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Fatal Doll



<52>



 頭から熱いシャワーを浴びた途端、零の双眸から堰を切ったように涙が溢れ出した。

 おそらく、バスルームの中にも監視カメラは仕掛けられているのだろう。

 だが、人の目を気にする余裕も無く、零は必死に嗚咽を堪えながら、肩を震わせた。

 バスルームの外には、まだ翔太がいる。

 こんなにも打ちのめされ、動揺していることを、彼にも、他の誰にも、知られたくなかった。

 泣き声を立てないように零は口を塞ぎ、どうしてもこぼれてしまう小さな呻きが、せめてシャワーの水音で掻き消されることを願った。

 だが、まるで緊張の糸がプツリと切れてしまったかのように、慟哭が溢れる。

 生きているだけマシだとは、とても思えない──他人(ひと)とは違う肉体を嘲られ、存在を否定されるかのように、暴力的に犯されたのだ。

 それでもなお、おぞましい媚薬に狂わされた躰は、御山の歪んだ欲望を受け入れ、心を置き去りにして幾度となく絶頂を極めた。

 心と躰がバラバラに崩れてしまいそうで、魂が悲鳴を上げている。

 鷲塚響子の痩せ衰えた顔に浮かぶ虚ろな微笑を思い出しながら、零は、彼女が抱え込んで耐えきれなかった苦痛と絶望に直面していた。

 底の無い苦しみと悲しみに落ちた響子の精神は、残酷な悲劇に引き裂かれていった。

 彼女と同じように壊れてしまえば、楽になれるのだろうか?

 だが、鷲塚の存在が、ふらふらと狂気へと誘われそうになる零をいつも引き戻し、この世界に縛り付ける。

 果てしない波間を漂う小舟が、大きな錨で港に繋ぎ止められているように。

──御山の真の狙いは、鷲塚を抹殺すること。

 翔太の言葉を思い出した瞬間、零は震える唇を噛みしめ、シャワーのバルブを閉めた。

(私は……海琉を守りたい──殺させたくなんかない……)

 涙を振り切るように、パーテーションで仕切られたシャワースペースから出た零は、温かな湯で満たされたバスタブの中に身を沈めた。

 冷え切っていた躰の中にじんわりと熱が染みこむと、無意識にほっと溜息がこぼれる。

 膝を抱えたまま、白い湯気が立ち上る水面を見つめていた零は、激しい不安に駆られる心の中で鷲塚の面影を思い描いた。

(海琉──私は……どうすればいいんだろう?)

 翔太が言っていた事が真実だとすれば、御山は鷲塚の命を狙い、殺そうとしている。

 拉致された零を捜す鷲塚は、果たして、その事に気づけるだろうか?

(……どうにかして……海琉に、知らせる事ができれば……)

 万が一、鷲塚が命を落とすようなことになれば、荒神会という組織もまた大きく揺らぐ。

 零一人を助けるために、これ以上、鷲塚を危険にさらしてはいけないのだろう。

 御山の目的を知ることができれば、鷲塚は用心して、彼自身の身を守るための作戦を立ててくれるだろうか。

「──助けに来てって……もう、言えないよ」

 誰よりも大切な人を、死なせてはならない。

 呟いた零は、新たな涙がこぼれそうになるのを堪え、そのまま湯面に顔を浸けた。

 鷲塚の腕の中で、何も知らずに微笑んでいることができれば、どれだけ幸せか──。

 湯から顔を上げた零は、甘い夢想に浸り込みそうになる心を撥ね付けるように、頭を左右に振った。

 濡れた髪から、ぱらぱらと水飛沫が飛び散り、小さな波紋が生まれる。

 気を抜けば揺れ動く感情を抑え込み、零は思考に集中しようとした。

 自分の不幸を嘆いている暇は無いのだ。

 陵辱シーンをビデオカメラで撮影した翔太は、それを鷲塚の元に送りつけ、おそらく次の行動へと移ろうとしている。

 身代金を要求すると言っていたが、その過程で、鷲塚を殺害しようとするかもしれない。

 だが、対策を考えようとすると、そこで思考がストップして混乱し、自分がどうすれば良いのかというところまで飛躍できない。

(──だから、いつも……海琉に『バカだ』って言われるんだけど……)

 思わず泣き笑いを浮かべていた零は、そのままずるずると浴槽の中に頭まで沈めた。

 温かい湯の中にいると、束の間、穏やかな静寂に包まれる。

 大きく響く心臓の鼓動を数えていた零は、荒立っていた心が少しずつ鎮まってゆくのを感じていた。

 これ以上、御山に弱みを見せてはいけない──何があっても毅然として、冷静に振る舞わなければならない。

 そうでなければ、鷲塚を助けることなどできないだろう。

 息苦しくなるのと同時に湯面から顔を上げた零は、湯と共に流れ落ちてくる涙を堰き止めようと、両手で前髪を掻き上げた。

 大きく息を吐き出し、バスタブから立ち上がると、零はふと人の気配を感じ、そちらに視線を向けた。

 バスルームのドアに寄りかかるようにして、御山が腕を組んでいる。

 その姿に気づき、零は愕然としながら、全身を硬く強張らせた。

 何を考えているのか判らない瞳で、零を見つめていた御山は、棚に置かれていたバスタオルに手を伸ばし、無造作に放り投げた。

 バスタオルは、二人のちょうど真ん中辺りの床に落ちる。

 御山は、零が次にどう行動するのか観察するように、冷ややかな眼差しを注いでいた。

 逃げ出せるものなら、この場から逃げ出したい──本能的な恐怖に突き動かされ、全身がガタガタと小刻みに震え始める。

 躊躇するように瞳を揺らした零は拳を握り締めると、バスタブから足を踏み出し、床に落ちたバスタオルを拾い上げた。

 口を噤んだまま、濡れた躰を隠すようにバスタオルを巻き付けた零は、思い切って御山に向き直った。

「──部屋を……変えて下さった事は……感謝します」

 恐怖と嫌悪感を必死で抑えながら、零がようやく言葉を吐き出すと、それを聞いた御山はやや驚愕したかのように片眉をつり上げた。

「思っていたより、お前は気が強いようだ。
 ヒステリーを起こして泣き喚くか、私に媚びてくるか……そのどちらかだろうと思っていたがな」

 御山は唇を微笑の形につり上げると、組んでいた両腕を解き、零の方へと歩み出した。

 躰の震えを止めることはできなかったが、零は必死にその場に踏み止まり、眼前に立った御山を睨みつけた。

 虚勢を張る零の顔を見下ろし、御山はくくっと喉を震わせて笑う。

 そして突然、片手を伸ばして零の首を捕らえ、シャワーブースの壁に躰を押しつけた。

「お前が鷲塚のオンナでなければ、とっくに他の女と同じようにシャブ漬けにして、男たちに輪姦(まわ)させていただろう。
 使い物にならなくなったら、切り刻んで臓器を売り払えばいい。
 中国や中東の裏バザールで売ることもできる。
 たとえ殺さなくとも、お前の存在を消す方法はいくらでもあるということだ」

 御山の口から淡々と語られる言葉に、零は全身から血が引くような恐怖を味わった。

 膝が震え始め、躰を支えられなくなりそうだった。

 御山が手を放せば、その場に崩れてしまったかもしれない。

 それほど、瞬きもせずに見すえてくる御山の瞳は、暗く鋭く、心が押し潰されてしまいそうな迫力があった。

「もっとも……お前自身に価値が無くなれば、すぐにそうなる。
 しばらくは楽しめそうだが、無用な物を傍に置いておくほど、私は酔狂ではない。
 せいぜい、私を飽きさせないよう、努力することだ」

 零は怯えきった心を奮い立たせ、御山の双眸を見返した。

「あなたも、翔太君も……海琉が必ず、私を助けようとするって考えてる。
 でも、海琉は、あなたと同じヤクザでしょう?
 私がいなくなれば、海琉はまた別の誰かを選ぶかもしれない。
 あなた達がやろうとしている事は、無駄な事なのかもしれない。
 そういう風に……あなたは、考えた事はないんですか?」

 これほど顔が近くになければ聞こえないような小声で、零は必死に言葉を振り絞った。

 その途端、御山は双眸を険しく眇め、零の喉を絞める手に力を込めた。 

「鷲塚が、お前を見捨てるかもしれない──お前は、そう疑っているのか?」

 厳しい声で聞き返した御山は、急にくつくつと笑い始めると、揶揄するように告げた。

「鷲塚がどう出るかは、直に判ることだ。
 お前を拉致した事は無駄ではないと、私は確信しているがな。
 そうでなければ、これほどの手間をかけさせはしなかった」

 御山は唇を歪めて冷酷な微笑を浮かべると、零の喉元を押さえていた手を緩め、白い首筋を愛撫するようになぞった。

「だが……もし鷲塚がお前を見捨てたなら、これまでの手間賃代わりに、お前にはしばらく私の下で働いてもらおうか。
 殺すことはいつでもできるが、女の躰は金の成る木だ。
 お前のこの躰でも、群がる男はいくらでもいるだろう。
 むしろ物珍しさに、上客が付く可能性は高い」

 巻き付けたバスタオルの上から、躰の形を確かめるように掌を這わせた御山は、青ざめて震える零の耳元で囁いた。

 零はバスタオルを両手でぎゅっと押さえたまま、嘲笑する御山と目線を合わせ、できるだけ淡々とした声で告げた。

「……あなたと海琉は……よく似ている。
 彼に捕らわれた時、同じような事を言われて、脅された。
 私は何もできなくて……怖くて、死んでしまいたいと思ってた」

 ありのままを告白する零を見返した御山の目が、訝しげに細められる。

 零は一度口を閉ざし、深く息を吸い込むと、冷たく光る男の双眸を強く睨みつけた。

「だけど海琉は、手下を使って私を押さえ込んだりしなかったし、変なクスリを使ったりもしなかった。
 そういう人だったから、私は彼を愛した。
 あなたとは全然違う──あなたは、卑怯です」

 その瞬間、御山の瞳が殺意をはらんで底光りし、両手で喉を締め上げられた。

 零は抵抗するようにもがいたが、男の手は緩まず、息が止まりそうになる。

 正面切って非難を浴びせたのだから、殺されても仕方がないと思った。 

 だが、窒息の苦しみに唇を喘がせた時、突然御山の力が緩み、キスで口が塞がれた。

「……いや……止めて……ッ!」

 押し返そうと突っ張る両手を掴まれたまま、零は唇を奪われ、拒絶の言葉を封じられた。

 滑り込んできた舌を噛もうにも、骨が軋むほど顎を押さえられ、動くことができない。

「──うぅっ…んっ……ぐぅっ……」

 まるで噛みつくように唇が重なり、口の中を蹂躙される。

 顔を背けることもできず、食い千切られそうな激しさで舌を絡め取られていた零は、ようやく口づけが離れた時、苦しげに呟く御山の声を聞いた。

 誰かの名前を呼ぶ声──だが、眩暈を感じて頭の中に靄がかかると、零は喉を反らし、空気を求めて口を喘がせた。

 そんな零を押さえ込んでいた御山は、耳朶に唇を押しつけ、低く囁いた。

「私を挑発したんだ。覚悟はできているんだろうな?」

 暗く沈んだ御山の声には、ぞっとするような冷酷さと、獣じみた残虐性が潜んでいた。

 耳の穴に吹き込まれたその言葉に、零の全身がざわりと総毛立つ。

 床に突き飛ばされた途端、御山の身から放たれる荒々しい殺気に打たれ、零の躰は怯えてすくみあがった。

 本能的に手足を縮めた零が、身を守るような体勢になると、濡れた髪をつかまれ、強引に顔を仰向かされる。

 殴られる──そう思った瞬間、零は恐怖に目を閉ざしていたが、降り注いできたのは冷え冷えと凍えた言葉だけだった。

「着替え終わったら、翔太と共に出てくるがいい。
 お前を、我が家に招待してやろう」

 思いがけない言葉に狼狽えていると、御山は零から手を離し、踵を返してバスルームから出て行った。

 ドアが閉まると、一気に安堵が押し寄せ、全身から力が抜ける。

 しばらく立ち上がれず、そのまま床にうずくまっていると、慌てた様子で翔太が駆け込んで来た。

「──零さん、大丈夫!?」

 心配を露わにした翔太の顔を見上げ、零は力無く微笑むと、震える肘を突っ張って上半身を起こした。

「……翔太君──カスミって、誰の事か、知ってる?」

 乱暴な口づけの最後に、御山が呻くように呟いた誰かの名前。

 その名前は奇妙なほどはっきりと、零の脳裏に留まっていた。

「香澄って……確か、昔、父さんから逃げ出したっていう人じゃなかったかな。
 噂によれば、あの人が唯一、モノにできなかった女だって聞いたけど……」

 零の前でしゃがみ込んでいた翔太は、怪訝な顔つきで首を傾げ、そう答えた。