ、古いタイプの賃貸マンションでした。
 その隣人は、ここしばらく母子の姿を見ていない、とも言っていたようです』

 二ヶ月という期間は、田中弥生が「聖母の家」に入院した時期ともちょうど被る。

 零と話していた時、翔太は「実家から大学に通っている」と口にしていたが、ならばその「実家」はどこにあるのか。

「『聖母の家』に見張りを増やせ。
 母親が入院しているなら、後から接触してくる可能性がある。
 見つけ次第、田中翔太を捕獲しろ」

 とはいえ、こちらの動きを警戒し、察知してれば、尻尾を切って逃げ出すかもしれない。

 翔太がその覚悟を決めているなら、母親を断ち切る可能性もあった。

「……功刀彰丈という弁護士に尾行をつけろ。翔太との、もう一つの接点だ」

 次の一手を考えながら、鷲塚は指示を出した。

 弁護士なら居場所ははっきりしているが、仮に翔太と同じように雲隠れするなら、この男も事件に関わっているとみなして良いだろう。

 いずれにせよ、翔太との関係を洗い出す必要がある。

 鷲塚が視線を向けると、東山が察したようにうなずいて見せた。



 運ばれてきた昼食を食べ、気を失うように眠る。

 時間は単調に過ぎてゆき、しばらくすると今度は夕食が運ばれてきた。

 少しずつ量が増やされる食事を、黙々と口に運びながら、零は感情が麻痺していくような気分に陥っていた。

 まるで心が閉ざされてしまったように何も感じない。

 ただ、トイレに行く時だけは、ベッドから引きはがしたシーツを、体に巻き付けていた。

 監視カメラの向こうから見られていると思うだけで、恥辱に体が震えてしまう。

 そして、人とは違う肉体の秘密を知られることは、いまだに激しい苦痛がともなった。

 だが、こんな生活がずっと続いていくのなら、それすらも忘れてしまうだろうか──。

 それから、どれくらいの時間が経ったのか判らなかった。

 唯一の出入り口であるドアが開き、興奮した明るい声を上げて翔太が入ってくる。

「零さん、体調はどう? 少しは休めた?」

 ドアが閉まり、二人きりになる。

 頭からシーツをすっぽりと被っていた零は、ベッドの隅で膝を抱えたまま、翔太に背中を向けていた。

 何も話したくない──零は膝に顔を伏せて、何も答えなかった。

 そんな零の様子を見つめていた翔太は溜息をつき、ベッドに腰を下ろした。

「──鷲塚サンの事、聞きたくないの?」

 くすくすと笑う翔太の言葉に、零は思わず身じろいでいた。

 顔を上げ、のろのろと翔太の方を振り返る。

 その反応に気を良くしたのか、翔太は浮かれ気味の声で語り始めた。

「鷲塚サン、俺の事に気づいたみたいだ。
 もっと時間がかかるかと思ってたけどねえ。
『聖母の家』に鷲塚サンが来たって、連絡があったよ」

 大きく目を瞠った零の顔を見つめ、翔太は悪戯っぽく小首を傾げた。

「嬉しいでしょ? もしかして、ここに助けに来てくれるかもって、思ってる?」

 セピアの瞳に生気が戻ったことを揶揄するように言い、翔太は肩をすくめた。

「だけどね……そんな事は、こっちだって想定済みなんだ。
 遅かれ早かれ、あのホスピスが目をつけられることは判ってた。
 だから、鷲塚サンが姿を現したその時が、実は『カッツェ』の辞め時だったってわけ」

 ほくそ笑んだ翔太は、残酷な光を宿す双眸で零をじっと見つめた。

「犯人は誰か……少しでも手がかりが見つかったら、嬉しいでしょ?
 それまでは五里霧中なんだからさ。
 当然、誰だって期待する。必死になって後を追うだろう。
 だけど、もし追跡の最中に、一切の情報が失われたとしたら?」

 はっとして、零は震える声で問いかけた。

「──もしかして……わざと?」

「鷲塚サンに心理的なダメージを与えたかったからね。
 少しでもあの人が絶望してくれれば、こっちがより優位に立てる。
 そうすれば、この後の取引も、こっちのペースで進められるからさ」

 膝を抱える手に力を込めた零は、きつく瞼を閉ざした。

 鷲塚は、きっと必死になって自分の行方を探してくれているのだろう。

 それが判るからこそ、鷲塚の心を軽々しく弄ぶような翔太の発言に怒りを感じた。

「……海琉は、強い──だから……何があっても……必ず、君を追いつめる。
 そんな海琉が怖いから……君は、捕まらないよう、逃げ出してきたんだ。
 怯えているのは……海琉じゃなくて、翔太君の方……」

 全てを言い終える前に、頬に平手が飛んできた。

 壁に倒れ込んだ零は、ベッドから立ち上がり、怒りを露わにした顔で睨みつけてくる翔太を、強く睨み返した。

「そんな事、俺に言ってもいいの?
 ここで零さんを守れるのは、鷲塚じゃなくて、俺なんだよ?
 何だったら、ファントムをここに呼んで、零さんを犯してもらおうか?」

 その冷酷な脅しに青ざめた零は、唇を噛みしめて、顔を背けた。

 しかし翔太はすぐに愛想笑いを浮かべ、心の痛みに顔を歪める零に、信じられないような言葉を投げかけてきた。

「──ねえ、零さん。
 零さんが、俺のお嫁さんになってくれるなら、こんなバカげた事、止めてもいいよ。
 そうすれば、これ以上、誰も傷つかずに済むよね」

 一瞬、その言葉の意味が判らなくなり、零は呆然とした。

 翔太は「どう?」と問いかけ、くすくす笑いながらベッドに座り直し、零が被ったシーツに手を掛けた。

「零さんのウェディングドレス姿、すごく綺麗だったよ。
 新堂さんも見惚れてたし……俺もドキドキしちゃった」

 シーツ越しに頭に触れた手が、そのまま頬へと滑り落ちる。

 反射的に身を引いた零は、我に返って何度もかぶりを振っていた。

「へえ、できないんだ?
 じゃあ零さんは、もっと死人が出てもいいって思ってるの?
 もしかしたら鷲塚サンだって、死んじゃうかもしれないよ?」

 真っ青になった零の顔を見つめたまま、翔太は残酷な言葉を紡いでゆく。

 その言葉の一つ一つが、零の心を引き裂いた。

「ちゃんと考えてよ、零さん。君のことは大切にするから。
 零さんだって、ちゃんとした生活に戻りたいだろう?」

 そう言って、翔太はぶるぶると震え出した零の肩をつかみ、軽く揺すった。

 零はきつく両目を閉ざし、血の気が引いた顔を小さく横に振った。

「……こんな恐ろしい事、もう止めようよ。
 こんなの、おかしいよ。
 翔太君は、学生なんでしょう? お母さんも入院してるんでしょう?
 それなのに……どうして、こんな事を……」

 すると翔太は急に手を引き、困惑した顔つきになると、背中を丸めて溜息をついた。

「俺さ……実は、法学部なんだよね。
 マジメに勉強して、何とか受験に合格したわけ。
 それまでは結構バカやってたからさ」

 苦笑する翔太の瞳は、苦悩の暗い影に覆われていた。

「だから……零さんが言いたい事は判るよ。
 普通の学生は、こんな事、やらないだろうから。
 やっちゃいけない事だっていうのも、ちゃんと自覚してる」

 天を仰ぎながら、足をぶらぶらさせた翔太は、ふと監視カメラに目を向けると、慌てて背筋を伸ばした。

 その瞬間、頼りなげな表情が隠され、先ほどまでと同じ強気な顔になる。

 その表情の変化を見つめていた零は、鈍くなっていた心でさえ疑問を感じた。

 いったい、翔太は何を恐れているのだろうか──?

 しかし翔太は、首をひねって零を見返すと、挑みかかるような笑みを浮かべた。

「だけど、俺は鷲塚サンには負けない。
 どんな汚い手を使っても、最後は必ず勝ってみせる」

 顔に冷たい薄笑いを張り付けたまま、翔太は立ち上がった。

「鷲塚サンには、プレゼントを残してきたんだ。
 零さんが、俺の手の内にある以上、あの人は自由に動けない。
 零さんを見殺しにでもしない限りね」

 プレゼントというのは、あのホルマリンに入った薬指だろうか?

 愕然と目を見開き、唇を震わせる零を見下ろし、翔太は笑顔でひらひらと片手を振った。

「じゃあ、明日、また遊びに来るよ。
 もうバイトも無いから、ゆっくりしていられるしね」

 最後に「おやすみ」と言い残し、翔太は部屋から出て行った。

 そして、零はまた、一人になった。



 鍵がかけられ、「準備中」の札がかかったドアを叩くと、まだ『カッツェ』の店内に残っていたマスターの丹波が顔を出した。

 丹波は驚愕した顔で鷲塚を見上げ、その後ろに続く東山を見て不審の表情を浮かべる。

「──何か、あったんですか?」

 すぐに二人を店内に招き入れた丹波は、ただならぬ気配を感じ取ったのか、ためらいがちに訊ねた。

 その問いには答えず、鷲塚は丹波に淡々と聞き返した。

「田中翔太の居所を知らないか?」

 丹波は呆気に取られたように目を丸くし、戸惑った様子で頭を掻いた。

「……翔太が、どうかしたんですか?」

 鷲塚が答える前に、東山が横から口を挟んだ。

「翔太君、ちょっとトラブルに巻き込まれてまして。
 悪い輩が、彼を探し回っているんです。
 我々としては、先に彼を保護しなければと──」

 東山は愛想笑いを浮かべながら、自分の名刺を差し出す。

 その肩書きを見つめた丹波は、さらに困惑の色を深めて首を傾げた。

「入院中のお母さん……田中弥生さんから事情を聞いて来たんですが、肝心の翔太君がどこにも見当たらないんです。
 携帯にも電話を入れているんですが、全然繋がらなくて。
 弁護士の功刀先生にも問い合わせている最中ですが、もしかするとマスターだったら、何か心当たりがあるんじゃないかと──」

 東山は平然と嘘をつき、困っているような表情を浮かべる。

 すると丹波は、エプロンのポケットから、一通の「退職届」を取り出した。

「実は、私も途方に暮れていたところで……。
 翔太は、体調が悪いといって早めに帰ったんですが、事務所にこれが残されてました」

「中を拝見しても?」

 東山が問うと、丹波はうなずき、困惑顔のまま鷲塚を見上げた。

「鷲塚さんがいるなら、ちょうど良い。もう一つ、翔太の置き土産があるんです」

 そう言って、丹波は店の奥に引っ込んだ。

 退職届には、「一身上の都合で辞めさせていただきます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と直筆らしき文字が並んでいた。