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Fatal Doll



<63>



 すると翔太はわざとらしく溜息をつき、揶揄するように言った。

『いいのかなあ、そんな事言っちゃって。
 だいたい、身代金にGPSを忍ばせるなんて、ルール違反じゃない?
 真那ちゃんを迎えに行った連中から報告があったよ。
 零さんが死んでも構わないって考えているようにしか思えないんだけど?』

 明らかに精神的な揺さぶりを狙っている言葉。

 その朗らかな声音には、自分の計略が成功したという自信がうかがえる。

 だが、古谷の秘かな反撃も、真那が最後に忍ばせたGPSについても、翔太が気づいている様子は無かった。

「ルールを定めなかったのは、お前のミスだ。
 今時、ちょっと頭を捻れば、そのくらい考えつくだろうがな」

 あえて淡々と挑発すると、翔太は耳障りな笑い声を上げ、自らの優位を疑わぬ傲慢な口調で言った。

『じゃあ、今度はきっちりルールを定めようか。
 あなたは一人で、何の武器も持たずに丸腰で、これから指定する別荘に金を運ぶんだ。
 キッチンのテーブルに金を置いたら、すぐにその別荘を離れろ。
 こちらで金を数えたら、零さんは解放する。
 だけど、もしこの約束を破ったり、罠を仕掛けたりしたら、あなたは今度こそ零さんの死体と対面することになるよ』

 一方的にそう告げ、翔太は電話を切る。

 幼さの残る甲高い笑い声が、鷲塚の鼓膜に不愉快な残響を残した。




 指一本を動かすのさえ億劫だった。

 体中の関節が痛み、少しでも動かそうとするとギシギシと軋みを上げそうな気さえする。

 穢された躰を洗い清めるだけで、わずかに回復した体力を使い切り、零はベッドの中にもぐり込んでずっと丸くなっていた。

 手足を縮め、真っ暗な毛布の中に隠れていれば、ほんの少しは安心できる。

 たとえ包み込んでくれる温かな腕が無くても──。

 だが、そんなささやかな安寧さえ、長くは続かなかった。

 突然、零が被っていた上掛けが剥ぎ取られ、眩い照明の光が瞼の裏を刺す。

 零はぎくりと全身を強張らせたが、もはや飛び起きるような力は残っておらず、のろのろと枕元に落ちてきた影の主を仰ぎ見た。

「起きろ。鷲塚の姿を、お前にも見せてやろう」

 携帯電話を左手に持っていた御山は、冷淡な口調で零にそう言うと、部屋に備え付けてあったテレビのリモコンを反対側の手で操った。

 外部映像に切り替わると、家庭用ビデオカメラで撮影されたとおぼしき渋谷駅前の風景が映し出される。

 スクランブル交差点を挟んだ斜向かいからの撮影。

 時刻表示が示しているのは、午前6時。

 クローズアップして映し出されたのは3人の人影──その中でも、ひときわ目を惹く、サングラスをかけた長身の男に釘付けになり、零は裸身にバスローブを羽織っただけの姿であることも忘れて、テレビににじり寄った。

 画像は荒いが、見間違えるはずもない。

「……海琉」

 不意に冷たく凍えていた躰が熱くなり、温かな血が全身に通ったように感じた。

 いつの間にかベッドから降りていた零は、震える指先を伸ばし、テレビ画面に押し当てていた。

 会えなくなってから、どれくらいの時間が過ぎたのか──。

 日数にして数えれば、それほど日にちは経っていないはずであるのに、もう何年も、何十年も離れ離れになってしまっているような気がした。

 不意に涙が湧き上がり、視界がぼやける。

 だが、零は瞬きをしないまま、鷲塚を見続けていた。

 その姿を見失わないように……そうして、会いたいと、思いが募った。

 しばらくの間、鷲塚を食い入るように見つめていた零は、その隣に小柄な真那の姿を認めると、はっと息を止めて眉根を寄せた。

「……どうして、真那まで巻き込んだの?」

 思わず声に怒りが混ざった。

 御山への恐怖を一瞬忘れ、零がきつく睨みつけると、男は冷酷な微笑を湛えたまま肩を竦めた。

「ファントムが会いたがっていたそうだ。
 だが、拉致するのは失敗したらしい。
 もっとも、私としては、どうなろうと知ったことではないが」

 まるで他人事のようにそう言うと、御山は手にしていた携帯電話を零に差し出した。

 不審を感じながらそれを受け取り、零が耳元に持っていくと、場違いなほど明るい翔太の声が響いてきた。

『零さん、俺が送ったビデオ、見てくれた?
 ああ、そうそう……零さんのメッセージ、鷲塚さんに伝えておいたよ』

「……え?」

 とっさに何を言ったのか思い出せず、零が戸惑いの表情を浮かべると、それを察したように翔太はくすくすと笑い声を響かせた。

『忘れちゃったの? じゃあ、せっかくだから、声も聞かせてあげるよ』

「ちょっと待ってね」と告げる翔太の声が遠くなり、すぐに録音されていた音声がスピーカーから流れ出した。

 翔太と鷲塚が交わした会話。

 残酷な悪戯を楽しむような翔太と、そして、応じる鷲塚の低く鋭く響く声。

 録音されたものであるにも関わらず、その声が耳元で響いた瞬間、零の躰が反応した。

 背筋に電流が走り、全身の皮膚が粟立つ──恐怖ではなく、あたかも歓喜に打ち震え、波立つように。

『愚問だな。俺が零を諦めると思っているのか?
 零に伝えろ。
 俺が迎えに行くまで、良い子にして待っていろ、と』

 まるで、すぐ傍で叱責されたような気がした。

 頭の中が真っ白になり、ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝い落ちて行く。

(海琉──ちゃんと待っていれば……迎えに来てくれる?)

 絶望の中に差し伸べられるその手を、しっかり掴むことはできるのだろうか──。

 もう一度、鷲塚の腕の中に戻れるのだろうか……許してもらえるだろうか?

 ところがその時、テレビの映像が突然切り替わった。

 はっと零が我に返ると、携帯電話の向こうから、淡々とした翔太の声が響いてきた。

『そろそろ、鷲塚さんが到着する頃だからね。
 オヤジも見たがってるし、そっちにライブ映像を送るよ』

 テレビに映し出されているのは、薄暗く沈んだ部屋の映像だった。

 赤外線カメラで撮影されているのだろうが、色彩の無いモノクロの風景が、どこかの家のキッチンだということはすぐに判った。

 鷲塚と翔太の会話の中で、別荘という言葉が出てきたことを思い出す。

 おそらくここが、鷲塚が誘き出された場所なのだろう。

 天井に設置されている監視カメラは、ゆっくりとした動きで左右に移動し、キッチン全体を映し出していた。

 そして、キッチンの壁に寄りかかるようにして、一人の男が座り込んでいる姿が見えた。

 手足を縛られているのか、身動きすることもできずにうなだれ、どうやら口に猿轡を噛まされているようだった。

「……あれは、誰?」

 思わず口を突いて出た零の問いに、ベッドの端に腰を下ろしていた御山が答えた。

「名前は知らないが、鷲塚の舎弟だろう。
 ここ最近、私の後をつけ回していた男だ」

 零が驚愕の面持ちで振り返ると、御山は唇を薄くつり上げ、これから始まる映画を楽しむかのように足を組んだ。

「保身のために、鷲塚がこの男を見殺しにするかどうか、見物だと思わないか?」

 鷲塚との電話の中で、翔太は「金をテーブルに置いて、別荘から離れろ」と指示していた。

 だが、ここに捕らわれている男を、鷲塚はきっとすぐに見つけるだろう。

 仕掛けられた何かの罠だと、鷲塚は察するだろうか──?

「……いったい、何を企んでいるんです?」

 きつい口調でそう問うと、御山はおかしげにくつくつと笑い、不意に腰を上げて、床に座り込んでいる零の腕をつかみ取った。

「気を失うまで責め抜いてやったのに、まだそんな目つきができたとは驚きだ。
 そんなに鷲塚が恋しいか?」

 必死に抗おうとする零の躰を易々とベッドに抱え上げ、御山は背後から羽交い締めにしたまま耳元で囁いた。

「鷲塚が死ねば、お前は私を恨み、憎むだろう。
 だが、逃げられると思うな──このまま、死ぬまで飼い殺しにしてやる。
 お前が憎しみを向けてくるたびに、私はこれまでの溜飲を下げることができる」

 くくっと喉を鳴らし、御山は仰け反った零の首筋に口づけ、舌を這わせた。

 その恐ろしい言葉にぞっとして、再び肌が凍りつきそうになる。

 御山の腕から逃れようと、零が左右に身を捩った時、テレビ画面に変化が起こった。

 閉じていたキッチンのドアがゆっくりと開き、ジュラルミンケースを持った男が画面に現れる。

 男が照明のスイッチを探すように壁際に手を伸ばすと、部屋がぱっと明るくなった。

 抵抗することも忘れ、動きを止めた零は、テレビ画面を食い入るようにじっと見つめた。

 鷲塚は、朝と同じサングラスを掛けたままだった。

 瞬きもできず、零が大きく目を瞠って見つめていると、監視カメラが右方向に移動し、一瞬、その姿が隠れる。

 そしてまた、カメラがその姿を捕らえた時、鷲塚はテーブルに歩み寄り、ジュラルミンケースを上に載せるところだった。

 踵を返したところで、縛られていた男の姿に気づき、鷲塚は躊躇することなくその傍に近づいてゆく。

 いつの間にか、零は息を止めていた。

 何かが起こる……その予感──心臓の鼓動が、騒がしいほど大きく響いている。

 零の躰をまさぐっていた御山もまた、息をひそめ、成り行きを注視しているようだった。

「……逃げて……お願い、逃げて──海琉」

 迫り来る、恐ろしいものから。

 だが、鷲塚は男を縛っていたロープを解くと、怪我をしているその男に肩を貸し、床から立ち上がらせた。

 そのまま二人でドアに向かおうとした時、突然、キッチンの電気が消えた。

 画像も真っ黒になったが、すぐに赤外線カメラに切り替わる。

 その瞬間、暗闇の中に閃光が走った。

 監視カメラからは音声が入らないため、キッチンで何が起こっているのか、とっさに零は理解できなかった。

 まるで、モノクロームの無声映画のように見える。

 だが、鷲塚の長身が揺らぎ、支えていた男もまた大きく仰け反って、床に崩れ落ちた。

 仰向けに倒れる男に引きずられるようにして、鷲塚が転倒する。

 キッチンのドアの陰から、繰り返し瞬間的な光が明滅していた。

 鷲塚たちが銃撃されているのだと悟った瞬間、零は悲鳴を上げることもできず、息を引き攣らせていた。

「……海琉……ッ!」

 その間にも、ドアの向こうから射撃が繰り返され、キッチンの床に黒々とした水溜まりが生まれてゆく。

 折り重なるように倒れた二人をそれ以上は撮さず、カメラは無情に人のいない場所にレンズを向けた。

 戻った時には、黒い水溜まりの中で、男が二人動かなくなっていた。

「……いや……嫌だ……こんなの、嘘……嘘だ……」

 音声の無い映像を呆然と見つめたまま、零の躰は小刻みに震え初めていた。

 喘ぐような浅い吐息に混ざった声は、掠れきった音にしかならない。

 そんな零を抱き留めていた御山は、深い溜息をつくと、「呆気なかったな」とひどく乾いた声で呟いた。

 画面の中では、部屋の電気をつけた黒ずくめの男たちが、二人の死亡を確認するように近づき、首の脈を確かめようとしている。

 その中には、あのファントムもいて、零は声にならない悲鳴を上げていた。

 何も判らなかった。

 目の前で起こった惨劇が、真実だとは思えない。

「……違う……違う……あれは、海琉じゃない……」

 混乱の中で、零は御山の手でベッドに押し倒され、あたかも悲鳴を封じるように、唇を塞がれていた。

 口の中に忍び込んでくる生ぬるい感触──。

 何もかもが狂える悪夢と化した。