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Fatal Doll



<64>



 完全なる敗北──大切な人を守ろうとして、自らの手で失った。

 敵の掌で踊らされているとも知らずに……。

 敗北感と絶望が全身に染み渡ると、心までボロボロに崩れそうになる。

 顔を上げることもできず、翔太は床の一点を見つめ、うなだれたまま虚ろな笑いを響かせていた。

 ところが次の瞬間、側頭部に強い打撃が走り、床に跳ね飛ばされる。

 痛みと衝撃で我に返った翔太は、眩暈を振り払うように頭を振った。

 何度か瞬きをしながら鷲塚を睨みつけると、その腕の中に母親が捕らわれている姿が見える。

 痩せ細った顎を仰のかせるように押し当てられた、鈍色の拳銃──。

「か、母さんを離せ! 母さんは関係無い! 殺すなら、俺にすればいいだろ!」

 とっさに食ってかかると、鷲塚は冷酷な鋼の双眸をすっと細めた。

「零を巻き込んだのは誰だ?
 零は貴様らを傷つけたことがあったか?」

 冷静な鷲塚の低い声音に、抑えきれぬ激しい怒りが混ざり込む。

 今まさに飛びかからんとする猛獣の威嚇──吹きつけてくるような凄まじい殺気に、翔太は声を失い、すくみ上がった。

 だが、それは一瞬のこと。

 鷲塚は、自ら苛立ちを断ち切るように視線をドアに向けると、青ざめている翔太を促すように顎をしゃくって見せた。

「貴様の母親は、零が戻るまで預からせてもらう。
 死なせたくなければ、大人しくついて来い」

 一瞬呆気に取られ、唖然と鷲塚の顔を見上げていた翔太は、哀願するような母親の顔に気づくと、ふらふらと立ち上がった。

 頭の芯がぶれているように、視界がまだわずかに揺れる。

「……いったい、どうする気だよ?」

「御山から零を取り戻す。それ以外に何がある?」

 氷の表情を崩すことなく言い切った鷲塚は、口を開きかけた翔太を一瞥で黙らせると、待機させていた車に二人を乗り込ませた。



「まったく……無茶をするにも程がある。
 何事も無かったから良かったものの、返り討ちに遭っていたらどうするんです?」

 武闘派として鳴らす高宮らしくもない慎重な苦言に、車に戻った鷲塚は唇の片端を薄くつり上げた。

「奇襲は兵法の常道だ。
 向こうは俺を殺したと思い込んで、油断しきっていただろうからな」

「だからと言って、何も若頭が一人で乗り込まなくても良いのでは?」

 気が治まらないのか、高宮が嘆息をもらす。

 リアシートに背を預けた鷲塚は、無数の街灯が輝く夜景に目を向けた。

 渋谷駅を離れたところで功刀と入れ替わってから、鷲塚は秘密裏に翔太の行動を監視し、彼がアジトにしている家のセキュリティを東山の制御下に置かせた。

 今までの行動から推理すると、翔太は自分の身を安全圏に置いたまま指示を下し、手下を動かそうとする。

 今回は広範囲に渡っているため、翔太が動かすことのできる人数はむしろ限られる。

 手勢を分散させるなら、自分の身を守る人数は、必要最低限にならざるを得ない。

 たとえ非常事態に陥ったとしても、召集できる味方は遠く離れており、間に合わない。

 そのような情況ならば、鷲塚一人で制圧することなど簡単だった。

 むしろ、大人数で乗り込んだ方が、騒ぎになって御山に気づかれる可能性が高くなる。

「──次はどうするつもりです?」

 諦めにも似た声音で、高宮が再び問いかけてくる。

「御山が零を手放さなくてはならない情況を作り上げる。
 あいつの狙いは、間違いなく俺だ。
 かと言って、北聖会を潰すような真似はできないだろう。
 それは、こちらも同じだが……」

 足を組んだ鷲塚は、センターコンソールに寄りかかるようにして肘を突き、視線を宙に向けた。

「……サツへのタレコミは?」

「終わってます。
 上橋が直前まで御山の本邸にいたと聞いて、食いついてきましたよ。
 犯人が出頭したようですが、不自然な点があると不審に思っているようです。
 面倒を嫌って通り一遍の捜査になるでしょうが、北聖会のドンが絡んでいるとなると、話が変わってくる。
 すでに、北聖会の本家周囲には、私服が張り込んでいるようです」

 北聖会の直参であり、二次団体鶴宗会の若頭である上橋茂が、乱闘に巻き込まれて死亡したと伝えられる事件。

 その後、犯人は自ら警察に出頭し、酒に酔った末の犯行だったと自供した。

 犯人は、北聖会には何の縁も無い人間。

 自分が殺した相手が、極道であることも、北聖会に属していることも知らなかった──表向きはそうなっているが、実際には確実に御山の息がかかっているのだろう。

 御山の制裁によって殺害された場合と、一般人が引き起こした偶発的な殺人事件では、全く事情が異なってくる。

 上橋殺害の真相を、御山が闇へ葬ろうとしているのは確実だった。

「……なら、陣中見舞いに行ってやろうか」

 鷲塚がくくっと喉を鳴らすと、助手席の高宮は呆れたように宙を仰いだ。

「まさか、また一人で乗り込むつもりですか?」

「出入りじゃない。ただの話し合いだ。
 マル暴のヤツらにも、そう教えてやれ」

 鷲塚はそう告げながら、拳銃を収めたホルスターを外した。

「丸腰で行くんで?」

「銃刀法違反で捕まるのはゴメンだ」

 不敵な微笑を口の端に閃かせた鷲塚は、ゆったりとシートに身を預け、胸の奥から深い溜息をもらした。

「事務所に一度戻れ。車を変える」

 そう指示した後で瞼を閉ざし、息を吸い込む。

──翔太は上手くやるだろうか?

 ふと、脳裏に疑念が過ぎったが、鷲塚は己自身への問いに答えることなく、束の間の休息に身を委ねた。




 何故、こんな所で、こんな風に生きているのだろう?

 ソファに座った御山の膝に頭を寄りかからせたまま、零はぼんやりとした視線をテレビに向けていた。

 モニターで繰り返し流される映像──暗闇の中で光がフラッシュし、明るくなると血塗れになった男が二人、床に倒れている。

 翔太から送られてきた映像を、御山は先ほどから繰り返しリピートさせている。

 興奮の醒めた冷ややかな眼差しは画面に据えられ、眉間に刻まれた皺は深い。

 まるで、何かを疑い、考え込んでいるような表情だった。

 そして、その手は時々、戯れに零の髪を梳く。

 さらさらと指の間から流れ落ちる感触を楽しみ、弄ぶように……。

(あれは……海琉じゃない──そうでしょう?)

 心の中で幾度となく問いかける。

 息をすることさえ苦しい……そう思っていなければ、胸の奥にある何かが弾け飛んでしまいそうで。

 だが、答えてくれる人はいない。

 白昼夢の中に血塗れになった鷲塚の姿が浮かび上がると、壊れてしまった零の涙腺から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

 その時、テレビのモニターを見つめていた御山が、愛犬をあやすような手つきで零の顎をなぞり上げた。

「お前はどう思っている、零?
 あの鷲塚が、これほどあっさり殺られるとも思えないが。
 私が知っているあの男は、もっと冷酷に、狡猾に立ち回るはずだがな」

 そのまま仰向かされると、皮肉げな微笑を湛えた御山の顔が視界に飛び込んでくる。

 零は、御山の手から逃れるように顔を背け、かすれた声で呟いた。

「──あれは……海琉じゃない……」

 鷲塚が、自分を置いて逝ってしまうはずがない。

 きっと、助けに来てくれる……今はただ、そう信じていたい。

 そうでなければ、何故ここに生きているのか、判らなくなってしまう。

 すると御山はくすくすと笑い、嫌がる零の躰を絡め取ると、ソファの上に押し倒した。

「不思議なものだな──今は、お前の言葉を信じてみたくなる」

 いやいやと首を振り、無意味な抵抗をする零の喉輪に手をかけた御山は、互いの額を触れ合わせるようにしてそう囁きかけた。

 はっと驚きに目を瞠り、零は呆然と御山を見返した。

「海琉は……生きているの……?」

 すがりつくような眼差しを見せる零を見下ろし、御山は謎めいた微笑を浮かべた。

「さあ、どうだろうな。
 本当に死んでいるなら嬉しいが……それはそれで、寂しくもある」

 秘やかな囁きと、降り注ぐキス。

 思考が止まり、束の間呆然としていた零は我に返ると、虚しくもがきながら、御山の下から逃れ出ようとした。

 たとえ、その抵抗が男を悦ばせるだけだと判っていても、受け入れたくはない。

 御山はそんな零を嬲るように、泳がせ、力ずくで屈服させようとする。

 その時、突然部屋のドアが荒っぽくノックされ、狼狽した顔つきの翔太が息せきって飛び込んできた。

「──父さん、助けてよ! 鷲塚が生きてたんだ。ここに、追いかけてくる」

 不快感を露わにする御山の傍に駆け寄り、翔太は必死の形相でそう懇願した。

 その言葉を聞いた瞬間、御山の双眸が険しく細められる。

 零もまた、幻聴なのではと疑い、ソファから起き上がれずにいた。

「どういう事なのか、判るように説明しろ」

 厳格な面持ちになった御山を見返し、翔太はおろおろしながらドアを振り返った。

 あたかも背後に鷲塚が潜み、この瞬間にも現れるのではないかと恐れるように──。

「……あ、あいつ……身代わりを用意してたんだ。
 俺たちは、ずっと騙されてたんだ。
 俺が殺させたのは……鷲塚じゃなくて、彰丈さん……功刀さんだったんだよ!」

「それでお前は、おめおめと逃げ帰ってきたというわけか」

 御山の声が冷え冷えと凍え、すがりつこうとする翔太を拒絶する。

 翔太は呆然と立ち尽くし、困惑するように視線を揺らした。

「お前に少しでも期待をかけた私がどうかしていたようだ」

 ひとつ嘆息をもらした御山はソファから立ち上がると、開け放されたままのドアの方へ足早に向かう。

「翔太と零を、ここから絶対に出すな」

 部屋の外で、どうしたものかと当惑している二人の男に、御山は冷然と命じる。

 大きな音を立ててドアが閉まると、翔太はほっとしたように溜息をつき、ソファに座り込んでテレビのリモコンを操作し始めた。

「……海琉は……生きているの?」

 倒れたまま話を聞いていた零は、のろのろと躰を起こし、険しい顔つきになっている翔太にそう問うた。

 翔太は零の顔を見返すと、ひどく自嘲的な笑みを浮かべた。

「言った通りだよ──俺は、鷲塚サンに一杯食わされたってわけ。
 嬉しいでしょう、零さん?
 もうすぐ、鷲塚があなたを迎えに、ここに来るよ」

 驚愕のあまり零が大きく目を瞠ると、翔太は肩をすくめ、テレビの画面に視線を戻した。

「……とはいえ、そう簡単に取り戻せるとは思えないけどね。
 まあ、あの二人がどういう会話を交わすのか、ここから見物してやろう」

 翔太がリモコンのボタンを押すと、御山邸の正門を撮す監視カメラの映像に、画面が切り替わった。